精神唯存揺篭 浮遊島群 未だ尾を引く後悔の島 (秋) Ⅱ
彼女にとって、先ほどの光景は余程、見たくなかった過去だったのだろう。そして、彼女の行方は知れない。あても無い。彼女が戻ってくるとも思えない。そんな消え方だった。
だから私は一人でこの島の調査をすることに決めた。
彼女が持つ、時間を進める時計は今手元には無いが、発条が止まるまでは状況は動き続ける筈。
この島で達成しなければいけない課題は分からず、彼女の案内も得られない。そうであったとしても、ただじっとしている訳にもいかないのだから。
私一人でも何かできることがある筈だ。そう信じて、屋敷の方へと私は歩いていった。
……。見掛け上は、噴水からこの場所、屋敷の前までは1キロ程度だろうと目測していたが、私はそこまで体感で数百メートル程度しか歩いていない……。
外観からして、その屋敷は赤煉瓦でできた洋館であるらしい。頂上には、緩やかな傾斜がついた、一部尖がった冠や帽子のような構造を持つ青銅色の屋根がついている。
私はいきなり中へ向かうことはせず、ぐるりと屋敷の周りを一周して、その構造を大まかに把握する。
そして、屋敷の裏側は、崖、つまり、島の淵になっているということを確認した。そして、屋敷の外周は、一辺500メートル程度。
この島の実際の大きさは、目に映っているのとは違う。そう考えて間違い無いだろう。だから、この目の前の屋敷も、実質の大きさは分からない。
とはいえ、見て回ることの全てが無駄になるとも思えない。狂っているのは視覚に映るものの尺度だけであると考えれば。尺度が違うだけで、見えているものは確かに存在している。現にこのように、屋敷の壁に触れられる。ざらっとした感触もある。間違いなく、存在しているのだ。
この屋敷は一見、立方体状に見える。だが、あの噴水くらい離れたところから見ると見えた二本の塔からして、屋敷は正方形の囲いのような形をしていると考えていいだろう。
この場所からは中の塔は見えないことからしても、塔の高さは、屋敷の屋上より少々高い程度でしかないだろう。噴水辺りから仰いだそれらは、片方は真っ白で、片方は真っ黒で、どちらとも、繋ぎ目が一切ない。頂上付近でそれらは灰色の通路で繋がっているようだ。
地下部分が無ければ、この屋敷は全5層といったところか? そして、一層毎の高さは、階層ごとの区切りも入れて、5メートル程度、だろう。
壁についた全体を一周ぐるりと途切れることなく横へ続く帯のようにも見える白煉瓦の位置から、私はそう判断した。
エメラルドグリーンの一辺20センチ程度の小さい正方形の嵌め込み窓がたくさん並んでいるが、中は見えない。それ経由では中の様子が伺えそうにない。
そして一通りの観察を終えた私は、入口の前に立った。
扉は鼈甲色。二枚扉であり、一枚当たり、高さ2メートル程度で、幅1メートル程度。
高さ5メートル程度の四本の円柱で支えられた、一辺5メートル程度の正方形の屋根がある。屋根と床は同じ大きさ。そして、屋根も床も柱も石灰石のような質感の白い石材でできているらしい。
その部分は、歩くと周囲とは明らかに足音が違う。妙に響くといえばいいのか。
そして、屋根も柱も、それぞれ一つの石材でできており、継ぎ目の類は無いのに、床だけは、中央部に、正面の二枚扉の境目から真っ直ぐ線を下ろしたように切れ目が入っていた。
間違いなくこれは、罠の類。扉に対して間違った処理でもすれば、発動する類の、きっと、下へと続く、落とし穴だろう。
こうして踏んでいる分には何も無いのは幸いではあるが……、これでは扉にうかつに触れられない……。
扉は、鼈甲色の革で包まれた、二枚扉。その前面に、幾何学模様? いや、これは、草花か? 種類は分からないがそんな模様が端々まで彫られている。
そして、取っ手も鍵穴も、一見存在していない……。扉全体を触れずに隈なく調べてみたが、仕掛けの類は見つからなかった。
地面には扉の引き摺られた痕は無い。押し戸なのだろうか?
