精神唯存揺篭 浮遊島群 閉環籠姫心中 Ⅱ
またか……。
彼女は再び私の前から姿をすっと消す。
そして、甘い香りが再び強く香ってくる。何処からだ、一体、何処へ消えた? 何処に現れた? 今度は私に何をするつもりなのだ、彼女は……?
不安になった私は周囲を見渡す。その間も、漂う香りは徐々に強くなっていく……。私を堕とせると判断し、この空間に匂いを充満させることにしたのか? なら、ここは、屋内か! だが、彼女の声の響き具合からして、かなりの広さを持っていることは間違い無い……。
その場から動き、私は彼女の椅子側へ踏み入ってしまう。それはとても愚かな行動だった。色濃く漂ってきた香り。今強くなってきている上方向の匂いとは別のもの。椅子からの彼女の残り香だ……。
上……?
「【正~解!】」
バサァァ! ズッ!
私の心を読んで答えながら、彼女が私の上に降りてきたのだ。視界を柔らかな感触と濃縮された甘い匂いに覆われ、ふらりふらり……。
バタァァ……。
私はあっけなく倒れる。
私の倒れ込みの瞬間だけ彼女は器用に体を消し、すぐさま私の上に跨る……。だから、今私が自由に動かせるのは、首から上のみ。私が無理やり振り払えない程に彼女が重い筈も無い。これだけの体格差だ。
重さを変えられるということでも無さそうで、別に苦しくも何とも無い。つまり、何か特殊な力で抑えらえているということだ……。だから、容易にこの状況を脱することはできまい。
「【クスクスクス。貴方、私のような少女を、そんな血走った目で見て、どうする気だったの? 何度も同じように釣られるなんて、貴方、そっちの趣味があるのかしらぁ?】」
罵られている筈、貶められている筈なのに、それは背筋を何かに舐めずられるかのようであり、ぞくりと寒気と共に快感が走る。
少女の表情に熱が篭り始め、頬が色付き始める。それはきっと、血走りの、興奮の、痺れるような歓喜の熱。この状況に、彼女も、酔っているのだ。
「【うふふふふふ。ねえ、魅せて頂戴。貴方が堕ちた顔を。そして、私を安心させて頂戴。私の安心の糧を、頂戴。」
】」
少女の顔は、すっかり紅潮していた。
「【でもその前に、味付けしなくっちゃね。ねぇ、貴方。自身の体が今どうなっているか見てみなさいな。】」
彼女はそう言って私の上から消え、私の頭の上側の地面に現れ、私の頭を背中を持ち、私の上体を起こす。
これまた甘い匂いに思考が蕩けそうになりつつも、そのまま墜ちたりはしなかった。眼前に映る自身の状態が、私を襲う。
ぞっとした。なぜなら、私の臍より下と、手首から先がいつの間にか闇に呑まれていたのだから。しかも、呑まれている部分の感覚は無い……。見えている部分は、一糸纏わぬ姿……。いつの間にか、自身の着ていた衣服も消滅していた……。
彼女に地面に倒されてから今までの僅かな間に、私は闇によって、地面に十字に磔にされていたのだ……。
「【どうかしら? 貴方は今、私にこれくらい呑まれているっていうのを視覚的に現してみたの。】」
彼女がそう言うと、私を呑む闇のエフェクトは消える。だが、私は全裸のままだった……。
っ!
