精神唯存揺篭 浮遊島群 未だ尾を引く後悔の島 (冬) Ⅵ
そして私は観測を終え、目を開けた。
私はその場に座り込んでいたらしい。私の位置は先ほどと同じまま。意識を失って、悪魔少女たちの母親の記憶を見せられる前の状態のままだ。
だが、頭からは血は流れていない。私と彼女たちの少女形態の母親の出した汚物の混ざり合った水溜まりは熱を失くしているが確かに残っている。
どれもこれも、現実だ……。
周囲を見渡すが、悪魔少女の存在は見当たらない。気配も無い。だが……、窓の辺りに悪魔少女たちの母親たる少女が私を見下ろすように、月とその光を背に立っている。
月は通常の色をしている。月の光も紅くない。月の大きさも変わっていない。変わったのは、少女の目つきと、醸し出す雰囲気。
先ほどまでの狂気は感じられない。唯、死んだような目をしている。その目に意志は見えない。
血の滴る鎌を床に引き摺り、立っている。
2メートル程度の長さの赤黒く染まった木の柄。長く湾曲しており、内側が切断用に砥がれ、まるで刀のような波目状の刃紋付きの、長さ60センチ程度、広い部分の幅は20センチ程度にもなる鎌状刃。
死神の鎌を模したものか? それにしても、大き過ぎる。あのなりでこれをまともに振るうことなどできるまい。たとえ振えたとしても、その軌道がそう自由にはなるまい。
だが……。あの血。あれだけの死臭漂わせる血。垂れてきているあの血は、赤黒く、新しいものとは思えない。それに、あの粘度……。べとりと、鎌の先端から糸を引くように粘り気のある何かがぶらぶらと伸び、血を1センチ程度の玉状に溜め、落としている。
ブゥオオオオオオオオオオオオオ!
吹き寄せた風と共に、色濃く漂ってくる臭い。人の匂いと獣の臭いの混ざったような……。血とは違って、その臭いは鮮度が高いようで、腐ったような臭いはしていない。
ガラララララララ、ズッ!
彼女が鎌の柄を肩に乗せて背負いつつ片手で持ちながら、顔を上げて私の方を向いた。依然目は死んでいて、その焦点はどこにも合っていない。それでも明確に、その顔は私を見ている。
私は立ち上がり、弓と石を握り、立つ。
10メートル程度の距離が私とはある。だから、私はそうやって冷静に見れているのだ。そもそも、意識を失っていたにも関わらず、私が彼女に何もされていないことからして、すぐに戦闘ということにはならないだろう……が、これが悪魔少女の何やらの仕込みだという可能性もあるのだ。
悪魔少女と白羽根の契約の後からは、どうも悪魔少女は回りくどい行動を取ってくる。
だとすると、その狙いは? やはり、動揺か? それか、同情を誘うため? 何れにせよ、私の動きを鈍らせる為か? 判断力を削ぐ為か?
そんなことを考えながら、私は、そろり、そろりと後ろへ下がる。ジグザグに下がる。そして、扉へ手を掛けるが――――開かない。
当然、か。そして、扉辺りから引いて見ても、窓の外の庭園の地面は見えない。見えれば彼女を無視して脱出が容易に叶ったのだが。あのような様子からして、まともに相手したくはない。
「じゃあ、私と遊んで、ふふふ」
無邪気に人懐っこく、柔らかな甘い声で少女は私にそう言い、鎌で空を切る。鈍く風を切る音がした。
私の方向を向いて振るわれたのだから、かまいたちでも飛んでくると思い、すぐさま地面に伏せた私であったが、何も起こらなかった。
少女は相変わらず、目の焦点は合っておらず、瞳孔は開き切っていて、酷く不気味だ。そんな状態は微笑を浮かべたまま、楽しそうに私に一歩、一歩と、近づいてこようとしているのだ。少女の靴が、こつんこつんと、足音を響かせながら、私に接近してくる。
私はストックした石の一つを残して、残り全てを同時に弦で引いて彼女に放つ。弦を引く強さは緩めで。
まともに相手して勝てるとは思えない。だから、不意打ちで倒す。
私は扉付近の床に落ちていたものを拾い、抱え込みながら、雷と風を纏いながら合体して飛んでいきながら大きくなっていく射出物が消されていないのを確認し、全速力で走りながら彼女に接近していく。
風と雷の球と彼女との距離が3メートル程度に迫る。
彼女は鎌を後ろに退く。これで確定した。あのときの複数本の矢の一撃を防いだのは、あの鎌によって、だ。特殊な力の類では無い。なら、それはきっと、目で見て鎌を振るって初めて有効になる。
私もそれ位の距離まで近づくことに何とか間に合い、彼女の斜め左3メートル程度地点で足を止める。後は、タイミングだ。振るわれる前でなくては意味が無い。だが、早過ぎても意味が無い。
彼女が少しばかり鎌を後ろに退き、踏ん張る姿勢を見せた。
今、だ!
バサァァァァァァ!
