精神唯存揺篭 基底 閉環籠姫心中 Ⅱ
風が消え、目の前の光景が見え始める。私は大きく何度も息を吸いながら、入り江側の壁面の一部が削られている以外、ここに来たときと全く同じ状況になっていることを確認し、胸を撫で下ろした。
威圧感は消えており、そして、
「ああいいえいうんああ、ええおい、あうあえ!(まだ生きているなら、出てこい、悪魔め!)」
自身が言葉を発せられなくなっていることを確認した。
やったのだ、私は!
なら、急がなくては。
彼女がこの世界の支配者たる存在であるかどうかは分からない。だからもし、原始の世界でその世界を支配する悪魔を斃したときに出たように、次の世界への鍵となる球を落とすなら、不味い! 深さは分からない。
それに、運よく底があったとしても、風と、半ば水中にいた彼女の消滅によって水中に方向性のある流れが発生しているのは間違いない。なら、流されてしまう可能性がある。
私は一瞬でそう思考し、頭を切り替え、
ザバァアアアアンンン!
すぐさま海面へ向かって飛び込んでいった。
ちゃんと底は存在しているようだ。深さは30メートル程度と、何とかなる範囲で。これ位の深さなら、水の中の明るさからして、先ほどから見えていてもおかしくなかったのだが。
悪魔少女があの黒い靄で偽装していた、ということか。この悪趣味な追い込み漁の為に。
だが、私は勝った。思わず顔が綻ぶ。
そして、入り江の底、私が入ってきた方向とは反対側方向に、半径2メートル程度の半円状のトンネルのような道が続いていた。下り勾配になっているようで、緑の水晶球が地面に半分埋もれて、奥に落ちている。底の土は海岸の砂のように柔らかいようだ。
念の為、一度水面に上がって息を大きく吸って、私は再び潜った。そして、海底トンネルの中へ体を入れ、手を伸ばし、その球を掴もうとすると、背後から強い視線を感じた。
球は泡となって消えた。つまり――――、嵌められた、油断したのだ、私は……。いる、いる、彼女が……。威圧が降りかかる。
その強度は先ほどよりもずっと強く、どんよりと、重い。
ブククッ……。
思わず空気の一部を吐き出してしまう。私は急いで洞窟から出、水面へ向かう。
彼女の触手、あれは、まるで蛸のようだった。なら、水中ではどう足掻いても勝ち目は無い。こうするのが狙いだったのか……。
自身の愚かさにやるせなくなりつつも、私は彼女が何処にいるかなんて探さず、唯、海面上に顔を出すことを目指した。兎に角息をしなくては。そして、水の中から出なくては。
まさか、流石に、そう迅速に行動されるとは思っていないだろう。そう、思っていてくれ。そうでなければ、私に手は、無い。
ザバァァンンン!
ぶはぁ、はぁ、はぁ、はぁ。
私は海面から顔を出し、息をする。だが、そこまで。陸地には上がれない。
「くすくすくす、くすくす」
金属の擦れる音が幾重にも重なったような、高く気味の悪い薄ら笑いの声が周囲に反響する。
そこには彼女が立っていた……。背中から四本の触手を生やし、人の原形を留めつつ異形化した、悪魔化した彼女が……。
私をその、人をやめた目で水面に浮かぶ私を見下ろしてくる。背中から生えている、四本の触手がよく見える。不特定多数のしなる黒い靄状の縄のような太さをした長い長いものが幾重にも束なっているようだ。その表面を、透明なゲル状の物質が覆っており、蛸の足のような吸盤付きの触手を四本、形作っている。
触手一本辺りの長さはうねっていて不明。太さは半径20センチ程度。これまで見せた中で、最大のサイズになっている。
私はその間もそっとそっと、彼女から離れるように弧を描くように移動していた。そして、何とか陸上へ上がれそうだというときに、そのうちの一本がぴくりと動いたかと思うと、彼女がすっと消え、次の瞬間、私の目の前に現れ、悪魔そのものの意匠の眼で私をぎろり、と見つめた。外淵部が黄色に濁り、中心部である虹彩が赤黒い、悪魔の眼だ……。
彼女はもう笑っていない。私を冷たい目で見つめている。
「【所詮、この程度、なのね。はぁ……。】」
彼女はそう素面で冷たく独り言を呟き、黒い靄状の溜め息を吐いた。
「【もう、いいわ。貴方はもう要らない。】」
投げやりに彼女はそう言った。
「あ、あんあお……(な、何だと……)」
私は思わず、言葉を返そうとするが、それは声にならない。何故だ……? 彼女はすぐ傍にいるというのに……。白羽根と彼女との契約の穴か? それとも、何か、彼女が私に言葉を発する能力の付与を取り消す条件が揃ってしまったのか?
