第二十一話 恋愛ゲーム
『ほんとどうしよう……』
嬉しそうに嫋やかな笑みを浮かべる川相仁美は内心、言いようの無い焦燥感に包まれていた。
彼女は自分の容姿、そして異性に対する振舞いに自信を持っている。その自信を背景にして生み出される冷静さは、常に自分の中に第三者を置いたような客観的視線を持ち合わせ、それらを活用してこれまでを生き抜いてきた。
その生き抜いてきた実績が誇りを生み出し、そのプライドは他者に良いように使われることを最も嫌っている。
だが、現在、相手のペースに絡め捕られたような、いいように使われてしまっているような空気を察知し、それが焦燥感となって内心を乱していた。
彼女にとって今回の恋愛は、大金のご褒美がベットされた恋愛ゲーム。チョロそうな雰囲気でも、いい大人であり、それなりの恋愛ゲームになることを頭に描いていた。
自分自身の全てを囮や撒き餌に使い、いいように男を操作して釣り上げ、釣った後は、うまみを吸い上げながら自己満足に酔いしれる。それが目的。
これまで男が彼女を使っている気分になった時、それは『彼女が想定する通りに使われてあげている』に過ぎなかった。
男を褒め、煽て、頼り、時には涙を使って心理的に支配し、気づかぬうちに、あらかじめ用意しておいた道に進んでいる。男が自ら喜んで道を進むよう操作することが醍醐味のゲーム。どちらが、より相手を自分の操り人形できるかを競うかの単純なゲームに過ぎなかった。
彼女は他者を直接的に支配するこの大人の駆け引きの恋愛ゲームを仄暗い快感を覚える程に好んでいた。
勝てば相手から幸せを吸い上げ、負ければ相手に幸せを吸い取られる。そんな人生の幸福値を賭けるスリルに生きている実感すら感じていた。
今回も、そんな『大人の駆け引き』に値する恋愛ゲームのギリギリを楽しむ心づもりで前哨戦である根回しをして、ゲーム開始とばかりに動き出したが、いざ蓋を開けてみれば、そこにあったのは中学生かと思う程なシンプルな恋愛ごっこ。
そこに駆け引きは存在しなかった。
当然のことながら中学生かと思う程なシンプルな恋愛ごっこであれば、彼女であれば目を閉じていても勝てる程の容易なゲーム。ほんの茶目っ気で駆け引きをすれば、いとも簡単に引っ掛かりすぎるのだ。押してみれば簡単に押し切られるし、引けばあっという間に押し寄せてくることも分かった。
だが彼女にとって、これほど厄介なことは無い。
押すにしろ引くにしろ、相手がアクションをすれば必ずどちらかに振り切れてしまう。その振り切れてしまうのが、あり得なかった。
今回も、ちょっと押しただけで相手は『好き』と言い、その証明と言わんばかりに一体どれほどの金をつぎ込んだのか分からない程の金を使って場を用意している。
劇団員を30人以上、塾講師を2名を丸2日は借り入れ、そして廃校を借り切って場所を作っている。廃校の利用は、その前までの学校という立ち位置から、それなりの利用制限がかかっているはずで、それを私用を目的に借りるのだから、どれだけの利益を管理者に渡しただろうか。
どこか懐かしさを感じる授業ごっこの中、そんな大金を使っただろう相手を優しく指導しながら彼女の中の第三者は客観的に思考を深めていた。
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今回の遊びに少なくとも2~300万円は使っているはず。
これが、ただラーメンを一緒に食べて、ちょっと押しただけで返ってきた成果と考えると、あからさまに異常。
そして、その成果の中には『好き』という言葉もあった。
『好き』と気軽に言う男は、それなりにいる。むしろ恋愛ゲームに慣れた男ほど驚くほど速く発する。会った初日に放つ男だって多い。だけれど、その好きという言葉は軽く発せられるだけあって非常に軽いのが常。
そういう男は自分にダメージや負担がある状態になれば、すぐに逃げ出す傾向も強い。
この『ダメージ』は、もちろん肉体的なダメージではなく精神的なダメ―ジが主になり、そのダメージの引き金となるのは時間と金。
相手の男が時間と金を使って返ってくる見返りが期待よりも少なかったり、これから更に使わせられることになると判断すれば即座に逃げ出すというのが恋愛ゲームに慣れた男のタイプ。今回の『好き』のタイミングは、それに近い。
だけれど、ここまでダメージを伴いながら、そう言ってくる男はこれまでいなかった。
この行動から考えられることは3つ。
ひとつは、ダメージを厭わない程に恋している可能性。
ひとつは、これくらいではダメージと感じない程に時間も金もある可能性。
ひとつは、そのどちらもある可能性。
これらの可能性から言えることは、これまでの相手同様のやり方では『危ない』
いや、既に危険域に達している可能性すらある。
恋愛ゲームで負けることは心底嫌だけれど、その勝ち負け以上に危険な可能性が現状出てきてしまっている。
