精神唯存揺篭 浮遊島群 未だ尾を引く後悔の島 (冬) Ⅴ
これは舞台だ。そういう役回りを期待される場面だ。本気でなくともいい。それに迫っていればいい。嘘であろうと。
少女を喰べる。それが意味するところは、彼女の問い方からして、一つしか無い。だから私はそうしたのだ。
そうした趣向を持つ人物になりきるのだ。そうした人物の感情に心をなぞらせるのだ。以前の私がそれを第三者の視点で見たデータを残していたのだから、そう難しいことではない。
どうやら拘束は解けたようだ。彼女が自身の手をぶらりと、諦めたかのように垂らし、私の方を死んだ目で見ながら立っている。その瞳は、鏡のように、今の私の醜悪ぶる演技の見事な出来を映していた。
それでも私はそこで止めず、演技を続ける。拘束が解けたのだから、もうそうする必要は無いのだ。だが、それでも、私はそうする。
私が味わったのとは違うが、恐怖を、傷を、彼女に与えたい。傷つけてやりたい。し返してやりたい。悦に浸りたい。無残にぼろぼろで、死んだ目で涙を流す彼女を見たい。無様に蹂躙されてもきっと彼女は美しいだろう。それはきっと素敵だろう。
外道の心に浸り寄り添い過ぎた私は、いつしかそれそのものに成り切っていた。
舌を、自身の唇を一周するように這わせ、私は彼女を舐め回すかのように凝視しつつ、心臓を昂ぶらせ、接近を始める。
「はは……、ははははあははは、あははははははは」
高笑いを始め、私が歩を進めるが、彼女は一歩も動かない。俯いて諦観している。先ほどとは違う、その冷たく無機質な感じが、そそる。
そうして、私は手を伸ばし、彼女の両肩に強く爪を喰い込ませ、滲んできた血を啜ろうと彼女の右肩に口をつけた。
濃厚な血の匂いと味が……。
「うっ、ぶっ、」
私は腹の奥から、喉から、込み上げてきたものを感じ、我に返り、彼女を突き飛ばした。窓までは距離があるのでその行為には問題は無い。
そして私は後ろを向き、
「ガゴホォォォォォ、グホォォォ、ブエブクブク、ガッ、ボホォォォ」
ガクッ、ベチャ、
そうして膝をついて、そのまま、
ブチャァァァン!
自身の吐瀉物の上に倒れ込み、
ジョォォォォォォォォ……。
「ぐぞぉぉぉぉぉ……」
女々しく嘆いて、漏らした。
何をやっているのだ、私は……。こんなもの、正気の沙汰では……、無い……。生暖かさと臭さの中に私は埋もれた……。
謝らなくては……。これが虚構であるとしても、私のしたことは、やってはならないことだ。唯、自身がどうしようも無いからと悲嘆している訳にはいかない……。
何より先に、謝らなくては。
だから私は、すぐさま立ち上がり、両手を後ろにつき、お山座りで足を少し開いた状態で、天井を死んだ目で見ている無表情の彼女の前に立ち、その首に前を向かせた。そして、そこから数歩下がり、
ゴォ!
「す、済まな……かった……」
頭を血が出る程強く地面に打ち付け、土下座したのだ。そのまま頭は起こさない。彼女が何か言うか、私に触れるかするまで。
流れ出す血のせいか、頭がくらりとする。流れ出す血のせいか、頭が生暖かい。流れ出す血のせいか、甘酸っぱい匂……い……?
頭が、顔が、湿っていく感覚……。それが間違いであることを愚かしくも祈りつつ、私は顔を上げると、
死んだ目で涙を流しながら俯いたまま――――黄色い液体を音を立てず漏らしていた……。
「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"――――」
私は発狂し、頭を床にぶつけ続けた。
ビチャ、ビチャ、ビチャ、ビチャ、――――。
だが、その音が変わることは無く、起こった事実も変わることなく……、
「【うふふ、あは、あはははははははは、貴方って、き・ち・くぅぅ~なのねぇ! でも、正解。あははは、あはははははははははは、あはははははははは。】」
響き渡る悪魔少女の声。
「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"――――」
無反応な目の前の彼女。叫び続けながら無為に、塗れる臭いの水溜りに頭をぶつけ続ける私……。
ビチャ、ビチャ、ビチャ、ビチャ、――――。
「【正解した貴方にはご褒美をあげる。貴方がしようとしたこと以上のことをした鬼畜の所業。それを体験してきなさいな。被害者側としてね。あはははははははははは、あははははははは!】」
笑い声が消えた後、ずきんと、頭が痛んだ。一度真っ暗になる視界。そこで、意識が落ちたのだと私は理解した。
そして、色々な映像が一気に流れ込んでくる。それは、誰かの、記憶だ。
「【これは、貴方の目の前のその存在の記憶。私もその中に後ほどだけど出てくるわぁ。貴方が、辛い辛い序盤を耐えきれたら、私についての情報を持って帰ってこれるかもね。じゃあ、せいぜい、苦悩しなさいな。】」
悪魔少女からの前置きのような説明が入り、再生される。それは、先ほど私が傷つけてしまった者の生涯の記憶。
濁流に流れ込まれるように、私の意識はその中へと呑みこまれていった。
私と最初対峙した、幼女だった頃から、彼女の記憶は再生され始め、淑女といえるくらい成長するまで生き延びた彼女の死を以て終わった。
