精神唯存揺篭 浮遊島群 未だ尾を引く後悔の島 (冬) Ⅸ
耳元に、声が聞こえた。灼けるような熱を含んだ息とともに、脂の臭いを纏って。それは気のせいではない。明らかに何かが私の後ろから、そうやって声を掛けてきたのだ……。そして、こんな場所でそんなことをしてくるということは――――私の敵だ……。
「そろそろ渡してもらえるかな?」
上品な、テノール声だ。それが炎の揺らぎのような音と混ざって、やけに幻想染みていた。威圧感はない。忌避感もない。悪意も感じられない。だが、何を言っているのか、意味が分からない……。
ただ……、普通に話しかけられただけのような、そんな感覚なのだ。この臭いと、燃えるような音と、灼けつくような、酷い熱気さえ無ければ。
それとは反して、感じる寒気は収まらない。熱い筈なのに、寒い。そんな奇妙な状況に陥っていた。
だが……。間がこれ以上長くなるのは不味いだろう。それに、酸素濃度の低下は今も続いているだろう……。どちらにせよ、ここからの脱出まで考えると、時間は余り残されていないのだ。
私はさっと、距離を取って振り向く。
……。余りに予想外の姿だったそれを見て、私は言葉が出なかった……。炎を纏った、炭化しつつある、人の死体らしきものが、私の方を向いて、手を伸ばしていた。何かを催促するように。
どうしてそれで、生きていられるのだ……。それはさながら、生きている、動く、燃えゆく死体だった。
声や口調からして、恐らく、男。そんな分類が、彼にとってもはや意味は無いだろうが、そう仮定することにした。悪魔や魔物の類ではない。神聖な類でもない。雰囲気からして、彼はきっと、元人間。きっと、今でもそうあろうとしている、何か、だ。
そもそも、よこせ、ではなく、渡してもらえるかな、という口調からして、彼はあくまで穏便に済まそうとしているように見受けられる。何を求めているかは皆目見当が私にはつかず、彼がそれで意味が私に伝わっていないということに気付いていないのだから、次にどう状況が変わるかは未知数だが。
私は彼に気付いてもらえるようにわざとらしく顔をしかめつつ、考える。少なくとも、敵対的でない相手。穏便に済ませるべきなのだ。今の私の状態から考えて。
すると、彼は、私の仕草から、何か察したようである。再び口を開き始めたのだから。通じたのだろうか? そうだと思いたい。
「分かるだろう? 君から匂いがするのだよ。彼女の香りがするのだよ」
……。それ、というものに私は心当たりなど全くない。伝わってはいなかった。それに、彼の雰囲気が、そのとき、少し変わったような気がした。
それは、小さな違和感。何か、すれ違っている、そんな、綻びがどこかにあるように感じたのだ。
「それは、それは、私の元からいつしか消えてしまった、そう、私のものだ、私の、私だけの、真に、私が、私の意思で、私が選んだ、彼女の――――」
燃える炭の手が、ぱきぱきと音を上げながら、私の顔に向かって、伸びて、その直前で、止まる。
良かった……。私はびくりとも動けなかった。狂気染みた迫力に呑まれてしまっていた……。蛇に睨まれた蛙のように、金縛りにあっていたのだ……。一歩、いや、数歩退きたかったのに、足が震えて、動かなかったのだ。
「……。済まないね、昂ってしまったよ。その様子だと、どうやら本当に分かっていないらしいようだね」
少しの空白の後、彼はそう、私に言った。
先ほど感じた違和感は気のせいだったのか? 永遠に解けない誤解のようなすれ違いをしているように感じたのは? 彼は、きちんと、目前の私を認識しているようだ。
彼は何か、切羽詰まっている。
私が持っている何か。それが心の拠り所なのか、長い間探し続けてきたものなのか、抱える狂気と、それを抑える理性を彼は垣間見せたのだ。
こんな場所に居る者が、正気なわけはない……か。
まあ、それでも彼はかなりましな部類らしい。私は息を深くしつつ、心を落ち着かせる。そうすれば、体も少しはましに動くかもしれないと思いつつ。
すると、彼が多いく息を吸い、手を空に翳し、何やらぶつぶつと口を動かし始める。そして――――。
スゥゥゥ……。
空気が揺らぐような音がして、光とともに、像が現れた。
彼が私に対して求めた、それ、が、立体像となって、浮かび、ゆっくりと回転している。手を伸ばしてみたが、私の手は、それを透過した。
光の像が。それは色付きのホログラムのようなものらしい。そして、その像と同じものを確かに私は持っていた。
"灰色の棒きれ"を私は掌の上に出し、彼に無言で手渡した。すると、彼はそれを奪い取るように受け取る。そのときの彼は先ほど昂ぶった状態の時と同様に、恐ろしかった。
そして、それを抱え、彼は蹲った。
私はその場から動こうという気にはなれず、ただ、じっと、眼下の彼を見下ろしていた。
数分という具合ではない。数十分はそうしているような気がしていた。今の私の、雰囲気に呑まれた、動揺した状態で、正確に時間が測れているとは思わないが、それでも、それなりに長い時間が経過したかと思う。
ただ、石のように蹲って動かない彼を見下ろすばかり。
私がそうして彼の次の反応を待っていられるのは、火が消えていたから。