後は、風さえ吹かなければ確実。頼む、上手くいってくれ! 私は心の中で祈りつつ、彼女に向かってカーテンを両手で投げつけた。開いたカーテンが彼女と矢に触れる。射出物が纏った破壊の風と雷は、何かに触れた地点で効果を発揮する。それは、彼女がくるまっていたもの。そして、私の所持品扱いでも無いもの。床と同じような判定を受けるに違いない。
そして、その通りになる。
バサッ、チリッ、ブゥ――――
だが、未だだ。直接当てた訳ではないのだ。効いているかは分からない。だが、確実に動きは止められている。想定外の攻撃なら、意志の無い状態であるような彼女の行動を乱せると考えた私の予想は当たったのだ。
消滅はすぐ発生する。あとせいぜい、2~3秒程度か?
だから、私は矢と最後の石を出して、弦で強く引く。カーテンごと吹き飛んでいく直前の彼女に向けて。こうして放つ石は私の一部扱いであり、消滅の対象外。だから、吹き飛ばしの風が発生する前であれば、当たる。
だが、狙いなんてはっきりは付けられない。とにかく、どこでもいいから当てることだけを考えて、放った。
それが到達したかしないかの結果は分からない。当たったか、当たらなかったか、目では捉えられなかった。到達した後、時間差で効果は発生する。先ほど放った分が発生させる吹き飛ばしの風のエフェクトが轟音と共に発動し、
ォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――
私は目を開けてられず瞑る。壁に向かって吹き飛ばされていく――――かと思いきや、それは止まる。壁に吹き飛ばされて軽く背中を打つ程度で済んでしまった。
オッ、スゥゥゥ。
と、風は掻き消されるかのように止んだのだ。
そんなことができるのは考え得る限り、二人。悪魔少女か、その母親である少女。
追い打ちの一射を止めておけば、窓の外に向かって吹き飛ばされる位置取りもできたが、逃げ切れなかった場合が厳しい。もう矢として放てるストックしてあるものは小石一つだけではどうしようも無いだろう。
だから私はここで彼女を仕留める方に賭けた。これも逃げと同様、確実では無い。だがそれでも、できるだけのことはした。
そして、私は恐る恐る目を開ける。すると、腹部に半径10センチ程度の風穴を開けた少女が立っていた。鎌を両手杖の代わりにして、苦しそうに膝を立てて体を倒れないように何とか支えていた……。
ああ、駄目だったか……。私の、負け、か……。私はそれを素直に受け入れる他無かった。何が彼女にそこまでさせたのかは分からない。彼女の目には強い光が戻っていた。つまり、今立っている彼女は正気だ。つまり、自分の意思で、そうして倒れずにいるのだ。
見るからに苦しそうな顔をして、少女は口から吐血する。腹の風穴から血を流す。
「はぁ、はぁ、はぁ、あ、貴方、御強いのね。ぶほっ、ごほっ、ごほっ。それに、聡明であるようね。げほっ。お、お願いがあるの、きっと貴方なら、できるかもしれない。あの子たちを止めることができるかも、しれ……、ない……」
少女の目の強い光は揺らがない。だから、今言ったことは本心だろう。口から血を吐きながら、未だ少女の姿の彼女は、とても母親らしい月並みなことを言って、
ガコン、バキッ、ズサァァ……。
鎌が折れ、彼女は地に臥せた。それでも私の方を見上げて、微笑を浮かべながら涙を流し、血を吐いて、私に左手を伸ばしながら、
「ど、どう……か……」
スゥゥゥゥゥゥゥゥ……。
そう最後に私に向けて言い残し、灰となって消えた。
私はすぐさま次の行動に出る。ここでじっとしていても何も起こらない。何も進まない。唯、起こったことを思い返して感傷が深まっていくだけだ。それは私の手を鈍らせる。何一ついいことは無い。
扉が開くようになっていたら、外に存在していた黒い靄が消えていないか確認しなければならない。もし消えていなければ、この部屋にそれを拡散させ、廊下の靄の密度を下げなくてはならない。
この部屋の探索以前にそれをやっておいた方がいい。靄が拡散して薄くなるには少しばかり時間が掛かるだろうから。
扉へ向かってゆっくり歩きながら私は考える。
先ほど、彼女は、『あの子たち』を止めて欲しいと言った。誰が言うことが本当か、いや、そもそも、全員嘘をついているかも知れない……。だが、あの言葉は嘘か……?
そうは思えない。あれは真摯な願いだった。
では、白羽根も悪魔少女側か……? いや、そうは思えない。では、彼女がそう思っているだけか? なら、最後の言葉であんなに真っ直ぐな迷いない目で言えるか、頼めるか?
確信があったのだろう。何か。彼女は何か、重要なことを知っている。
察してくれということか? わざわざ、彼女は私のことを聡明と言った。あのような瀕死の状態でそんなことに、言い回しに、文字数を割いたのだ。
そして私はそれを見せられた記憶の中で見た? いや、ない。あれだけ何周も見直したが、それらしいものは頭に上がってきてはいない。では、記憶として見せられなかった部分にその何かはあるのか……?
扉の前に到達した。
扉が開かないままかどうか確認するため、取っ手に手を掛ける。そして、引く。開くようだったので全開にした。だが、黒い濃密な靄は廊下側からこちらに流れ戻ることは無く、消えずに存在したままだ……。
あの中を通るのは無理。精神状態が万全であろうが、あれは無理だ。あの真っ暗にしか見えない密度の靄を最低でも回廊半周分の距離、進んでいかなくてはならないのは……。
現に、足を一歩試しに踏み出してその中に体を通してみると、
ゲホッ、ゲホッ。
咽た。