相手を甘く見積もり過ぎていた。
まさかここまでチョロすぎるはずがないと。ここまで容易に金を使うはずがないと。そう侮っていた。
現状は『好き』と言われ、こちらも、つい『好き』と言って恋人同士となってしまっている。
同級生役の劇団員という第三者にも公言し承認されている。あくまでも学校ごっこのノリでという言い訳はできるだろうけれど、もう恋人同士という関係が成り立ってしまったと思っている彼に、そんな言い訳は通用しないだろう。
恋人同士という関係になった上で、3つの可能性を考えてみる。
彼がダメージを厭わない程に恋している可能性。
これは私にとって最も良い結果と言える可能性。恋愛ゲームとして見ても圧倒的勝利。私が望めば彼は何もかもを差し出すだろう方へと持っていける。彼の望むように手綱を握り、しっかりと道を作って彼を歩ませながら私が幸せになる。
次の、これくらいではダメージと感じない程に時間も金もある可能性。
これは、私がもっとも嫌な結果。最低と言っても差し支えない。なぜなら、彼の圧倒的資金力をもってすれば彼は『私をどうとでもすることができる』ことになるから。
何千万円や億の金を使っている姿を見た。5,000万円の寄付しようとする姿も見ていた。その圧倒的な資金力が牙を向くことで起こりうる事態は想像の幅が広すぎる。
単純に職を失う程度であれば軽傷も軽傷。100万円に満たない額を理由に殺人事件が起きるこの世界では、比喩ではない首を切られるという想像までできてしまう。その起こりうる全てを想定し避けるよう対処しなくてはならなくなるのだから、それはあまりに過酷で恐ろしい。
最後の可能性は、その天国と地獄の両方を味わい続けるという可能性。
『詰んでる』
自分の中の第三者がそう呟き、遅れるように自覚がやってきた。
既に私はまな板の上の鯉だった。
恋愛ゲームを仕掛ければ、相手が同じ土俵でゲームを楽しむ相手だと考えた時点で間違っていた。
恋愛ゲームで相手が本気を出してくれば、そもそも勝負にならない可能性はあったけれど、あまりに私自身が恋愛ゲームに慣れすぎて相手もゲームを楽しむものと見誤っていた。
結論。
あまりに相手が悪かった。故に『詰み』
完全敗北。
その言葉が頭を過った瞬間。
なぜだか、どこか肩の荷が下りたような気がしたのだった。
そして、次の瞬間、頭に言葉が生まれる。
『負けるが勝ち』
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「はぁ……」
川相さんが溜息をもらす。
「すみません。バカで。」
高校レベルの数学。難しいれす。いや、まじで。
「ふふっ、良いんですよ。ここは私が偉ぶれるところですから。それにこういう雰囲気とか、ちょっと懐かしい気もしますし。」
あくまでも授業ごっこの最中なので、こっそりと話をしているけれど、いやぁ可愛い川相さんの同級生バージョン。その笑顔にキュンキュン来ますな。こんな学校生活憧れてたわ。マジで。思わずニッコリ。
「……ねぇ吉成さん。」
「ん? なんです川相さん。」
「私のこと…………本当に好きですか?」
「知れば知る程に好きですね。」
「私、今、結構、真面目に聞いてますけど、本当に心からそう思ってますか?」
「うん。もっと知りたいと思うくらいに好きです。」
俺の言葉を聞き、なぜかじっと見てくる川相さん。
戸惑いつつも目をそらしちゃいけない気がして見つめながら、なんとか笑顔を作ってみる。
「ふふ、ふふふっ」
「あ、あれ? なんか変な顔でもしてましたか? 俺?」
やがて川相さんは視線を外し静かに笑い始め、その空気の変化に少し焦ってしまう。
「ふふ、ごめんなさい。ちょっとおかしくなっちゃって。」
「あれー?」
「はぁー…………吉成さん。」
「はい」
「もう恋人同士ですし、これからは忠幸さんって呼んでもいいですか?」
「それはもう! えっと……そしたら、えっと――」
「仁美です。よくヒトミと間違えられますけど、ちゃんとサトミって呼んでくださいね。」
「ふひっ、さ、サトミしゃん……」
思わぬ急展開に噛みますた。
こんなん噛んでも仕方ないと思うんや。
なんやこの急に、このこっち向いた感。なんなんや。なんやー!
思わず戸惑っていると、またサトミさんがこっちをじっと見ている。その視線につい、戸惑いがそのまま態度に出てしまう。
「忠幸さん……これから恋人として、やっていく上で、ひとつ。ただ、ひとつだけお願いをしても良いですか?」
「え、ええ! どんと来いですよっ!」
俺の言葉にサトミさんは、ゆっくりと静かに口を開く。
「私はあなたを裏切りません。
だからあなたも私を裏切らないでくださいね。」
「幸せになりましょうね。二人で。」
これまで見たことも無い程の可憐な笑みを浮かべ、川相さんはそう言った。
最後の川相さんの言葉を書いている時、モーツァルトのレクイエム2短調ケッヘル626番の合唱が流れていました。