第一部 狂悖主観の相対性について
晩年、人の心は主に自ずの主観によって動いていると私は考える。
人は思考し、物事を考え、哲学する。多くの人が啓蒙し合い、蒙昧な表象を感覚で捉えようとするのは事実だろう。
古代ギリシアの、幾多ものソフィストたちは思考することを商材にしたのも、主観を捉えられる者の差がある事例の一つだ。
だが、人は主観を認識せずに事象を働きかける者が多く居る。
喩えを謂うならば、同調性が尤もな分かりやすい。人は流れに乗り、俗に言う便乗行為を行う事も屡々ある。
近代で言うなら、マスコミの偏向的な情報にメディア・リテラシーを活かさずに信じ込む、世論の凡例だろう。
―――世界は人間なしに始まったし、人間無しに終わるだろう。
構造主義の中心的人物、ストロース氏の言葉である。事実、世界は主観によって生まれたものでは無い。
主観はあくまで人に附属された、事象を見定める決定的な力以外の何物でも無い。
だが、「世界」と言う空間を「認識」するには、主観が必要である。何故なら、主観は真理や価値を見るうえで絶対的に必需なものだからである。
言うなれば、「主観なしに世界なし」と言ったところだろう。
例えば、目の前に大きなネズミが居たとしても、盲目なればネズミは見えない。
言い換えると、目の前に大きな世界があったとしても、主観性(眼)が無ければ見えないのだ。
だからこそ、「自分自身は主観を持つ一員で、世界を変革しうる力を持つ一人だ」と認識してこそ初めて、人になれる。
人は可能性を秘めており、それらは全て主観を通じて思考が枝分かれして発展していくのだ。
私が思うに、其れが出来ないのは人では無く、人面獣心の愚か者であろう。
しかし、此処で私はヤルダバオート的主観を用い、世界を新たに見直してほしいと考えている。
ヤルダバオートとは、グノーシス神話に出てくる神の名前である。
その神は自らのほかに神は無し、唯一主観を持つ自分こそが神だと思い込んだ、狂気に駆られた神である。
だが、この唯一主観こそが、今の人にとって必要なものなのではないか、と私は思う。
世界を変える力を持つことは、主観性を以てして言えることであるが、主観もまた、(流れ)があるからである。
サルトルの唱えるアンガージュマンが尤もな例の一つで、キューバ革命政権を支持したり、アルジェリアの民族解放戦線を支持するのは主観があってこその話であろう。
だが、社会という参加共同体は主観の流れを以ってして生まれ、其処から正義が誕生する。其れが幾多に重なり合うからこそ、人は争うのだ。
ここで、ヤルダバオート的主観を持って貰いたい。
唯一主観で本質的な社会を見通すことで、全体主観を新たに見通すことが出来るのでは無いのだろうか。
狂気、それこそが唯一主観である。
人は狂ってこそ、初めて世界がコペルニクス的展開を遂げ、自身の立場を全体像から見いだせるのだ。
主観性こそが「絶対的な真理」と捉えるならば、ヤルダバオート的主観は「狂悖」と言ったところであろうか。
人は神に非ず。
人は獣に非ず。
だが人は普遍を信じ、流れに迷うこと無く流れ、主観を捨てる醜い生き物だ。
だからこそ、私は言いたい。
狂え。
狂ってこそ初めて、世界は生まれ変わるのだ。
狂う方法はただ一つ、ヤルダバオート的主観を持つことだ。
まずは、どんな物事にでも懐疑的なセオリーを考えて欲しい。そして、其れを理論的にでは無く、唯一主観で捉えて欲しい。
そうすれば、世界は180度打って変わったものになるだろう。




