精神唯存揺篭 浮遊島群 未だ尾を引く後悔の島 記憶渦遠望俯瞰観測 Ⅰ
赤羽根は幼女だった頃にその家に引き取られた。子孫を作るための容器として。幼女はまず家に慣らされ、しかし、居心地良くはされず、毎日そこに来る前と変わらない水準の質素な食事と質素な衣服で、質素な部屋で生活させられてきた。窓の無い狭い石造りの部屋で。
そして、薬の効果が行き届いた頃、幼女は少女となり、そして、容器としての機能を得た。それを確認した男が、彼女を連れてきて、彼女に言ったのだ。
『私は君を喰べにきたんだよ』
男の低く、太い、欲望に満ちた、汚れた笑い声が響く。カーテンは左右の端に束ねられており、月明りが差し込む。夜なのだ。それは奇しくも、私が彼女と対峙したのと同じように、夜なのだ。
少女は震える手で、怯えるように服を脱いでいこうとする。だが、脱げない。まともに手が動かないのだ。
少女は恨めしそうに震える自身の手を見つめる。あの汚い声の主ではなく、自身に怒りをぶつけている。
それはとても儚げで、惨めで、愚直だった。無垢だった。
焦りが大きくなり、少女の目から涙が流れる。
少女の心が声を発する。心の声が私にも聞こえてきた。
捨てないで。
外に出さないで。
追い出さないで。
此処しか生きていける場所なんてない。
そう。
だって私は……。
そこから先は叫びに変わった。心の声は心の慟哭に変わった。だが、聞かなくとも、分かる。答えはもう出ていた。
窓から差し込む月明かりが、涙を拭う動きをした少女の手を照らした。それが、透き通るかのような、存在の薄さ、儚さを醸していたのだから。
そして、少女は涙を拭った、少し湿った手で、自身の上半身の布地に手を触れ、強く握る……。
その日、少女は無慈悲に男に初めて貫かれ、股ぐらから血を流した。
メラニン色素欠乏症。俗に言う、アルビノ。
白羽根と同じ病状。しかし、そうであるとはなかなか確信を持てなかった。一周二周と、回数を重ね、漸く、それで違いないという結論に至った。
それが、赤羽根がこんな境遇から、自由を奪われていたにも関わらず、逃げなかった理由。
好感度の転換が徐々に進行するとはいえ、それが負の方向に振り切っていては、逃げるか、自壊するか。そのどちらかだっただろう。
彼女は自壊するという決断をしなかったのは、ひとえに、そのような決断が彼女の頭の中に存在しなかったから。そのような先例も見ることなく生きていたから。要するに、環境だ。
彼女はそのようにして、奇蹟的に生き残った。彼女が望む望まないによらず、運命のようなものに、偶々拾われた。それが何度も少女期の彼女を周回して私が抱いた印象だ。
この少女の髪、先ほどは気付かなかったが、この少女の髪、赤、金色、白色へと色が薄くなっていくグラデーションになっているのだ。僅かだけだが、金色の層があったのだ。
眼の色は確認できないが、きっと、真っ赤というわけではあるまい。視力に不備は見られない。私よりもだいぶ低いが、まあ、裸眼で生活に支障ない程度の視力は保持しているようだ。
メラニン生成能力が全く無いとすれば、金色や赤色が髪色に混じることは無い。だから、少女の場合、軽度もしくは、太陽の下に出ても支障のない程度の幅に収まっているとは思うが。
広義のアルビノという意味では、赤髪もアルビノに含まれる場合があるのだが、通常使われるアルビノという言葉の範囲には大概それは含まれない。
毛先に進むにつれ、脱色する赤髪。それ自体がまず珍しい。肌から判断すると、アルビノらしい条件は少女の肌くらいだ。髪を見ると、どうであるか分からなくなってくる。
あの男の影の言葉からして、彼女は軽度のアルビノなのだろうと私は結論付けたのだ。
……。
そんなことは、実のところ、どうでもいいことだ。それでも無理やり、考えた。頭の中を別のことで一杯にするために。少女の悲壮が流れ込んでくるのだから。それをやり過ごす為に。
ここから先が重要だ。地獄を乗り越えた先の彼女の心の変化が生じる部分が現れる。それを私は分析し、理解しなくてはならない。どこから変化は生じ始めたのか。それが重要。そして、そのきっかけを特定しなくてはならない。
何度も何度も、毎日のように夜になると繰り返される拷問に等しい行為。彼女は、それをただ、耐え続けた。
私はそれを乾いた目で乾いた心で俯瞰する。観察するという行為はそうでなくてはならない。寄り添う視線では心情ではいけない。第三者の視点で見ることで、物事は初めて分析できるのだ。
再び再生する、地獄の始まりの日の夜。今度は別のところに焦点を、意識を集中させて、見る。彼女の記憶はばらばらで、意味を為さない部分や、分割され別の二つの記憶になった部分も存在している。
だから、何度も同じような光景を見ることになる。周回しようがしなかろうが。
少女は、薄いそれを引き裂いた。少女の力でも容易に引き裂けるほど、それは華奢だったのだ。
『其処の前に、背を向けて立ちなさい。君は逆らうことは許されない。それが何を齎すか、それは君は知っている筈だ』
先ほど私が戦い、今私が倒れている部屋だ。そこで嘗てあった出来事。少女の記憶。
少女の立っている位置は私が最初立っていた位置。そして、少女が私との対峙時最初に居た位置には、大きな影のような靄が聳えていた。