となれば、庭園部に何か仕掛けがあるか、私の思考の埒外のセキュリティーが施されているか、そもそもこれは扉でないか、時間が進まないと侵入不可能か等々、要するに、どうすればいいか見当がつかない。
この扉のような何かにうかつに触れる訳にもいかない。この白い地面の外から触れるなんてことはできない。
すると、
ドタドタドタドタ――――!
荒々しい足音を立てながら、先ほど見た幼女が現れ、扉の前で立ち止まる。そして、扉を押してあっけないほどにすんなり扉を押して、
ギィィ!
その体が入るギリギリくらいまで開け、体を横にしてさっと入り、
ドタドタドタドタ――――。
扉が閉まり、足音が途切れ、消えたようだ。
私は幼女が掛けてきたとき、急いで横に避けて、この白色の地面の外に立っていた。だから、扉に手や足を挟んで、開けた状態を維持することはできなかったのだ。
迷った末、仕掛けの類は無い。見掛け倒し。そう判断し、扉を押し始める。
ギィィ――――!
それでも不安だったので、扉を一気に開くことはせず、徐々に私は押していっていた。だが、
「止めなさい! そのまま押し切ると、貴方、死ぬわよ。それ以上扉を開かず、離れなさい!」
それは、聞き覚えのある声だった。
心の芯に氷を押し付けられるような感覚。私はさっと扉から手を放しながら振り向き、弓矢を手に持ち、跳ねるように素早く白い床から外に出て、大きく跳ね、振り返りながら、弓を引いて周囲をさっと見る。
「ここよ、ここ」
スゥ、ザッ!
彼女は扉前の白い石の板の屋根の上から、スカートを片手で抑えながら飛び降りてきて、姿を現した。
「あらぁ? 私は貴方を救ってあげたのに、ねぇ、それは酷いんじゃないの?」
あの幻想の中で見たときと同じ服装をしている。
「礼を言うかどうかは、お前の話を聞いてからにしよう。わざわざ姿を現したのは、そういうことだろう?」
そして、弦を引くのを止め、矢を仕舞い、弓を仕舞いながら
「警告だけなら、姿を現さなくとも問題ないし、そちらの方がお前にとって後腐れも無い筈だ。お前がそれ位思いつかない筈もあるまい」
私はそう言った。
「ふ~ん、あっそ。その扉、一族の者が押して開けないと、即死級の罠が作動するようになっているの。床が抜けて真っ逆さま。つまり、貴方の予想通り」
彼女はそっけない口調でそう言い、床を指差す。
「その下、無色無臭で、糸張るような粘着質で、しかも、経皮吸収されて麻痺させ、激痛を与える、たちが悪くて得体の知れない溶解液よ……。発動する条件は、ある一定角度以上に扉を開くこと」
それを聞いて、ぞくりとする。嘘を言っているようには見えない。何か思い出しながら話しているようで、彼女はとても気分が悪そうにしていた。
彼女自身、その仕掛けを悪趣味なものだと本気で思っているようだ。つまり、この罠は彼女が仕掛けたものではなく、元からあったもの、ということになる。
闇が深い家であるようだ……。
「識別がいい加減だから、一族の誰かが開けてほんの数秒であれば誰でも通れるんだけれど、貴方は少しもたもたし過ぎたのよ。慎重であることは、時に愚かであるのだから、ふふ」
彼女はそう言って、口に手を添えて見下すように嗤ってみせる。先ほどまであのような顔をしていた者には到底見えない。やはり、異常な精神構造をしているようだ。
「貴方が通常の理の外の存在であり、肉体的には不滅であるとしても、死んでしまえば、それなりに面倒はあるんじゃないのかしら?」
どうしてそこまでばれている……。
私は即座に悪魔少女から距離を取ろうとするが、
ガシッ、ミリミリ。
悪魔少女は私の手を子供の力とは到底思えないくらいの、骨が軋む程の力でがっしりと掴んで、私を逆に、傍へ引き寄せた。
私の顔の真正面に彼女の顔があった。肌の様子が分かるほど、近い。数センチ、1~2センチ程度しか、私と少女の間は空いていない。
「だから、私が貴方を中へ入れてあげるわぁ」
にたぁぁと、彼女は艶やかに口を吊り上がらせた。糸引く唾、蠢く舌。底知れず恐ろしいが、それでいて、うっとりするくらいに美しくて……。
そんな彼女の口からは、体からは、以前とは違い、甘い香りはせず、灰の匂いがした。




