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月の綺麗な夜であった。
昼間の立ち込めた雲は何だったのかと言いたくなるほどに、雲一つない綺麗な夜空。
星々の瞬くそこを駆け抜ける流星が青白い軌跡を描きながら消えていくのを見ながら、彼女はひたすらに歩き続けた。
彼女の目指す場所は遥かに遠くにあるようで、意外と近くにある、遠近感が狂う程の余りにも巨大な樹。雲を突き抜けて、月を掴み取るが如く枝を伸ばすそれ。
一つの街を飲み込む形で広がった根は捻れ狂いながら地表を這い、それを支えとした大樹の幹はまるで岩のように硬い。
《虚無樹》
《冥界》の中心に芽吹き、生者の世界に伸びる《生命樹》と繋がりながら、真逆に成長するそれは、《冥界》と現実世界とを繋ぐ唯一の存在だ。
「漸くだ・・・漸く、ここまで辿り着いたんだ・・・」
そう呟く彼女は既に息も絶え絶えだった。
左腕は肩の辺りから千切れており、左眼は失われ、元の色が分からぬ程に血で赤く染まったローブに、引きずる左足の感覚は殆ど残っていない。
虚ろに呟く彼女には思考など殆ど残っておらず、その反面ギラギラと輝く一つの瞳が唯一、彼女の身体を引っ張っているように見える。
そんな彼女にはただ一つの願いがあった。
絶対に叶わないと諦めていた、たった一つの、ともすれば、殆どの人間が当たり前に叶えられる筈の願いが。
ただーー。
この世界でその願いを叶えるのは、何よりも難しかった。
「あと、少しなんだ・・・」
闇がーー万人に死を与える絶望の闇が街を覆う。
己の足元すらも見えない闇の向こうから現れたのは骨、彼女の身体よりも大きい人の頭蓋骨。次いで、掌、腕、肩、上半身、と順に闇の中からその身体を引きずり出すと、それは左の掌で彼女を掴み上げる。
虚空の眼窩で彼女を見つめ続けるそれは、突然震え出すとその顎骨を落として。
「憎い・・・憎い、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い」
常人であれば、数秒とて理性を保てぬ程の恐ろしい声音で呪詛を吐き出し始めた。
怒り故に震える腕には万力の力が込められているのか、彼女の身体から搾られるように血が吹き出し、拷問を受ける者もかくやと言わんばかりの絶叫が響く。
「その長く伸びた美しい髪が憎い!男好きのするような肉感的な身体が憎い!美しい白磁の肌が憎い!銀鈴のような声が憎い!蒼く輝く瞳が憎い!艶めく唇が憎い!細く伸びた手足が憎い!くびれた腰が憎い!ここから逃げようとするその奔放さが憎い!それだけの物を与えられてまだ望む傲慢さが憎い!ああ、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!爪の欠片も、剥がれた皮膚も、滴る血の一滴も、髪の一本すらも、憎い!」
たった一人によって奏でられた幾千の呪詛は良くない何かを引き寄せる。
それは例えば、人を好んで食う者であったり、感染する不治の病をその身に宿す者であったり、決して癒せぬ猛毒を持つ者であったり。
闇の中に集まった良くない何者か達は出来上がった彼女の血溜まりに集って、お零れを預かろうと彼女の身体が落ちてくるのを今か今かと待ちわびる。
だが、呪詛の主人はそんな彼等を見ると。
「・・・そうだ」
ニコリ、と。
まるで、面白い事を思いついた子供のように無邪気に笑って、右の掌で彼等を叩き潰した。
そして、左で掴んだ彼女と右の掌についた良くない者達の肉片とを混ぜ合わせる。
そんな行為を何度か行ってから、出来上がった彼女をそれはゆっくりと地面に降ろして尋ねた。
「・・・これで、私と同じだね。同じだから、私と友達・・・友達だから、ここのルールを破ろうとした事は秘密にしてあげる。その傲慢さも許してあげる。その代わりに、教えて?貴方の名前」
他者の肉体を無理矢理混ぜ込まれるという、想像を絶する激痛。血溜まりに映った己の変わり果てた姿。
そして、それを遥かに超える目の前の存在に対する圧倒的な恐怖から、彼女は途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「ア・・・イ・・・ビ」