情報は一気に流れ込んできて、私の頭をごちゃごちゃに乱す。だが、それらは失われていない。整理しなくてはならない。幸い、外から新しく情報が入ってこない今であれば、それができそうだ。
苦行でしかないが、やらない訳にもいかない。確かに大切な情報はあった。それはここで失う訳にはいかない類のもの。ああ、確かに褒美と言えるだろう、これは。だが、余りに毒を含み過ぎている。一度一気に見て、再び振り返って見て、心が穢れていくのが分かる。分かってはいけないものを理解しそうになっていることが分かる。
それはとても悍ましいものではあるが、とても人間らしいものでもあり、私の知らないものだった。だから、吸収してしまう。そうしたくないのに、そうなってしまう。きっと悪魔少女は嘲笑っているだろう。だが、それは私の武器になる。それを受け取って、私がどう変貌するか、悪魔少女は分かっていない。
私がそんなもので砕け散ってしまうのなら、もうとっくに折れている。それが悪魔少女には分からないのだ。
私は毒を知った。悪意を知った。愉悦を知った。だからもう、私はきっと、悪魔少女の思惑には引っ掛からない。振り回されない。私はそれよりもずっとずっと業の深い闇を見た。変に拒絶したり、畏怖したり、都合良く目を背けたり、もうそんなことはやらない。やる意味を感じなくなった。
だからこうやって、私は何度も何度も、この泥のような記憶を啜って、何度も体験しながら思い返しているのだ。
そして、分かった。彼女が非常に幼い、倫理なんてものを投げ捨てたとしか思えないような幼いときに子種を植え付けられたしまったことを、そして、あの双子、白羽根と悪魔少女の母親が彼女であったということを。
白羽根と悪魔少女の母親である彼女の名は、赤羽根。そして、悪魔少女が人間だった頃の名前は、黒羽根。
私は、流れくる記憶の奔流を私はかろうじて、自我を保っていた。なぜならこれは、追体験だったから。現実かと錯覚してしまえるような濃密な記憶に準じた、体験だったのだから。
大変だったのは、彼女の記憶を一巡するまでの話。それから以降はそうでもない。自分が彼女であると思いこまず、あくまでこれが、自身の記憶ではないと、常に意識し続け、俯瞰的に見る。コツを掴めば、そう難しいことではない。何度でも挑戦できたのだ。折れない限り、何度でも。なら、容易い。
私には折れてはならない理由がもう、幾つも折り重なっている。背負っている。それらは重荷であるが同時に、私を折れないように補強しているのだ。悪魔少女にはそういったものが無いのだろう。いや、無いというより、知らなかった、気付かなかった。そういったところか。
この毒のような泥の記憶の中にすら、それはあったというのに。理解したくもない悍ましい思考と理解できない思考が結びつき、できた、ある種の愛。それを私は見出した。
確かにこれは悍ましい記憶だ。だが、ただ単にそれだけという訳でも無いのだ。
それは、記憶の最初からそうだった。どうしてその記憶が色濃く残っているのか。その意味を考え、理解し、感応することが、悪魔少女にはできなかったのだろう。それがとても、可哀想で、愚かしく私には思える。それを知れば、きっと悪魔少女は一つ、"安心"できるだろうに、と。
順序や時系列はまだぐちゃぐちゃ。だからそれを、疑問点や抜けた点を解消し、自分なりの辻褄を組み立てていく。そうすることで、部分としてではなく、流れとしても理解するのだ。
彼女の言葉、『貴方、私を喰べに来たの?』の意味を。彼女の記憶の中でも私が彼女と対峙したのと同じ構図の場面があったのだ。私ではない、別の誰かが、彼女に対峙し、こう言ったのだから。
『私は君を喰べにきたんだよ』
そして、思い返すように、少女のその、痛ましい記憶に再び私は没入していく……。
少女は喰われたのだ。比喩的な意味で喰われたのだ。喰い散らされたのだ。未熟なその身を。
つまり、犯されたのだ。
無垢な少女のうちに、彼女は、犯されたのだ。
目を背けたかったが、聞き流したかったが、意味深な言葉を含んでいるため、そうするわけにはいかなかったのは、かなり、辛い。生理的に嫌悪すべき事柄だ、これは。
ペドフィリア。13歳以下の児童に対する性愛を意味する医学用語。要するに、幼い子にのみ、性的欲求を抱くこと。
『私は君を喰べにきたんだよ。今夜、君を私は、喰べに来た。我が家系の念願を叶えるために、君は相応しかったのだから。あれはきちんと飲んだかい?』
ふくよかな、巨大な影がそう優しく尋ねた。
これがこの男の口調。男は常にこのような口調。撫でるような口調。
こくんと、一度、少女は頷いた。
『さあ、脱ぎなさい、服を。下着を。ふふ、ふふふふふふ』
そして、男は、気持ち悪い癖を持っていた。心の昂ぶりに応じ、気持ち悪い笑い声を浮かべる。
少女の心に、その年にしてはわりと信じられない大きさの羞恥心と、飲み込まれてしまいそうな嫌悪の、嘆きの、憤怒の渦が沸く。
『さあ、その、日の光の下での存在を許されない、硝子細工のような繊細な、透ける、幻想的な皮膚を晒すのだ』
そうして私は、見せられた記憶を再生しながら、その中に、観測者として深く深く没入していった。