胸に冷たいものが触れる。彼女の手と頭と耳だった。私の心音を聞いているのだ……。
「【いい感じ。貴方が感じた不安が、絶望感が、色濃く出ているわねぇ、うふふふふふ。】」
そうやって、私の方へ顔を向けながら私の心音を聞く彼女の顔は恐ろしい筈なのに、そそるものだった……。
「【じゃあ、そろそろ、】」
彼女が消え、
「【頂きましょうか。】」
そして、私の胸を斜めに横断するように乗っかった姿勢で現れた彼女はそう言って、私の顔を両手で掴み、その潤んだピンク色の唇を、
キュッ! っぅぅ、ネトォッ……。
ああ、蕩ける、溶け……るぅ……。
体中から力が抜ける。心地良い弛緩。薄れゆく意識。彼女の声だけがまだはっきり聞こえる。視界も近くがぼやける程度にしか見えはしない。
「【あぁ、美味しいわぁ。やっぱり人間のじゃないと、ねぇ、うふふふふふ。で、どうだったかしらぁ、悪魔の接吻の味は? あらあら、もう返事もできないようねぇ。感謝して頂戴。聴覚は残しておいたのよ。それに視覚もちょっとだけだけれど。嗅覚と触角は寧ろ鋭敏になっている筈よ。まあ、もう、その様子だと体の自由は一切効かないだろうけれどねぇ、クスクス。】」
抗い……た……いが、無……理……。二撃……目が……来て、しま……。
「【じゃあ、お代わりさせて貰おうかしら。もっと、もぉっと、私の安心の糧を提供して頂戴。】」
キュッ! ブ、ヌプゥ……。
口の中に浸食してくる冷んやりしっとりそして、何処までも甘い感覚……。
もう、駄……目……ぇ……ぇ……だ。
だが……、私にはそのまま意識を投げ捨てることは許されなかった。私をそんな状態にした彼女本人に、許されなかった……。
「っ、ぅああああああ、ゲホゲホ、ゴホッ、ゲホ……」
「ははひひおははいひほひひひほほひへふほひ、ほんはほぉ、はへ~ほぉ。(【折角お互いに美味しいコトしてるのに、そんなの、駄ぁ~目よ。】)」
彼女の舌経由で注ぎ込まれたのは、黒い靄。思わず咽せて目を覚ました私はそうであることを、視認した……。
そして、私の口の中から自身の舌を糸を引きながら戻しながら、少女はそれをごくり、と飲みこんだ。
「【ふ~ん、なぁんだ……。】」
少女はそれまでと打ってかわって、冷たい雰囲気を纏って無表情になり、そう、冷たく投げやりに言い放って、退屈そうな目を一瞬私に向け、すっと消えた。
取り残された私は暫く呆然としているしかできなかった。ただ一つの行動をしたことを除いて。
私は自身の唇に舌を這わせ、口内に戻すという行為を何度か繰り返す。舌に広がるその風味はとてもとても、甘美だった。それは、彼女の残り香の味。
これが現実か幻想か識別する為にし始めただけだったその行為は、かえって私を動揺させるばかり……。そうして、呆然としつつ、頭の中で、感覚に焼き付いた先ほどまでの少女の影を、ただ、再生し、追い続けているのだった。
かなり長い時間が経過しただろう。だが、彼女は戻って来ず、彼女の匂いが薄れていくと共に、私は正気に戻る。
そして苦悩する。
これでは、罪人ではないか。未熟な少女に見蕩れて触れようとした罪。淫靡で官能的な状況に少女と共に触れ合い、浸った罪。
私がかつていた世界ではそれは大罪である、と、私の中の記憶が警鐘を鳴らす。だが、それは僥倖だ。自身の判断基準の外に、正気の基準を持てた。これで少しはましに振る舞えるだろう。次は。次があれば。あれば。
彼女が先ほど見せた様子からして、次はもう無いかも知れない。次は唯の敵対と、どちらかの終焉を決めるだけでもう言葉も交わさず終わるかも知れない。
先ほどの彼女の表情を見て、私は解放感と喪失感を得た。彼女はきっと、私から興味を失ったのだ。
足音が聞こえてきた。
ことっ、コトッ、コトッ、コトッ、――――。
多分、彼女だ。戻ってきたのだ。なら、きっと……。
背筋に寒気が走る。音が聞こえてくる方向から威圧感を感じる。ああ、これは悪魔のそれだ。彼女は私の心の中の何かを見て、私を叩き潰す決意をしたのだ。それは、悪魔少女と白羽根の契約の外であるか、契約の範囲内で私を仕留める条件が整ったのだろう。
私は未だ震え残る足で立ち上がった。逃げられるか、これで……。ここが何処かすら分からず、自前の光源も持たず、震える足で、武器無しで……。彼女から渡された札しか、……ああ、だから札も使えはしない……か。
光のスポットが近づいてくる。まだその距離は遠いが、どうやって、ここから逃げる……。大きな白い羽根の淵を千切りながら、悪魔の形質を発言させた悪魔少女が徐々に近づいてくる。
千切られた白い羽根の断片は黒い炎を纏って燃えていく。
そしてとうとう、彼女は私から数メートルの距離まで接近してきた。白い羽根の断片が黒炎を纏いながら私に向かって吹きつけてくる。触れると不味そうなので何とかそれらを避ける。
だが……。
その内の一つが私の顔に向かって飛んでくる。他の断片をを避ける為に姿勢が崩れており、避けきれないっ……。
すると、私の額に向かってそれが触れようか触れないかというそのとき、炎がすっと消えて、羽根の白い地色が現れる。そして、それはそのまま私の額に触れた。
「【ま、間に合いました。早く、体の力を抜いてください。】」
私は戸惑いつつも、その声に従う。その声は白羽根の声だったから。脱力し、そのまま前へ向かって倒れ込みそうになるが、それでも私は脱力を止めない。今はその指示に従う以外、手は思いつかないから。
っ!
「【待ち……さ……ぉぉ……!】」
悪魔少女の声が聞こえたような……。だがもう関係無い。
溶けていく。赤い絨毯に、私が、溶……け……。




