第五部 範疇体系と神話性について
あらゆる宗教観に於いて、構造体系を作り出してきた神話は、謂うに宗教そのものを顕れである。
物語群の一つとして数えられる事も出来る神話は、究極的に答えれば形而上学の規範とされている事実が存在する。
逸話や英雄の所業、伝説等を語りあげられた神話にとって、その体系は一種の普遍的な物語そのものである。
しかし其れは決して物語と言うより、不可侵の領域、聖域に位置するものだ。限界を超克した理性も、神話と言う不可侵性の持つ領域には立ち入れない。
だが、あらゆる逸話や伝説を包摂して「神話」と称するなら、規範性や範疇性、カテゴリーのパラドックスが生まれるのでは無いのだろうか。
例えば、超自然的な逸話は絶対に神話化されるのか、と言えば、そうではない。
「神」と言う内在性の強い存在や、永遠・自然と言う、虚実なものを媒介にさせれば、何もが神話と言う類に区分されるわけではない。
しかし、その逸話を「神話」と分けるのなら、其れは「逸話」では無く「神話」になるのだ。
此れは言語学に於いての矛盾律になる。何故ならば、「神話」と言う規範と言語の「神話」とでは、途方にかけ離れているからだ。
カテゴリーのパラドックスとは、正にこれにある。逸話と神話の媒介者であるカテゴリーに生じた食い違いが、神話というものをあやふやにしているからだ。
人間は有象無象の宗教観を持っているに、観想の種類も多種多様である。
その中でも、写実的に描かれた神話と自然的に描かれた神話の二極に分けることが出来るのだ。
写実的、言わばして没理想的な神話は、内実より構造に焦点を置いたものであり、こちらは極めて少数である。
自然的に描かれた神話こそがカテゴリー内での「神話」を浮かび描いているもので、確かにこちらが多数である。だが、その現実故にパラドックスを生み起こしている。
しかし厄介な事に、我々はたった一つの語彙によって、そのカテゴリーがパラドックスを生み出していることに「気づかない」。
真理性に長けた神話と写実的な神話とでは、天地の程をかけ離れている。
だからこそ、我々は神話の「内容」に目を向けるのではなく、「構造」に目を向けるべきなのでは無いのだろうか。
神話を「構造」に目を向けると、私は新たに二種類に分けられることが出来る。
一つは『自然的神話』、そしてもう一つは『人工的神話』である。
自然的神話、人工的神話共に、「寓話、伝説、逸話」を既に持っているという事実を踏まえている。
その事実の中で、「意識裡のうちの規範」を自然的神話、「規則性や慣例による規範」を人工的神話と称するべきだと、私は考える。
何故なら、「神話」と言うカテゴリーの中で「聖域」と呼ばれるところの、倫理的諸概念によるパラドックスが生じないからである。象徴体系の所以は、此処に来るものである。
どちらの神話も、我々が畏敬・尊敬の対象にしている事実が必要である。
其れは「超自然的な逸話」と言う専らの前提条件のためであるが、この先の複雑なジャンクションを分け直す事こそ、神話のパラドックスを紐解く鍵であるのだ。
多岐に渡った逸話や寓話の神話性とは、超常的なものの内実を視た判断によるものであるが、畏敬や尊敬と言う前提条件もまた、忘れてはならない。
この前提条件さえ崩れる時こそ、言語学の終焉、言い換えて我々のカテゴリー性が崩壊した時である。
だが、不幸中の幸いにも、その時は依然として訪れることを知らない。しかし、複雑化されたジャンクションの属性を見誤った時の過ちさえ分からない我々は、その時が来たらすぐに壊滅を蒙るだろう。
カテゴリー性の内実、結局のところは我々に委ねられたのである。
だからこそ、我々は入り組んだパラドックスを解き、その範疇性を解放させる必要性があるのではないのだろうか。
その必需性に、もはや常識など必要では無い。
そもそも、常識と言う概念が我々を蝕んでいるからこそ、このようなカテゴリー性のパラドックスが生じてしまうものだ。
そう考えると、神話性と無常識性は或る意味で"切っても切れない関係"と言えるものである。
そのために我々は気づかなくてはならない。常識と言う霧に韜晦された事実を紐解き、カテゴリー性のパラドックスを解放しなければならないのではないのだろうか。