「【はぁ……。どうしてこう愚かなのかしら。結局のところ、これまでの消え去った有象無象と一緒かぁ。期待してたんだけどなぁ……。】」
彼女はもう、私を見ていない。だから、私が心に抱いた疑問に答えない。意図を組まない。彼女には、私が、興味の失せたがらくたにしか見えていないのだ。
なら――――、今なら! 水中から完全に彼女が出ていて、私の心を読むつもりすらない今の彼女になら、不意打ちの類が通じる。
私は水中の自身の右手に本を出し、白紙の頁を千切り、丸める。やはりこの本の作りは堅牢だ。一枚一枚の紙の質は高く、厚く、柔らか。矢を出し、それを絞り丸めながら、弦を引き、水中から出して、放った。
ビュゥゥ!
これは私も試したことが無い。今考えついたばかりの思いつき。完全なる奇襲。私は矢の着弾までのその間も体を動かしている。彼女の周りを旋回するように移動する。
だが……、 放った紙片の玉は、塵となって消える。いや、消された……のだ。
「【終わりに、しましょうか。】」
彼女の目の焦点は私に合っていないだろう。それはさながら、独り言のように聞こえた。だが、その対象は私だ。
彼女は私の方を振り向いていない。だが、字幕は表示されている。だから、もう、振り向いて見る価値も無いと、彼女は私を見限ったのだ。
私との戯れを終わりにする。彼女はそう自身に言い聞かせただけなのだ。私に背を向けている彼女のその様は、少しばかり儚げに見えた……。
ある意味それは私にとって都合が良いかも知れない。彼女の今後の行動が、意図が、読みやすくなる。感情による行動の気まぐれな変化が最も厄介だったからだ。
だが、少しばかり寂しい。そう感じるからこそ、彼女が儚げに見えているのだ……。
私は陸地に上がる。上から順に。両手、左足、右足――――ぬめりとした感触が、右足を伝った……。
「【言ったでしょう、終わりだって。貴方に掛ける言葉はこれが最後。さようなら。】」
右足から上がってきた触手は、一本の触手の黒い靄の縄がばらけたうちの一つだった。そして、数多の黒い靄の縄が追随するように上がってくる。やがてそれぞれの靄の表面は透明なゲル状の物体に覆われ、蛸足に非常に似た触感と形状になった。
こうやって俯瞰的に見ていないと発狂しそうなのだ。生ものが触れる感覚。真冬の冷水のような温度。それが、巻き付いて、どんどんと体を這う、捕獲される感触。強まってくる緊縛。徐々に動かせなくなっていく体。圧迫され、軋む骨肉と臓物。
それはとうとう、私の首から下を縄でぐるぐる巻きにしたかのようになり、私は地面に突っ伏せさせられた。
ぐちょ、ずさぁぁ。
彼女の触手の表面が散る音の後に、私の体が地面に倒れ込む音が聞こえた。息は苦しい。
メキメキメキ、ピキピキピキ!
先ほどから骨に罅が入っていく音がしているが、どういう訳か、体の感覚に変化は無い……。それが恐ろしかった。
目線を下げて黒い靄の隙間から何とか右手の人差し指を確認すると、爪は再生していた。
そういうこと、か……。触手の表面を覆う透明なゲル状の液体。これには、傷を無差別に癒す効果があるのだ。
なら……、私があの水中に落ちたときから、彼女の仕込みは始まって、決着は着いていた。どう考えてもそうだ。
私の右足は中途半端であるが回復していた。そして、私はあの入り江の水を飲んだ。あれが彼女の触手の表面を覆うゲル状の液体。
私はそれを体内に呑みこんでいる。そうなることを知っていて、彼女が唯、そんな私に都合の良いものだけ飲ませる訳が無い。
黒い靄も、どれ位の量か分からないが、ある程度の量、摂取してしまっている。私は彼女に再び、体内への侵入を許してしまったのだ。
ああ、愚かだ。こんなこと、気を抜かなければ、気づけていた。落とされる前から殆ど、情報は揃っていた。
それに、飲みこんだものを吐き出すチャンスもあったかも、知れない……。そうはさせてくれなかっただろうが。
彼女は入り江の上に浮かび上がり、私を見下ろしている。私という人ではなく、私という物体を見下ろしている。
答え合わせもしてくれない、のか。では自分で。
「ゲホッ、ゴホォ……」
ビチャッ、ムァァ。
吐き出した水と、液状になった黒い靄。矢を防いだ仕組みはこれか。もう詰んでいたのだ。
確かにこれなら、どう足掻いても、終わりだ。私の力ではどうすることもできそうにない。だが、せめて、最後まで足掻くとしよう。私にはそうする責任があるのだから。




