start 1
蜥蜴頭の老婆、自らを『アイビ』だと名乗った彼女はその見た目とは裏腹にとんでもない程の運動神経をしていた。
スケルトンの遥か前方、険しい岩場に飛び乗った老婆が振り返りながら声を掛けてくる。
「ヒヒッ、遅れたら置いていくよ」
「分かっている!」
言い返すが、実際、軽業師もかくやといった具合に山を下るアイビにスケルトンは付いていくのもままならない。
何度か彼女が振り返って声を掛けてくれていなければ、とっくに置いていかれてしまっているだろう。
「チッ、そろそろ陽が暮れるね・・・おい、あんた。名前は?」
「名前・・・は・・・」
友人であった人物から呼ばれていた筈の、彼の人間であった頃の名前、それを思い出そうするが、記憶にかかったノイズがそれを消してしまう。
言い淀んだ彼に対し、
「なら、ハルトだ。黄昏の英雄の名前、あんたには勿体ないくらいだがね」
「あ、ああ・・・わかった」
「ふん、じゃあハルト。急ぎな、この世界では陽が無くなった時に外に出てはいけないんだ」
「どういう事だ?」
「後で説明する。今は付いてきな。近道するよ」
言って、老婆は今まで下っていたルートとは別の、より傾斜のきつい道を重力に従って落ちる様に行ってしまう。
スケルトン、改め、ハルトは成るようになれとばかりにその後を追った。
「良くやったじゃないか。やれば出来るんだねぇ」
「手が外れたんだが・・・」
「それくらい直ぐに治るさね」
アイビがハルトを連れて来たのは、かなり大きな街であった。
霧がかかって、陰鬱な空気の漂うそこは、一定間隔で並ぶ街灯が無ければ僅か先も見えないが、時折、仮面を被った長身の何かや、全身から剣のような物を生やした騎士らしきものが霧の隙間から覗く。
「ここが私の家だ、お入り」
「あ、ああ、お邪魔する」
並ぶ家々から少し離れた、また煉瓦製の家が多い中、唯一木造の少しだけ異質な雰囲気のあるそこが、彼女の家だった。
「ッ・・・」
入った瞬間、懐かしいような、よく分からないような感情が胸に到来する。脳裏に浮かんでは淡く消えていく記憶の欠片、走り回るノイズがより一層強まった。
「・・・記憶が少し戻ったかい?」
「いや、殆ど・・・って、え?」
立ち止まったハルトを訝しんだアイビの言葉に答えかけて、ハルトは思わず彼女を見返す。
「記憶が無いなんて・・・俺は話したか?」
「ふん、自分の名前も分からない奴なんだ、それくらい推測出来る」
「そう・・・なのか?」
「信用するかどうかはあんたに任せるよ」
奥のリビングらしき部屋に通されると、柑橘系の香りが漂ってくる。鼻も無いこの身体が一体何処でそれを感じ取っているのかは分からないが、それがいい香りだという事はわかった。
真っ暗な部屋の内装は殆ど見ることが出来ず、唯一の光源である暖炉の周りに革張りのソファと、安楽椅子が見える。
「そこに座りな」
指示された通り、暖炉の前に置かれたソファに腰を下ろすとアイビも安楽椅子にその背を預ける。
赤々と燃え盛る炎に顔を照らされた彼女は暫く思案するように、顎の下に手を触れさせようとしてーーその掌が空を切った。
表情の分かりにくい顔であるが、それでもはっきりと分かるくらいに一瞬狼狽すると、直ぐにそれを取り繕って話し始める。
「さっきも言ったが、私はこの世界の案内人『アイビ』だ。この街、《エーイーリー》の近くで発生したあんたみたいな奴にこの世界に於ける常識を教えてやっている」
「俺みたいな奴が他にもいるのか?」
「偶にだがね、まあ、記憶喪失なんて奴は滅多に居ないが・・・死んだ時に強く頭でも打ったんじゃないか?」
「・・・は?」
一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。
ハルトは立ち上がって聞き返す。
「今、何と言った?」
「頭を強く打ったんじゃないかって聞いたんだよ」
「違う!そうじゃない!俺が、俺が死んだ?嘘だろう?」
「クク、嘘・・・ねえ?なら、何を以ってあんたは証明するんだい?」
「何をだ・・・」
「そんな骨だけの身体のどこに命が宿っているんだってね」