精神唯存揺篭 浮遊島群 籠の頂点 懐古色の番兵 Ⅰ
私はいつの間にか、悪魔少女をお姫様抱っこの形で抱き抱えて、逆円錐状の半径10メートルほどの何もない島の中央に立っていた。
その島は、積み重ねられた灰色煉瓦でできているようである。新しくはない。角の風化や、刻まれた傷の多さからそのことが伺える。
特にそれ以外、何もない。
十字架のように見えたのは、島の周辺に漂う淀んだ雲のせいだろう。幾分あの場所から距離があったのだ。形を見間違えてもまあ、おかしくはない。
そして、視線を手元に戻すが、どうやら見間違えでは無いらしい……。
彼女は目を瞑っている。こう見ていると、唯の少女にしか見えないのだが。だが、違うのだ。見掛け以外のあらゆる要素が、彼女が人では無いと証明している。
触れている部分から伝わる彼女の体温は死人のように冷たかった。そして、シルクのように柔らかで、布一枚程度の重さしか感じられない。
灰の匂いが、もわり、と鼻腔に入ってくる。
彼女は息をしていない。拍動も感じない。だがそれでも、彼女は生きている。悪魔として。どれだけ美しくて、価値あるものだと思えても、心奪われてはならない。これは人の形をした別の存在なのだから。
つまりこれはある種の悪巫山戯か、何か企みがあってやっていることということか?
だからといって、地面にそのまま放り落とすのも憚られたので、
「起きているか?」
耳元で小さく呼びかけてみる。
すると、彼女はゆっくり目を開け、半分も開き切らないうちに、突然、私の腕の上から消える。
どこへ消えた……?
「ここよぉ」
左耳元、後ろから掛かる、冷たい吐息混じりの声に、
「うおおおお!」
私は激しく動揺した。そして、すぐさま振り向くと、そこには彼女が立っていた。
「うふふふふふ」
小悪魔染みた笑いを感情豊かに浮かべて。
私が駆け寄ろうとすると、少女は地面に膝をついた。そして、それなりに尖った真っ黒な爪のついた手で、自身の首を押さえて、苦しそうにしている。首に爪が食いこまないように、器用に。
何がしたいのだ、こいつは……。
そして、そんな思考を隠すことをふと忘れてしまった私はそのことに気付き、更に数歩、彼女から距離を取る。
だが、何も起こらない。
唯、彼女がその場で苦しそうに自身の首を抑えながら座り込んでいるだけ。だから私は仕方無く彼女の傍へと寄って、声を掛ける。
「大丈夫か」
あの食堂で見せたのとは違った意味で様子がおかしかったので私は素直にそう声を掛けた。その気持ちは嘘ではない。唯、他に優先して聞きたいことが山ほどあったが、それらを押し込めたというだけだ。
「ゲホッ、ゲホッ、背中、撫でて」
上目遣いで咳き込みながら、彼女は私にそう、弱弱しく、頼んできた。これまでの態度とは余りに違う……。そんな頼み事が彼女から出てきたことを信じられない。私は自身の耳と目を疑わずにはいられない……。
思えば、この島に来たときから色々変だろうが。だが、嘘か、これは……、本当に……。迫ってくるものがあった。彼女の顔に浮かぶ表情が嘘とは到底思えない。だが、これまでを考えるなら、これは、嘘の筈なのだ……。
私は葛藤する。だが、
「御免なさい、忘れて頂戴……」
そう言った彼女はとても寂しそうで……。儚げで……。それでも、私は何とか、前に出そうになった左手を右手で握り抑え、
「ああ」
無慈悲に彼女にそう言った。
「うっ……。駄目ね。気まぐれでも、あんなことすべきではなかったわ……。これを渡すから、後は独りで巡って頂戴。貴方の頭が保つ範囲で」
そう弱音と共に、彼女はどこかからから百枚程度の紙片の束を出した。端に穴があけられており、黒い紐のようなものが通されて束ねられている。そんな、細長い、どれも同じ、白い紙片。
一枚当たりの大きさは短冊程度。そのどれにも同じものが書いてあるようである。それが文字なのか文様なのかは、私には判断がつかなかった。黒い、縦に長い長方形の紙片に、白い文字もしくは文様が描かれている。
《["転移紙片束" を手に入れた]》
「貴方が行きたいと思った島を目で捉えなさい。そして、それを視界から外さずに、一枚、千切るのよ。げほっ、ごほっ……。そうすれば、貴方の行きたい島へ飛ぶことができるから」
悪魔少女は、蒼褪め、表情を歪めるほど、苦しんでいるのだ。手の動かし方から、苦しみの程が分かる。爪を立てて首を掻き毟って、流れ出す黒い血。
その爪は、首から下へ伸び、胸部へ。
少々長い、尖った爪は彼女の衣服を裂く。白磁のような白い肌が露出する。そして、爪が刻んだ深い傷の痕跡の数々と、新しく刻まれた傷から流れる、黒く、意志持つ生物のように暴れる血。