周囲を見渡す。立ち上っていた火柱は悉く消え、雪が唯、降り注いでいた。煙すら上がっていない。つまり、周囲の火は、急にすっと、跡形も無く消えたのだ。
雪が周囲を薄く照らす。黒い背景の中、静かに降り注ぐ雪。風は吹かず、唯雪は周囲に真っ直ぐ降り積もり始める。
灰の焦土へと変貌した島を雪が覆っていく。
再び彼を見るが、相変わらず蹲ったまま。
そう言えば、彼の手に渡った"灰色の棒きれ"。一体あれは、何だったのだろうか……。
むくり。
彼はのっぺりと、頭をうなだれたまま、立ちあがり、こちらに体を向けたかと思うと、体を一度だけ左右に頭を中心に振るように、頭を掴まれた人形が力なく振り回されるように、ぶらんと動いた後、また時間でも止められたかのように再び停止する。
それは、一切の予備動作無しでの突然の行動だった。
私は彼の動きの意図が全く掴めないでいた。まるでこれでは、壊れた人形だ。まるで、何者かに操られるように動かされているようにしか見えない。
彼は一体何なのだ……。
これらの突拍子で脈拍のない行動の数々。そこからはどうも、彼の意図、彼の人間性、彼の現在の感情、そういったものが一本の線として見えてこないのだ。断片的に何か見えることはあるが、それらがちぐはぐなのだ。
紳士な印象を受けたり、狂人の印象を受けたり、乱暴者の印象を受けたり、人道的な印象を受けたり……。背反する印象を幾重にも含んでいる。
まるで、その姿同様、心も壊れているかのよう……。唯操られているだけなら、このような行動の揺らぎはあり得ない。わざとやっているのでも無い限り。そして、そのようには見えない。
彼の仕草は作られたようなものには思えなかった。だからこそ、余計に厄介なのだ……。
「おい、大丈夫か?」
長いこと動かない彼に痺れをきらした私は、そうやって彼に声を掛けながら、私は彼に近づく。
スパッ
風を切る音が鳴る。
視界の左下斜め方向から右上方向へ向かって血飛沫が飛ぶ。そう。当然それは私の血。肩の上部と、首の左側に、そう浅くはない傷ができたようだ。
私は自身の軽率さを後悔した。分かりきっているではないか……。こんなところに存在しているのだ。だからこいつは、悪魔少女のコントロールをいつでも受ける。受けている。
先ほどまでの状態が制御されていない状態で、今が彼女の制御下だとすれば、この反応も有り得る。それか、彼が自らの意思で私に対して敵対的になったか、敵対的な意志を隠すのを止めたか、錯乱したか。
どれにしても、戦いは避けられそうにない……。
私は体を、反射的に傷が浅くなるように、右へ体を傾けていた。辛うじて、だが。首は右にしっかりと傾けていた。
だが、それでも、遅かったようだ。
即死ではないが、その血の量からして、致命傷であることは間違いなさそうだった。血の小波、扇のような赤い血の流線が風切りの軌道に沿って空に舞う。
酸素の心配はしなくて済んでいたのに、また、心配しなくてはならなくなった……。血を失えば、やはり、意識は飛ぶ。そうなれば、結局、終わりだ。
スローの映像でも見るかのように、それが拡散する様子が視界に映る。そして、その傷をつけた彼が、刀身に何やらの紋様の刻まれた肉刀を左手でしっかりと順手持ちし、振り上げきった状態で構えているのが目に入った。
何やらの特殊効果が込められているのか……? なら、私は今、どのような状態を付与されている? どうやら即死系では無いようだが……。
次に振り下ろす仕草でニ撃目を加えようとしているようだったためか、その刃に刻まれた紋様がよく見えた。二枚の羽根が交差する意匠のようだ。それがはっきり見えたのは、刀身には一滴の血も付着していなかったから。
二撃目は、振り下ろされていない。どういう訳か、数歩退いて、彼は私と距離を取る。
「何故、止めを刺さない? この出血量ならば、そうする必要もないと判断したのか?」
私は思わず、疑問を言葉にした。今は血を、節約しなくてはいけないのに。
彼は答えない。
そうして、またもや膠着が始まった。
流れ出る自身の血の量に、感嘆した。
血というのが、これだけ自身の体の中に詰まっていたのかと、変な感動を覚える。再び気絶は確定か……。
血は傷口から吹き零れ続けており、足元に血溜まりを形成していた。
油断した……。このような事態に陥るなんてことは防げた筈だ……。たとえ防げなくとも、こんなにも状況はすぐに悪くはせずに済んでいただろう。対抗手段を考える時間もあっただろう、十分に……。
オレンジ色の熱線を向けられた訳でも無いのに、このざまだ。
彼の肉刀の一振りは、原始の世界で私に立ちふさがった人外、悪魔共と比べれば、どうということもない類のものだったのは間違いない。
何やらの特殊能力や魔法で縛られたわけでも、物理的に縛られていた訳でもない。
にも関わらず、見える速度であったその一撃を避けきれずに致命傷にすらなるのは、もう……。
あの部屋から気絶の後、このような場所に移動させられていたのに、私は目が覚めて警戒を解いてしまっていた。そして、彼が現れていたからも何か、根拠も無く楽観していた。
何度目だ? この籠の世界に来てから。幾ら何でも多過ぎる。まるで、そうなるように促されているようにすら感じる。
私の心は余りに無防備過ぎる……。
霞む頭に浮かんだ最後の言葉。それは……。
後悔、先、に、立た……ず。




