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てさぐりあるき  作者: 鯣 肴
第三章第七節 精神唯存揺篭 ~剥き出しの対峙~

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精神唯存揺篭 基底 閉環籠姫心中 Ⅲ

 突如、彼女の雰囲気が変わる。


 触手が、黒いもやとなって、消えた。だが、私は動けない。血がほぼ止まっていた。体中がしびれており、体を動かすことはできない。顔は地面に立ったまま、いや、彼女がわざとそうなるようにしたのだろう。


 半ば異形と化していた彼女の姿が、小さくまとまっていきながら、威圧感が小さくなっていく。


  足で、真っ黒のエプロンドレスのすそをひらりとさせた悪魔少女が、背中から、触手のような、半径10センチ程度、長さ10メートル程度の4本のたこの足のような黒い中身に透明なゲル状の液体で覆われた触手を生やし、人サイズの大きさになって水面に降り立った。


 沈まず浮かばず、水の上に彼女は立っている。


 歪んだ笑いを浮かべて、後ろで両手を組んで、江の水の上に立ち、こちらへ向かって歩いてくる。


 パシャッ、パシャッ、パシャッ、パシャッ、――――、ザッ、ザッ。


 水()まりを踏むような音と共に彼女は水飛沫(しぶき)を上げながら私の方へ接近してきて、陸地に両足を踏み入れて、止まる。それは私の目の前。彼女はそこで座り込み、私の顔をのぞき込むようにして、うっとりとした目で、ほほを紅潮させ、私を見ている。


 少女の近くは、色や形がしっかりと知覚できる。少女が光でも放っているかのように。もちろん違う。その光は黒かった。


 黒い光。そんなものが存在するはずがない。ただ、意識を向けさせられている。だから、少女と周囲との境界、色を認識できている。それだけだ。


「【ふふふふ。】」


 彼女は恍惚こうこつとした表情で笑う。それを見て、思わず一瞬、見()れてしまうが、すぐさま私は正気に戻る。


 彼女の息が掛かる。灰のにおいに混じり、強まってくるキャラメルのような甘いにおい。その中にわずかに混ざるシナモンのような香りが、甘いにおいによるまどろっこしい刺激を強調する。


 それはとても心地よくて、そのまま、身を、意識を委ねて、うっとりひたってしまいたいと思う程。


 それでも私は落ちる訳にはいかない。やたらに出始めたつばを私は器用に気管に入れ、むせることで正気を保つ。


 ゲホゲホッ、ゲホッ。


 黒いもやは出ない。先ほどので全部だったようだ。


 それにしても、これは、何だ……。何だと、いうのだ……。


 私はひどく困惑していた。


 分からない……。


 そのひょう変し、これまでになく和らいだ彼女の様子は、絵になる位に美しいと感じられたのに、どうしようも無く恐ろしかった。


 その顔をじっと見ていたいという感覚と、今すぐ目を逸らし、一刻も早く距離を取りたいという相反する感情が私の中でせめぎ合い、後者が少しばかり勝っている。


 それでも、目を惹かれる。手を伸ばしたくなる。悪魔少女はとてもせん情的だった。私にはどうやらそっちの趣味でもあるらしい。そうやって自(ぎゃく)し、自身を客観的に見ることで、俯瞰ふかんすることで、私は堪える。


 体のしびれは大方収まり、もう動ける状態だったが、彼女から距離を取るという考えは浮かびすらしなくなっていた……。






 自分がどうかしているということは分かる。私は彼女に酔ってしまったのだ。惹かれてしまったのだ。こんな少女に。こんな化生に。


 頭ではそれがおろかなことだと分かっている。それ位には私は冷静さを頭に残している。だがそれでも、どうして、抑えられない。そんな気持ちがく?