人の形をした靄。立体的な影とでもいえば、しっくりくる。それが、悍ましい欲望を抱えたそいつは、白羽根と悪魔少女の父親だ。
そのように見えるのは、これらが記憶の主である赤羽根の心象の光景だからだ。
『ふふ、なまじ賢いだけのことはあるな。赤らめるか、その年で、顔を赤らめる。つまり意味を知っているのだな、君は。ふふ、我ながら上手く旨く美味く巧く甘く仕上げられた』
僅かばかり開いていた部屋の扉に気付き、男の影は、扉へと進んでいき――――
バタン……。
その音に合わせるように、その場面の映像の鮮度は落ちて、ブラックアウトする。
次見るべき記憶へと進む。それは、少女が乙女となり、淑女へと足を踏み入れるかといった程度の頃の記憶。
一連の記憶として見れる記憶であり、彼女という人間がどのようなものであったのかが、垣間見れる記憶でもある。
その中でも焦点を当てるべきは、ここ。彼女が少女を経て、乙女といえる年頃になった辺りのある日の場面。
その場面も夜。屋敷の何処か。四階大部屋とは違う、何処か。窓の無い白い部屋。中央に大きな白い球状の明かりが吊るされている、10畳程度の、継ぎ目の無い、部屋。
『君は無事、事を成し遂げた。失敗するだろうと、私は思っていたんだけどね。で、だけれど。君に尋ねよう。早速だけれど、尋ねよう。君の願いは何だい。私に叶えられる範囲で一つ、願いを叶えよう。予ての約束の通り』
男の影は、子供用ベットの横に立って、そう言った。
「……。じゃあ、こうしてくれないかしら。私たちを幸せにして。私も手伝うから、私たちを、幸せにして、私とこの子たち、それと貴方を、幸せにして。でね、……」
そこで、乙女は言い淀む。子供用ベットの横の、大きめのベットの上で、疲れを色濃く残した乙女は横たわりつつ、男の方を向いていた。
そして、私の視界が歪む。乙女が涙を流し始めたから。
「もう、そんな無理しなくていいの。もう、いいの。叔父様も叔母様ももう、居ないんだから。無理しないで……、ねえ。貴方、お願い……。そんなこと、言わないで……。貴方のこと、恨むなんて、もう、辞めるから、お願いだから、もう、辞めましょう」
乙女は子供用ベットに横たわり、ぐっすり眠っている双子の赤子を見て、自身の思いは揺らがないことを再確認し、男の影にこう言った。
ああ、ここだ。やはり、ここだ。ここが分岐点。彼女の心境が変化した点。そして、彼女と男との関係が変わった点。長く続いた地獄が終わった点。
「でね、幸せに、幸せに、なって、して、わだし、も、がん、ば、る、から」
乙女は泣きながら、そう、頼んだ。男の影から、闇の靄が晴れる。泣き崩れた。若い男が姿を現した。
首の皺の程度から、20代であると推測できる。ベスト、その下から覗くフリル付きの白いシャツ、白い細めの縦ストライプの入った濃紅色のスラックス、上に羽織った、膝下まで届く、長めの薄手の透けるような薄さの茶色の、ボタンを全部開けた状態のロングジャケット。
北欧系の顔つき。深い緑の瞳に、短い、ワイルドショートヘアの、無造作な栗色の髪。彫刻のように凛々《りり》しいというよりは、それから角という角を丸めたような、可愛らしい顔を、少し中性的な顔をしている。
最初それを見たとき私はかなり驚いた。その姿から、あの影の幻影のような巨体を彼女に幻視させるとは……。それだけ彼女は恐怖を味わった。それだけのことだ。
男は泣きながら立ちあがる。鳴き声は一切上げてはいなかった。
そして、乙女に対して、こう言った。
「ああ、赤羽根。君に誓う。私はその願いを全力で果たすと、誓う」
男は乙女を見つめたまま、ただ、涙を流し続ける。真っ直ぐ、涙を流し続ける。それは、歪んだ顔。
男はどこからどう見ても、誠実な紳士にしか見えなかった……。
成程。黒羽根こと悪魔少女もこれらの映像を見たなら、これが男にとって一方的に都合がいい、勝手過ぎる豹変に見えるだろう。
だから悪魔少女はこれらの記憶群を見せる前、あんなにも辛辣だった。悪魔少女はきっと、父親が嫌いなのだ。嫌いで嫌いで堪らないのだ。
彼女にはこの光景が信じられないのだ。決して。彼女は理解できないのではなく、理解しようとすらしないのだ。永久に。
悪魔少女はきっと、辛い部分は禄に目を通していない。悪魔少女には忍耐力が欠如しているのだから。
だが、目を背けず耳を塞がず、逃避せずに見れば、見続ければ、理解できる類だ、これは。
乙女、赤羽根の瞳からはとりどめなく、涙が溢れていたから。
そして、私は胸が楽になった。乙女の心から、淀みが解消されたのだから。暗雲がすうっと晴れるように。靄がすっと消えるように。
赤羽根とかつて鬼畜に撤したそれとは正反対の性質を本当は持っていた男。二人の関係は、親戚であり、少し年の離れた夫婦である。これは、双子を得た、本当の意味で家族になった二人と、二人の子供が生まれたときの話。
それでこの場面は終わり。
周囲の空間が、硝子のように砕け散り、再び、集合し、新たな背景を映し出す。そして、淑女の記憶が再生されていく。
新たな場面がすうっと構成されていく。この場面は、悪魔少女と共に見た、あの食卓。悪魔少女と見たときと同じ。悪魔少女が私に残した褒美にあたる部分である。
展開される場面は、あの食卓の裏側。