精神唯存揺篭 浮遊島群 未だ尾を引く後悔の島 (冬) Ⅱ
狂った三日月は、湾曲面から紅色の雫を垂らす。それは雪の庭園に落ち、鮮やかな赤色に一面を染めてゆく……。
それに気をとられていると、
カタッ、ズゥー、ズゥー、カコン、カコン、ズゥ――――。
私は突如始まったその音に反応し、とっさに後ろを振り返る。すると、
「だあれ?」
幼い女の子のような声が聞こえてきた。ひとりでに動く安楽椅子の上からそれは聞こえたきたような気がしたが、そこには何もいない……。誰もいない……。
そして、椅子は突然、不自然にぴたり、と動きを止めた。私は戸惑いつつも、錯乱はせず、弓矢を構えて、椅子から時計回りに動きつつ、離れていく。
これ以上ここにいるのは不味い気がする。体中で鳥肌が立っていた。吐くものはもう無いらしく、嘔吐しなくて済んではいるが、これは、先ほどの血反吐を吐いたときよりもずっとずっと、不味い……。
扉に向かい、すぐにこの部屋から出なくてはならない。
そうして無事、扉の取っ手に手を掛けることができた。後は、椅子辺りと窓を警戒しつつ、急いでさっと出る。それで終わりだ。
弓矢を仕舞い、両手で扉の取っ手を掴み、引っ張ろうとしたところで、私の正面から突如強い風が吹き抜ける。
思わず目を瞑る。
しまった……。
目を開けずとも分かる。漂ってくる、臭い。濃密な血の臭い、鉄の臭い。咽るような、血の臭い。獣の臭い。それと、嗅ぎ覚えのある、人の様々な内容液の混合物の臭い。
どうして、ここにきて、こうなる……。もう少し、もう少しだったのに……。私は扉から手を放し前を見ず、弓矢を出して前へ思いっきり放ち、堪えきれなくなった胃から上がってきたものを勢いよく口と鼻から吐き出しながら地面に手と膝をついた。
べちょりと汚れる弓……。私はすぐさま頭を上げて、先ほどの一撃の成否を確認する。
消滅の風は発動しなかったのだから、矢は発動前に防がれたのか、避けられてそのまま遠くへ飛んでいったのかのどちらか。
だが、椅子にも窓の外にも何もいない……。窓の前には誰もいない……。どうなっている……。先ほどまでの臭いはしなくなっていた。私の吐瀉物の臭いだけが残っている。
何処だ! 何処に隠れている。何もいないなんて展開、それは楽観的過ぎる……。都合が良過ぎる……。これだけで終わる筈が無いのだ……。
そしてまた、吹きつけてきた風。
ブゥオオオオオオオオオオオオゥゥゥゥゥ、ビュゥオオオオオオオオオオオゥゥゥゥゥゥ!
やけに長かったその風に乗って、微かに、先ほどしたのと同じ臭いがしてくる。
外か!
私はねちゃついた弓を拾い、矢を出し、窓へ近づく。
……。
やはり、何もいない……。気配もしない。臭いもまた、消えてしまった……。
そして、
どうして、今の今まで、気付かなかった……。外の雪は赤染めされたまま。月も紅い光を放ったまま。何も終わってはいない。
ブゥオ、ピュォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ、ビリッ、ビリビリビリ、ブゥアァ、ドサァァ……。
っ! 今の音は……。
一際強い風でなびいた左右のカーテンのうち左側がどういう訳か千切れ、吹き飛び、椅子の近くにどさり、と落ちたのだ。
明らかに可笑しい音。何かずっしり重いものが包まれていないとしない音だ。
「くす、くすくす、くすくすくす、くす、くすくす」
幼い女の子のような少しこもった笑い声が、こだまする。あのカーテンからそれは聞こえてきたような……。
私は数歩後ずさりし、矢を放とうとすると、
バサァ!
あどけない少女、幼女といっていい位に幼そうな女の子が、顔だけを出して、乱れた長めのほんのり薄く紅い髪の間から黒い靄を放つ、揺らぐ漆黒の瞳が私を見ていた。
ビュゥゥゥゥゥ、
バサァァァァ、バサッ!