 熱い汗が体中から溢れてきていることに気付く。


 これらの妙なかっ藤のせいか。特に頭が、熱い……。


 無意識に右手を伸ばす。指先が、少女の足に、触れた。


 グチョッ、ギュチュル……。


 そして、私は正気に戻る。その触感と発せられたおぞましいにおいによって……。






 ぬめる、痛んだ、腐敗した果実のような触感と、それを包み込む、まだつやの残ったはだ。そして、漂ってくる、ヘドロのようなにおい。汚染されたどろにおい。


 グッ、ビチッ。


 強く握った。


 黒い、泥のようなしるにじむ。そこから、甘いにおが漂い、少し遅れて、どろ()()が……。


 不味い、まれかけている。その悪(しゅう)すら、良いにおいと感じてきてしまっている。


 そしてようやく、私はすべきことをやろうとした。


 目をらせ。鼻を閉じろ。意識を外せ。俯瞰ふかんしろ。考えるべきは、彼女でなく、状況。






「【痛いわぁ。】」


 息をらすように少女はそう言った。そして、


「【でもねぇ、放しちゃあ、駄目よぉ。うふふふふふふ。】」


 不気味な笑みを浮かべながら、青白い顔を赤く染める。あ、頭が……かす……む。おぼれ……る……。


 は、放せ……な、い……。


 右手は、彼女の左足から離れない。離したいはずなのに、離れないということに、恐怖を感じなくなり、寧ろ、安心や喜びといった逆の感情が浮かんでくることに私は恐怖した。


 右手に感じる感覚。それは、黒く底の見えない、深い河に手を突っ込んでいるような、不思議な感覚だった。生暖かく、不気味であるのに、そこから手を抜きたくはない。かっていたい。不安が溶け出し、心が落ち着いていくような感じがする。暖かく包まれているようにも感じる。


 それは、狂った感覚だ。そう分かってはいる。だが、この生暖かさからは、一度漬かってしまっては自らは逃れられはしない。


 たとえるなら、甘美な、ぬま。いや……。喩えにすらなっていない。そんなものはあり得ない。だが、そう強く否定しても、黒々しいぬまの水を、甘いと喜んで飲む自身の映像が頭から離れない。






 まるである種の抱(よう)の如く、私の心は捕らえられた。私は彼女に誘惑され、ちたのだ。なんて滑(けい)な光景。


 何だ、この展開は。まるで陳腐ちんぷな脚本の通りに動かされる道化そのものではないか、私は。思考から行動まで、何もかも、手繰り寄せられる糸のような操り手兼脚本家たる彼女の傀儡くぐつだ、私は。


 彼女に酔っているのではない。独り遊びの道具にされているだけだ。彼女は相手を見て居ない。記号としてしか私を見ていない。ここでいう記号とは彼女の求めるものそのもの。安全。彼女の求める安全の形。自身の意図から許容範囲内で外れる刺激物であり、理解者。それが私に与えられた役柄だったのだ。


 そう悟っていくにつれ、意識を切り離すように、俯瞰ふかん的になれた。さながらゆう体離脱だ、これは。


 だが、油断した引き戻され、体に残る、もうほとおぼれた通常の私の思考に溶けてしまう。






「【ふふふふ。】」


 少女はその場でしゃがみ込んで、両手でほお杖をつきながら、私を恍惚こうこつの表情を浮かべてただ、じっとうれしそうに眺めている。


 所詮都合の良い役者に過ぎない私に一体何を求めているというのだ。


「【空っぽだからよ、無()だからよ、あ・な・た。ふふふふふふふ。】」


 ぞっとした。頭が冷える。もういは冷めた。狂っている。理解されることに、自身が描く理想に、彼女は狂っている。だから、求めたのだ、私を。色の無い、私を。


「【それでいて、しんがある。無()なのに私に染まらない。それでいて、私の理想に沿った行動と思考を見せてくれる。】」

 違うのか……。いや、狂人の相手をまともにしてはならない。まれるだけだ、狂気に。私は、彼女の求める理想、安心の狂気という、矛盾したものにまれていた。


 自覚しているのだ。私と彼女の相性は、私にとってすこぶる悪い、と。そのことを忘れず、俯瞰的でいれば、何とか対処はできる。


 かぎは見えている。無()という言葉。つまり、二重に思考すれば、奥にある思考は見られない。彼女は読み取れない。彼女は私を無()と決めつけている。浅いと決めつけている。なら、心を、本能的な直感的な近眼的部分と、客観的で論理的な俯瞰的部分に分ければいい。


 表面の感情をえさにして、彼女を操る。彼女は私という希望を捨てたくないのだ。だからわざわざ、再び拾った。なら、通用するはずだ。


 感情的な方の心に叫ばせる。


 放してくれ!! 話し合いたい。()()()()、しない。


 さて、どう出る?


 俯瞰ふかんし、私は状況がどう変化するか、答えを待った。

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