??? 神前 Ⅰ
気付けば、闇の中にいた。
何も見えない、何も感知できない。自身の体が存在していること以外。そんな光無き暗闇の中に私は、いる。
だが、二度目ともなれば、それなりに落ち着いて対応はできる。
まずは手を動かしてみたが、この周囲には壁は無いらしい。続いて、足を使っての周囲の地形把握に取り掛かる。
そんな地道な作業に勤しみながら、私はこうなる前のことを思い出そうとしていた。
先ほどまで、あの橋を渡った先の半月状の場所で、あの本、"savior hastily constructed"に捺印しようと思っていたところだったか……。
押したか、まだ押せていなかったか、思い出せない。
頭が痛む。
そういえば、あの本はどこだ?
私はしゃがみ、掌を地面の上で滑らせ、本を探す。近くに落ちているだろうと思い。
指の爪の先に何かが触れた、と感じたところで、
……。
突如、私の体が停止する。指の先一つも動かせない。息を吸い込むことすら。だが、苦しくはない。金縛りだろうか。意識、精神は依然として自由だった。
まるで、時間が止まり、しかし意識だけは止まらずにその状態を目の当たりにさせられている|かのよう。
暗闇の中、目の前に少し黒くくすんだ灰白色の文字が突如浮かび上がっていたのだから。視界の下部に横書きで。
背景は黒ではあるが、読みにくさは一切無い、程良い文字色。
【 "契約" 】
その文字を見ながら思考を巡らせる。
この文字は誰が出しているのだろうか。そもそもなぜ急に文字が出てきたのだろうか。私の目の前に文字が投影されているのだろうか。網膜に直接焼き付けられているのか。目は作用しておらず、精神に作用してこの文字をあると認識させて映しているのだろうか。
だが、何より。その意図は何なのだろうか。
【我、神なり。汝と契約を結ぶ存在。】
読み終わると、それまでの文が消えて、次の新しい一文が表示される形式であるらしい。
読み終わったその文が消えて、
バサッ。
その物音と共に、闇の中に、ジャケットの袖が、自身の手が、その先に落ちているあの本、"savior hastily constructed"が視界に映る。
しゃがみ込んだ状態での金縛りが解けた私は、それに手を伸ばし、開く。最初の頁の文字は残ったまま。そして、そこに私の血の捺印は無かった。
捺印の左横に文字が浮かぶ。
【汝に、真実の断片、示す。】
パラッ。
頁を捲る。
【以前の汝、自己を捧ぐ。】
その一文を読み終えた瞬間、この場所に来る前に感じた頭痛が……。
唯の、ぶり返し……じゃな―……っぅうぁああああああ……、割れる、頭がぁああああ!
一瞬でそれは、私の耐久限界を越え――
冥い。
瞳を闇が占有する。一寸先どころか、1センチ先すら見えはしない。物音を出すのは自身の体のみ。熱さも寒さも感じず、空気の流れも無い。そして、背中にある筈の痛みも無い。
手を伸ばし、自身の背中に触れてみる。予想した手触りと大きく違った。掌には生温い液体は付着せず、服は裂けていない。冷たい汗が額を伝う。失敗したのかと、強い不安に襲われる。
恐らく引き攣っているであろう顔。
汗握る手。
何に失敗したのかすら分からない。そのことに気付いて、震える。頭の中が、溶け出すかのように消え出し始める……。
俺は……何を……。
そのまま意識が遠くなって――
ほんの一瞬、だが、間違いなく、意識が飛んでいた……。で、見たものは恐らく、記憶。私が無意識的に見たとしても、恣意的に見せられたのだとしても、関係無く、私の過去の記憶。だが、余りに整い過ぎていた……。私があの闇の中で自身を自覚したときと対比そのものではないか……。
これは、記憶なのか、本当に……。だが、あれは、追体験でもあった……。あの感じは、あの感覚は、今の私のそれに、一致している……。
それに、見た、体験したあれが、真実である、と、私は直感を微塵も否定できていない……。理性で考えると明らかに疑わしいというのに、感覚が揺るがぬ証明のように私の心に聳え立っているのだから。
【以前の汝、自己を捧ぐ。】
【故に、今の汝と相成った。】
【汝、果たすべき。】
【魔の討滅。】
【その暁に、我は約束を果たそう。】
【汝に褒美を授ける。】
【汝の失いし記憶とともに。】
【心折れぬ限り汝は不滅。】
【汝が魔に挑み続け、それを果たすまで我が赦しを得る。】
【三つの赦し。】
【以前の汝が体の記憶を対価にして得た特権。】
【Ⅰ.我、汝による無生物の無数の収集とそれらの帯同を赦す。】
【Ⅱ.我、救世主として汝と我との疎通を赦す。】
【Ⅲ.我、歩みを止めし汝の消滅を赦す。】
【全て、汝の正当な権利。】
【契約を結べば、示した全てを汝に授ける。】
【神の名に於いて。】
そこで文字の出現は止まる。私が契約を結ぶという前提で一方的に話は進んでいる。
結局のところ、捺印するかどうかだが、このような場所に誘われた上で断るというのは危険であろう。
それに、記憶を無くす前の私とこの神を名乗る者は、何か取引をしたらしい。そして、それは契約することで、現在の私にそれが与えられるらしい。
先ほどよりも条件は良くなった、とも言える。
特権Ⅰと特権Ⅱは、それなりに役に立ちそうである。
特権Ⅰは恐らく、物理法則を無視した、生物でない物質の無制限の収集と運搬だろう。非常に有益な特権といえる。
特権Ⅱはこの本を通じての、神を名乗る者との意思疎通。但し、一方的な。何か書くものがあれば、本を通じてこちらから接触を測ることができるだろうが。現状では、自身の血を使うしかなく、緊急時以外は、一方的に、不定期で情報を貰う位しかできない。それなりには役に立つだろう。
特権Ⅲは、……。いわば、自殺の権利、か? 消滅とあるのだから、死体すら残らず消え失せるということだろうか? それか、死後、霊になった場合の成仏のための特権か? この世界では、死ぬと確実に霊になるということだろうか?
