精神唯存揺篭 浮遊島群 未だ尾を引く後悔の島 (冬) Ⅲ
「ねえ、あなた、だぁれ?」
そして、とうとう、笑い声と笑顔は消えた。
とろけるような、甘い声。臭いにはもうすっかり慣れてしまい、その声のねっとりとした甘さに私は耳をやられる。
これまでに遭った悪魔とは異なる性質を持つことを私は把握した。
冷たい目をして私を見ている。だが、その場から動こうとせず、凝視しているだけ。もう、慣れた。だから、そんな今なら、やれる。
「知りたいか?」
後ろで手を組み、背筋を伸ばして胸を張って立ち、彼女を真っ直ぐ見据えて私は彼女にそう言った。わざとらしく大きな声で。
「えぇ」
そう言うだろうことは分かりきっている。そして、再び笑顔に戻り、放つ雰囲気が弛緩することも。
「では、先に、君の名前を教えてくれないか?」
彼女が年相応の幼女では無いと分かり切った上で私は彼女にそう提案する。
「くす、くすくす。わたしのなまえはねぇ、」
だが、言わせるつもりは無い。
「いや、やはり、私から先に言わせてくれないか?」
「えぇぇ~っ、なんで?」
そう無邪気を装う彼女に私は苛立ちを募らせずにはいられなかった。登場の仕方からして、どう見ても自然なその所作は、精度が高いだけの造り物。そう私は一度感じてしまったのだ。そうなれば、もう、違和感は拭えない。
「決まっている」
だから、私は僅かに残る最後の躊躇を振り払うために、そう力強く言い放つのだ。
私は即座に弓と矢を出しながら、足を開いてわざとらしく音を立ててずっしりと安定して踏ん張れる姿勢で立つ。
「そんなことはなぁぁぁぁああ、」
その声で矢で弦を引く音をごまかしつつ、
「意味が、無ぁいからだぁぁぁ! 私の前から消え失せろぉぉぉぉぉぉおおおおおおお!」
最後の言葉を投げかけながら、弓を放った。弦の引きは限界。引いた矢の数は、残り本数全部。頭の上から、彼女に向けて、思いっきり放った。そして私はすぐさま、窓の方へ向かって走り出す。
私のストレスは限界だったのだ。やりにくくてやりにくくて仕方が無かった。
もう止めだ、止め。こんなところ、まともに探索なぞ、できない。もう、武器も禄に無い。あいつ以外にも何かいるに違いないだろう。この島は、一人で探索するには余りに危険過ぎる……。あの崖一つあるだけで、下は溶解液の海だったあの島の方がまだましだ……。
最良の結果は、仕留めること。最悪でも、この島からの逃避はやり遂げたいところだ。そうできると計算した上で、まともな武装を使いきっての行動。決まってくれなければ、ほぼ詰みだろう。
やってしまい、気付く。それが所詮、賭けだったことを。不確実で、先走りでしかなかったことを。
だが、もう引き返せない。こうする前の状況には戻れはしないのだ。私は時折振り向きながら走っていく。
スゥゥゥゥゥウゥゥゥ、
紫色の雷と緑色の風を球のように纏ったそれは肥大化していき、
ビューーーー、
幼女に迫り、
グォォォォッォォォオォオオオ……
掻き消された、だと……。
私は外へと足を踏み出した瞬間、それを見た……。そして、私は落下していく。建物三階分。下が何であろうと、無事では済まない高さ。
どんどん強くなっていき加速していっている筈の私の体。それと相反するように、遅くなる体感時間。
その間に考える。
外すことも想定しての一撃だ、あれは。だから、彼女が避ければ、壁に飛ばされたカーテンに当たる軌道だった。だから、これまでとは違い、発動しないなんてことは無い。防がれでもしない限り。
だが、あれだぞ……。数本束ねて、異様な威力を持ち、悪魔であろうが、風と雷のエフェクトが発生する段階までいけばもう止める術は無いとお墨付きを悪魔そのものから貰った一撃だ。
決まらない筈は……。ああ、そうか。あの原始の世界の上位世界なのだ、ここは……。なら、こうなる可能性も考慮しておくべきだったのだ……。
これでは、次の島へと辿り着けない……。あの幼女が、私をすんなり見逃してくれるとは思えない……。捨て科白まで吐いたのだ。しかも、半ば不意打ちみたいな方法で……。
これは、流石に、まずったか……。落ちるのは、どこまでも広がる、この真っ赤に染まった雪の、いや、血の池の中、か。
いつの間にか、雪は降り止んでいて、地面には、狂った月から垂れてきた紅い液体が溜まって、周囲一帯を紅い海にしていたのだ。
私はゆっくり目を閉じた。
バシャァァァァンンンン!