「了解した。だから……、早く休め」
札の効果について聞き捨てならないことを言われたのだから、何としても聞いておきたかった。だが、無理だ。こんな状況の彼女を、私は一刻も早く休ませてやりたかった。
私には彼女を励ます術は無い。だから、休んでもらうしかない。時間に解決してもらうしかない。その為には先ほどの現場にいた私がいては邪魔だ。
あんなものを見たのだ。当然だ。私があの家の子供だったならと考えると、ぞっとする。何なのだ、あの悍ましい家族の形は……。
分かっていても、きついもの。耐えられないもの。誰にでもそういったものは存在する。
だから、酷な言い方をすれば、悪魔少女の覚悟が足りなかったとも言えなくはない。そう。もし彼女が大人であったならば。
だが、悪魔少女は、元人間。それも、恐らく、少女といえる年齢で悪魔に成り果ててしまったのだろう。
悪魔は不老不死。心の成長は、悪魔になった地点で止まってしまったのだろう。そうに違いない。それでもこうして悪魔として存在し続けていたのは、ひとえに彼女が賢かったからだろうか。狡猾では無い。唯、純粋に賢い。そういったところだろう。
本能の台座の先で見た、箱庭の主である悪魔も、若い姿と精神を保っていたように見えた。心は既に壊れていたが。
少なくとも、悪魔になれば、心は固まる。変化しなくなる。ただ、壊れることはあるようであるが。そして、一度壊れたら、もう戻ることはない。悪魔の心には可塑性は無いのだろう、きっと。
つまり、悪魔少女がしたことは、ある意味、一種の自殺といえるかもしれない。結果論だが……。気付いていれば、私は止めていただろうか、この彼女を……。
苦しみに耐えるように立ち上がり、彼女は私に向かって
「それが……無くなる、もしく……は、貴方が……紙片、げほっ、げほっ。の束……を断崖から……捨て……たとき、貴方……は、げほげげほごはぁぁ……」
血を吐いて地面に崩れ堕ちた彼女に私は急いで駆け寄ろうとするが、彼女はそれを片手をパーにして開いて私に翳し、制止する。
その目には、これまでにない強い決意が宿っているように見えた。あの悪魔のような状態の目よりもずっとずっと、力強く、私はそれに従うつもりなど無いというのに、従わされてしまった。足が、前に動き出せない……。
再び何とか立ち上がった彼女は、
「はぁ、はぁ、この場所に再度……転移、す……る……」
息絶え絶えながらも、何とか最後まで言い切って、
ズッ、ズサァァ……。
力無く前へ倒れ込んだ。だが、彼女は消えない。何処かへ転移して消えてしまわない。
彼女が意識を失って倒れて数十秒後。漸く、駆け寄ろうとしたところで、
ゴォォォォォォォォォォ――――!
不味い……!
地面が轟音と共に揺れ始めた。私は急いで島の中央の彼女を落ちないように抑えなくては、と駆け出したが、突如、少女の下から巨大な石像が生えてきた。そして、止む轟音と揺れ。
揺れの発生源は、こいつ、か……。
顔がない、石の巨人は両手で彼女を抱えている。その大きさは、全長10メートル程度だろうか。その色はセピア色だった。地面の色の灰色でも無く、黒色でも白色でもなく、セピア色。
巨人は彼女を右手に移し、左手を振り上げる。私は急いで弓矢を出し、構えるが、
ピラッ、ピラリ、ピラリ、ピラリ、さっ。
弓矢を仕舞った私は、巨人が左手から私に向けて落とした紙片を、さっと掴み取った。
【この巨人が、ここを再度訪れた貴方に尋ねるわぁ。『汝、堕ちし乙女の心の形を示せ』と。貴方の示したそれが正しければ、貴方はこの閉じられた籠の世界の頂上で、私の本体と対面することになるわ。じゃあね、また貴方と会える機会、愉しみにしてるから。途中で消えてしまうなんてこと、無いようにね。次飛ぶべき島は、巨人が差し示すわ。】
私がそれを読み終えるのを確認したところで、巨人は再び動き出し、遠くに見える一つの島を指差した。それは、同じ高さ太さの白色の塔と黒色の塔だけが生えた、あの夕焼けの荒野の島。
彼女の残した指示に従い、次の目的地である島を視界の中央に収めたまま、紙片の一枚を破り捨てる。すると、
ゴォォォォォォ――――!
私の全身を包むような、私を中心とした灰色の竜巻が発生した。
竜巻の外の様子は一切見えない。体が浮いているような感覚はない。唯、竜巻の中心にいるだけ。
すると、気付かないうちに、足元が一つの灰色の渦で覆われていた。それでも、地面に足が付いている感覚はしっかりとある。沈み込んでいく感覚も、浮かび上がる感覚も無い。
そして、それが止むと、私は、夕焼けも、白い塔も黒い塔も見当たらない場所に立っていた……。