実質、一択。先ほどよりは利益が見える形で提示された。不安は残るが、この辺りで捺印しておくべきだろう。 理に従って。
最初の頁に戻る。
パラッ。
私は下唇を噛んで、血を出し、右手の親指でそこに触れる。そして、血のインクを付けたそれを、
スゥゥ、ドン!
押した。
【我が世界。人は魔を生み出した。】
【魔は人によってのみ生まれ、人によってのみ死す。】
【因って我、異世界より転生者を求めた。】
【我、あらゆる転生者に魔に対峙の為の外付けの力を与う。】
【転生者の望む能力、若しくは、強大な武具を与う。】
【だが、その全ては絶望し、消滅した。】
【数多の世界、時間軸から集めし資質ある者たちではあったが。】
【外付けの力は、容易に奪うことができる、掻き消すことができる。】
【それで魔に勝てる筈無し。】
【人は力を得るとそれに溺る。】
【力では魔に決して届かぬ。】
【魔は残り、人は滅んだ。】
【魔は人の悪意から生まれる。】
【魔は人を、理不尽で、折る。】
【心を、折る。】
次々と浮かんでくる文字で三番目の頁が埋まった。
読み進めながら思う。
まるで、空想や幻想の類の話。
だが、今私はこんな状況にいる。それに契約の印を押した私はただ、それを受け入れるしかない。
この世界の状況説明らしいそれから、事態を正確に把握しなくてはならない。
読み終わると、また勝手に頁が捲れた。
【我が世界では、人はもはや存在せぬ。】
【人の神である我、転移者に頼る以外無し。】
【基礎能力の大幅な上昇は転移では叶わぬ。】
【肉体も精神もその負荷に耐えられぬ。】
【転生者の劣化品でしか無い、転移者に頼る他、無し。】
【亜人への転生は精神的構造の類似より、可能である。】
【嘗て求むる者有り、我、その願い、叶うる。】
【だが、肉体的構造の違いより、やがてその精神、歪曲し、自壊す。】
【記憶、それに伴う人格の保持、鍛えられし精神強度、あらゆる転生の利点が消ゆ。】
【故に、必要な力与えられぬ転移者に頼る他、無し。】
【我、この世界の神なり。】
【我、人の神なり。】
【我、人を眺む。】
【永劫に、眺む。】
【それしかできぬ。】
【神は直接手を下せぬ。】
【神の鉄槌は人の空想に過ぎぬ。】
【我、我が世界の最後の転移者たる汝に託す。】
【我が世界の命運、託す。】
【唯一、転生を拒み、唯一、我に意を提示せし汝に託す。】
【汝、神の代行者、救世主たれ。】
そうして、左頁、つまり五番目の頁が埋まる。終わりかと思い、本を閉じようとすると、次の四行が右頁、最後に浮かんだ。
【故に。】
【汝、知覚せよ、汝の前に立つ苦難の群れを。】
【汝、覚悟せよ、独りの旅路を。】
【汝、耐えよ、全てが終わるまで。】
それを確認し終えたところで、闇は霧散するように消えて、元の場所、あの半月上の地面の腕に、私は座り込んだ姿勢のまま、返された。
神というのも、どうやら楽ではないらしい。自身に強大な力があろうとも、それを直接振るうことはできず、唯、見ているだけしかできないとは。
契約のせいか、私の感情が本当にそう傾いたのかは分からないが、神を名乗るその者に、私は少々、同情した。
それに、記憶を無くす前の私、つまり、以前の私は、意思を持って、神に何か持ち掛けたことが分かった。恐らくそれは、自身を構成する記憶全てを代価に、自身にあれらの三つの特権を付与すること。
代価を払った、覚悟を示した、危険を冒した上で、以前の私は手を伸ばし、こんなイレギュラーな方法で、力を得たのだろう。
恐らく、以前の私と、今の私は、実質、別人と言っても差し支えが無いほど異なっている。
私はある意味、以前の私に託された、とも見れる。つまり、私は、以前の私が果たすべきことを果たす義務があるということだ。
以前の私に代わり、神の代行者を成し遂げようではないか。
私がそう、心の中で熱い決意の炎を灯したところで、手にある本の表題がまた変化していた。
【 "revelation" 】
はたまた金色の文字でそう書いてあった。訳すと、"啓示"。何の捻りも無い。
開いて頁を捲る。
私の血の捺印と、その後の頁の文章が、あの空間での出来事全てが現実であるということを証明していた。
《[ "revelation" を手に入れた]》
本を閉じ、顔を上げる。
バサッ。
私は驚きで手にしていた本を落とす。
目の前の光景に、胃の奥から、喉の奥から、不快が込み上げてくる。
こんな、嫌悪感を感じずにいられない不気味で悪趣味なもの、気付かない筈は無い……。