精神唯存揺篭 浮遊島群 未だ尾を引く後悔の島 (秋) Ⅰ
構わずそっとしておいた方がいいだろう。
そう思った私は、彼女に目が届く範囲で周囲の探索をすることにした。
この島は、黄金色の稲穂に覆われた庭園と、二本の塔を囲うように存在する洋式の邸宅から成っているようだ。
空に太陽は相変わらず見当たらないが、どこかから光を浴びたかのように、全長2メートル程度の稲穂の草壁は黄金色に光り輝いている。
空は明るく、青い。雲一つない。この島の上空に限っては。島の境界辺りの空の向こうには、やはり、灰色の雲が散りばめられている。
吹く風は少々冷たく、葉ずれの音が聞こえてくるかのよう。秋の風だ。
確かに葉ずれの音は聞こえるのだが、私の視界に映る範囲には、そのような音の発生源になりそうな木々は見当たらない。
黄金色の草壁は基本的に、庭園中央部から放射状に、屋敷に平行に、正方形の四辺のように、幾重に囲うように聳えているようだ。
各辺の中点付近と、他にもところどころ草壁は途切れており、四辺の全体の6割くらいにしか草壁は存在していない。それに稲穂が揺れると、向こう側が見える。そんな緩い草壁の厚みは50センチ程度。草壁同士の間隔は数メートルから数十メートルと、まばらではあるが、広い。
だから、そう圧迫感は無く、周囲の様子はざっと見渡せば大体分かるようになっている。
庭園の他の部分は、背の低い芝生程度の黄金色の草々と、黄土色の煉瓦が敷き詰められてできた舗装された道から成っている。
だが、緑の生垣、色とりどりの花々、生い茂る果樹、灰色の煉瓦で舗装された道といった、普通であればあるであろうものが無かった。
庭園中央部は、噴水を中心とした、一辺30メートル程度の広場になっている。
幅2メートル程度の黒っぽい木製のベンチが屋敷正面遠い側の辺中央の切れ目の横に2つある。気づけば彼女はそこに移動し、座っていた。その表情は複雑そうではあるが、先ほどのような、負の感情一辺倒では無い。もう大丈夫そうだ。
とはいえ、精神的な負荷の蓄積はかなりのものになっているだろう。何とかしてそれを発散させてやりたいとは思うが、彼女はこのような辛い思いをしてまで、過去と、彼女の姉と、向かい合おうとしているので、余計なことになるかも知れないことはしない方がいいかも知れない。
取り敢えず、もう暫くそっとしておくことにした。この場所について聞きたいことも幾つか出てきたが、もう少し後にしよう。
邸宅へと伸びる道と島の中央部は、真っ直ぐな一本道が結んでいる。黄土色の煉瓦で舗装されており、道幅は1メートル程度。
その左右を、黄金色の稲穂の草壁が覆っている。ところどころ途切れているようだが、それは、草壁と草壁の間と道の交点の部分のみ。しかもその全ての部分で途切れている訳ではないようだ。だから他の部分と比べ、その道を歩いている間は視界がかなり悪くなりそうだ。
この庭園中央からでも、屋根のついた邸宅の入り口はよく見える。
中央の噴水は、音を立てない程度に清涼な水が吹き出している。周囲は地面含め黄金色なのに、水の色は透明。半径2メートル程度の、そう大きくない噴水。水深も浅く、10センチ程度しか無い。
「大丈夫か?」
私はもうそろそろ良いかと思い、彼女の横に座って声を掛けた。彼女が成長したことはよくよく考えてみると、そう重要でないことに思えてきたので聞かなかった。
「はい……」
そう言って微笑を浮かべる彼女であったが、それが作り笑顔であることは声の調子から明らか。だが、そう努めている彼女に水を差したくはない。だから私はそれ以上彼女の今の精神状態については何も言わないことにした。
「これを渡します」
彼女はそう言って、赤いインクで私の知らない文字で書かれた、一辺3センチ程度のひしゃげた正方形の薄っぺらい白地の紙片を私に手渡した。私がそれを受け取ると、
ピリィィ、ザァァァァ。