同時に体中に走る衝撃。
駄目だ……。脳が、揺れ、た……。身体、は、損傷して、いない、が……、動か……せ、そう……に、ない……。
そして私は沈んでいく。幸いその紅色の海の中は冷たくはなかった。だが、咽るような味と臭いが私の中に広がるのだ。そう。それは、血の臭い。獣のものではなく、人由来の、血の臭い。
残っていた僅かばかりの空気を、沸き上がるものと共に吐き出してしまう。
意識……が。このまま……泳い…逃げ……、僅かな望……、断た……。
「ねえ、あなた、だぁれ?」
彼女は無邪気な顔でそう私にまた、尋ねる。
気付けば私は、血のような紅い海から引き上げられて、先ほど逃げ出した場所に横たわらせられていた。大の字の形に。そして、私の胸元には彼女が乗っている。馬乗りの状態だ。
咽る血の臭いが、私の鼻元にあった。血でべっとりとした彼女と私。彼女の衣服は血色に染まりきっていた。まだ、あの血の海由来の血が垂れている。
私は動けない。私が意識を失って、彼女に助け出されてこの状態になって、意識を取り戻してからそう時間は経過してないのだろう。
「だぁれ?」
血濡れの幼女が、私の肩に足をかけて、股で私の首を跨ぐように前にずれ込んだ。そしてそう言ったのだ。首を傾げながら、無邪気に。
血の気が引いていく。抵抗しようとする気持ちが、引いていく。そして、浮かびあがってくる、恐怖。汗が吹き出し始めた。止まらない。
その様子がとても美しく、絵になる。そう思う自分の感性が、気持ち悪くて堪らなかった。私は彼女に呑まれているのだ……。
怖い。底知れないのだ、彼女は。どうして、そう演技に徹することができるのだ? 全く最初からぶれていない。私が何をしようが、態度は最初と変わらぬまま。
駄目だ。振り切れない。そして、彼女に対する抵抗感や拒絶感や敵対心が、溶かされていくように消えていくのが分かる。
そう、ゆっくり自分が彼女に意志を呑みこまれていっているようで、恐ろしかった。私が私らしく振る舞えなくなっていっている。私が私でなくなっていく。考えが纏まらなくなっていく。
あれ、私は何をしたかったんだろうか……。
血濡れの幼女は、微笑みつつ、私を見下ろしていた。
唯、直感的な、本能的な恐怖感だけが残る。何故、何故、こんなに怖い? そういったものの対極にある彼女が、どうして、そんなに受け入れられないものであると、感じてしまうのだ……。
何かが、漏れた。下半身に生暖かい液体が滴る感覚を感じ、不幸中の幸いか、辛うじて私は現実を感じた。逃避は許されなかった。
何か分からない。だが、逃げなくては。ここから。彼女から。そうしろと、私の直感が、叫んでいるのだ。でも、そうしたくない。そうしなければ私は消える。そう直感するが。それでもそうしたくない。
何なのだこれは……。どうしたらいい、私は……。このまま考えることを止めてしまいたい。でもそう、どうしてか、できない……。
「悲しいの? 怖くないよ。良い子良い子、よしよし」
私の上から退いた彼女は、私の右肩上の床に座り込み、私をその胸に抱き寄せた。私の体は少しばかり抱え起こされて、頭は彼女によって抱き抱えらえたのだ。そのときの彼女の声は、やけにはっきりと聞こえた。先ほどまでも艶やかなような……。
血の臭いに混じって、甘い匂いがする。はっきり特定はできない。だが、それは、バラのような甘い甘い花の匂いだ。
そして、おかしな感触が顔にある。柔らかな感触が私の顔に。当たっているのは彼女の胸部。つまり――――先ほどの状態から成長した?
私は彼女の左肩の上を探り当て、開いた右手で軽く二度、
トン、トン。
と叩く。もう大丈夫だと合図すると意思表示すると同時に、彼女の肩幅を測った。明らかに、先ほどまでより広くなっている。
すると、そこには、優しい顔をした少女がいた。幼女ではなくなり、少女になった彼女が、いた。年の頃は、10歳に届くか届かないか程度だろうか? 頭身は伸び、胸部にささやかな二つの隆起した丘を見た。
座り込んでいる彼女の膝の上に頭を乗せられている今の状態ではそれ位しか分からない。甘い匂いが下から香る。甘ったらしくて、頭がもやっとする。それはとても心地よくて、このままじっとしていたい。そんな気すらしてくる。湿った下半身の気持ち悪さも気にならない位に快適だった。
それでも、何故か分からないが、動かないといけない。そんな気がした。
「あらあらぁ。じゃあ、これが最後ね。貴方の名前、教えて頂戴?」
ああ、これを魔性というのだ。彼女から目が離せない。彼女の周りだけ、見ていると、とても心地よく、頭が熱にうだされたかのようにぼんやりするのだ。だか、風による熱とは違い、それはいつまでも浸っていたいと思うくらいに素敵な感覚で……。
そして、その問いに正直に答えたい、そう思った。
「私が誰か、私は知らない。名前すら、分からない。私はそういう者らしい」
ただ正直にそう言った。ぼやけた頭。だから、理論整然とした回答にはならない。そして彼女の反応はというと、
「?」
首を傾げて、少しばかり難しそうな顔をしている。彼女は私の言ったことの意味が分からず考えているのだろう。
だが、私にはその意味が分からない。そう難しいことは言っていない筈だ。
とはいえ、私の言ったことが通じていなかったというのは分かっているのだから伝える努力をしなくてはならない。言葉の意味が分かっていないという訳ではないだろう。私の言っていることが彼女には埒外だったのだろう。
先ほどまでの妙に艶やかな甘い空気が緩んだお蔭で、私は少しばかりだが思考できた。
「私は自分の名前を忘れてしまったんだ。だから、お嬢ちゃんの質問にはそうとしか答えられない。だから、私には、今は、名が無い」
こくん。
彼女は澄ました顔でそう頷いた。