吹いた風でその髪がめくれて、彼女が無邪気に笑顔を浮かべているのと、血濡れの真っ白なエプロンドレスを着ていることが分かった。カーテンは飛ばされて壁に当たって落ちた。
真っ白なエプロンドレス。それはそれでかなり珍しいものだ。それが血で染まっているため、物珍しさは跳ね上がる。
先ほどの威圧感の発生源が、この幼女なのか、本当に……。そうだとは到底思えなかった。それに、これは誰だ……。間違い無く、白羽根でも悪魔少女でも無い。あの二人によく似ているようで何か違うような……。ただ髪の毛の色が違う、とかでは無い。雰囲気が違うのだ。
どうして血染めの彼女が私は怖いと、不気味だと思わない……? どうしてその矢をすぐさま放たない……? こんな場所で血染めである地点で、それが普通の存在の訳が無いのだ。そして、どう見ても私を認識している。何故、何故だ……。どうして私は、彼女に矢を放たない……。
私は彼女を凝視する。一瞬たりとも、目を放すのが怖い。彼女自体は怖くないというのに、どういう訳か、怖い……。
彼女はゆっくりと立ち上がる。そして、私をその、血で汚れた顔で見ている。
乱れた少し長めの、薄紅の髪が左目から口元までのライン以外の殆どを覆い隠している。緩くふわりとし、柔らかな、背中にかかる程度の長さのその髪の毛。ほんのり薄く紅い髪の毛。その毛先10センチ程度は、色が抜けたかのように真っ白。
異様に白く、透き通っているようにも感じられる、病人のような色の、しかし、きめ細やかで艶のある柔らかそうな肌。
靴も靴下もタイツも履いていない。裸足だ。その爪は薄い薄い紅色で、とてもとても柔らかそう。血行が悪いのだろう。足の他の部分は真っ白だった。立ち上がったことで圧が掛かったにも関わらずそうなのだから、これでは半分死人ようにも見える……。
普通よく見るエプロンドレスは、二色から三色の色で構成されている。もしくは、有色の一色。アイボリーでもなく、完全に真っ白で、レースすらついていないというのはまず見ない。飾り気がない。
ビュゥゥゥゥゥ!
吹き寄せる風が、彼女と私を突き抜ける。
シンプルな品では無かったらしい。彼女のエプロンドレスの布がたゆたう。連なった花弁のような形状の薄い薄い純白の布を幾重にも重ねて構成されているようだ。
だが、それは天然の花というより、造花に似ていた。血がべっとり染み付いているにも関わらず、くっ付かずにたゆたうそのドレスの裾は、空気を含んで広がるだけで上方向へは、せいぜい膝辺りまでしか捲り上がらない。
その様は不自然であることなど気にならなくなる程に芸術的だった。このような幼女が着ているのだから、きっと、それは物凄く、軽い。
そして、すっと彼女は姿を消し、周囲を見渡すが、いない……。
かと思うと、
「くす、くすくす、くすくすくす、くす、くすくす」
っ!
笑い声が聞こえる。すぐ傍からだ。首筋後ろから、もわんと、血と獣の、咽るような濃厚な臭いが……。
私は何とか、腹から喉、その上へと上がってくるものを辛うじて抑えながら、すぐさま後ろを向きながら弓矢を出して、放った。一見何もいない空間に向けて放った。
矢は部屋の扉へ向けて風を纏って飛んでいき、勢いを失って床に落ちた。
「くす、くすくす、くすくすくす、くす、くすくす」
さっきよりも近い。先ほどと同様に首筋後ろから、血と獣の臭いを混じらせ、聞こえてくる。
敢えて私はそれを無視する。これは遊びだ。幼女の遊び。但し、それは人外であり、狂っている者でもある。だが、遊びだ。乗ってはいけない。少なくとも、言葉を解する相手。僅かだが、交渉の余地はある筈だ。
「くす、くすくす、くすくすくす、くす、くすくす」
今度は、左耳元に息混じりにそれが聞こえてきた。それでも私は耐える。俯きながら、目を細め、顎に力を入れ、歯を食いしばり、飽きてくれるのを待つ。興味を持たれるのが一番面倒。どう対処するにしても。もう手遅れかも知れないが……。
「くす、くすくす、くすくすくす、くす、くすくす。ど~したの?」
気付けば彼女の顔が、瞳が、私の目の前にあった。彼女はひょっこりと、私の視界の下から現れ、黒い靄を放つ、揺らぐ漆黒の瞳が私を映していたのだから。
私は突然のことに一瞬頭が真っ白になるが、私の方に伸びてきた彼女の右手の人差し指が見えて、すぐさま我に返り、数歩後ずさりする。
甘い声だが、その声とともに私の方に向けられる息には、甘さなど微塵も入っていない。それは血と獣の臭い、甘さとは相反する臭い。少々慣れてきたとはいえ、それは受け入れ難いものであることは間違いない。
「くす、くすくす、あなた、だぁれ?」
幼女は先ほどと同じ問いを私に投げかける。彼女の私への興味は薄れている様子は無い。少女は私を、笑顔を浮かべながら、右手人差し指を口元に当てて、首を傾けながら、少しウインク気味に私をその瞳に映しているのだから。
彼女の髪がその動作に合わせて動き、先ほどまで髪に隠れていた顔がよく見える。両目を含め、顔全体が見える。完全な左右対称な顔だ。わざとらしいくらいに整っている。だから、人形のような、造り物のような印象を受けたのだ。
痣や傷や湿疹どころか、黒子や僅かな皮膚の捲れといった小さな痂疲すら無いのだ。笑っている今ですら、その皮膚は折り目状の多層状の皺を刻まずに凹凸を形作っている。
人形のような、つぶらな瞳をした、美しく艶やかで、狂気を孕む幼女。そんな彼女が、口角を上げ、強い目力で、艶やかに笑う。艶やかで、狂気的で、それらが混ざり合い、酷く美しい。
どれもこれも、3~4歳程度であろう幼女に対して抱く感想では無い……。
そして、そんな見知らぬ幼女は、あの二人、白羽根と悪魔少女に似ていた。きっと、この幼女は、あの悪魔少女たちと、縁ある者か、二人のどちらか、もしくは両方の因子から作られた何か、だ。