「こういう風に破ってください。そうすることで発動する御守りみたいなものです。どの向きでも問題ありません」
彼女は自分用にもその紙片を用意していたらしく、私の前で、それを、紙片の一辺の中央辺りから真っ二つに破った。
私もそれに見倣い、
ピリィィ、ザァァァァ。
破った。一瞬、自身の体が透明になったような? そんな錯覚を受けた。
「成功です。破った後、白い塵になりましたので。これで、貴方も私も、あの屋敷に入っても姉から干渉を受けることは無いでしょう。そして、この島の人々に感知されなくなります」
気付かないうちに私の手に握られていた紙片。私はそれを開いて破り去った。
「ここが、私と姉がかつて住んでいた、家です。まだ、父と母と私と姉の4人で暮らしていた頃の。その一時を切り取った場所であるようです」
彼女は遠い目をして、屋敷を眺めていた。
「では、時間を進めましょう。姉から、このようなものを転送されてきました。この島では、これの目盛りを進めることで、この場所といる人々の時間が進み、巻き戻すことで、時間が逆向するそうです。私たち以外を対象として」
彼女がそう言って見せてきたのは、飴色の懐中時計だった。文字盤は無い。一本の針のみが存在している。針にだけ、真っ黒い色がついており、その針は、長さ3センチ程度、太さ1センチ程度の、黒い小さな羽根だった。
「いや、君が回すべきだ、それは。どちらにどれだけ回すかも君に任せる」
私がそう言うと、彼女は小さく頷いて、彼女は針を動かすつまみではなく、上部の発条を回した。
時が、ゆっくりと前へ動き出す。
すうっと、半透明な何かが現れ、それが実体化する。
幼女が、庭を走り回っている。
全身フリル付きの白い服。エプロンドレスの類だろうか。私は隣に座って、その幼女を悲しそうな目で見ている彼女と見比べる。
ああ、これは、過去の彼女だ。
先ほどまでの幼い姿のときの彼女より、更に幼い。身長は1メートル程度しか無い。
ガッ、ズザァァァ……。
幼女は、偶々《たまたま》生じていた煉瓦の段差に蹴躓いて派手に転んだ。
「痛っ~た~いっ……、お姉ちゃん……」
泣きべそをかいていたが、その場で爆発するように派手に泣くことはなく、すぐさま立ち上がった、膝を擦り剥いた幼女はそのまま走り去っていった。
彼女は、私の横で絶望に打ちひしがれたような顔でこう言った。
「どうして……。違う。ここは、違う。私はここに来たかったんじゃないの……」
彼女は震えていた。その声すら震えていた。指の隙間から見える彼女の目は、動揺を色濃く示していた。
そして、
「どうして……、おねえちゃんが、いなくなってるの……」
そう私に話しかけてきた彼女は明らかに様子がおかしい。明らかに舌足らずな口調になって、言葉遣いも変わって……。そして、私を私と認識していないようで……。
「なんで、なんで、ねえ、なんで……」
そう言って、私にしがみ付き、泣きながら、絶望を浮かべ、迫ってくる。どうしろというのだ、これは……。
そうして何もできないでいると、彼女は私から離れ、元のように座り直し、俯いた。
正気に戻ったか?
暫くそっとしておこう。どう言葉を掛ければいいか全く分からないのだから。だが、
「ねえ、どこに、行ったの、お姉ちゃん、お姉ちゃん……。あの家に独りなんて、嫌ぁああああああああああっ……」
と、叫んで、椅子の上に両足を上げて、お山座りをし、両手で膝の辺りを抱えながら、彼女は蹲る。
駄目だ。幼児退行を起こしている。
私は頭を抱えずにはいられなかった。こんな調子ではとても、彼女を伴って、この島を巡れはしない。
そして、
「おねえちゃん、おねえちゃん、ぁああああああああああああ――――」
スッ、ガタン!
バタバタバタバタバタ――――。
一目散にどこかに消えた。すっと、消えた。隠れた訳ではない。私の視界の範囲に入ったまま、薄れていくように消失したのだ。
私はただ、呆然としていることしかできなかった……。




