精神唯存揺篭 隔止庭園 Ⅰ
ここは?
曇天の空の下、私は苔に覆われた地面の上に立っていた。苔やシダによる緑で地面は隈なく覆われているようだ。
風は吹いていないが、空気は冷たい。空は青くて、何処までも澄んでいる。太陽は無いが、周囲は眩しくないくらいにムラ無く明るい。そして少し、じめっとした土の匂いがする。
ここはそんな寒冷な場所であるらしい。そして、静まり返っている。
遥か向こうには、壁のような構造物が存在しているように見える。ここからはしっかりは見えないが、数キロに渡って聳<そび>え立っている。まるで、城塞都市の城壁のようだ。
それのせいで、壁の外側に何があるかは分からない。
私の立っている場所から壁のような構造物に向かって、なだらかな上り斜面になっているように見える。
ここからの距離はおそらく、数キロというところだろうか? 取り敢えず、私はそこまで歩いていってみようと一歩、二歩と進んだところで足を止めた。
何か……忘れている? まるで、大切なものを置き忘れてきたような、そんな感覚がして、後ろを振り返る。
私の振り向いた先数十メートルにあったのは、灰黒色の煉瓦でできた、苔生す、高く聳える巨大な円塔2つ。だが、それらに影は無い。だから私はそれについ今まで気付かなかったのだろう。
それを見て微かに思い出す。私は先ほどまであの中にいたような……、だが、少し違う気もする……。
1本の渡り廊下で連なっているらしい、半径30メートル程度の大きさの2つの塔。その頂はここからは見えない。その周りをぐるりと歩いてみたが、入口どころか、窓の一つすら無い。
来たことがあるような気もするが、何か違うような気もする。
そして漸く、私は外壁へと向かい始めた。
地面は苔のクッションで程よく柔らかく、歩きやすい。外側へ進むにつれて、外壁がどんどん大きくなっていく。一体どれだけ高いのだろうか、あれらは……。
まだ外壁の表面の形状や色すらはっきり見えていないというのに、こうして歩いていて私の視界には、空は映らなくなっていて、代わりに、先に広がる苔の丘と、その上にある壁面が占有していた。
進むにつれ、どんどんと、寒くなっていく。
ブゥォオオオオオオオゥウウウウ!
これは……。
風の音。外壁の外から吹きつけているのだろうか? 音と冷気が壁越しに空気越しに伝わってくるだけで、こちらまでは風は吹きつけていない。
とても、寒い。
それは気のせいでないらしく、足元から、
シャリ、ジャリ、ピキッ――――。
凍結した苔の地面が私の足に踏まれ、細かく砕ける音がした。
それでも私は進み続ける。
バリッ、バリッ、バリッ、バリッ――――。
気付かないうちに、息まで白くなっていた。苔に混ざってところどころに生えているシダには、結構な量の霜が付着していた。
私はそれから更に進み続け、そしてとうとう、外壁へと辿り着いた。
黄茶色の、組み積み上げられた煉瓦石の壁。傷や、角ばった部分の劣化が目立つ。手で触れてみると、それは酷く冷たかった。びくりと手を放すと、指先には土が付着していた。
土煉瓦か? だとすると、この壁は、おそらく脆い。
ガッ!
試しに蹴りを入れてみたが、私の体はあっさりと弾き返された。靴底を見てみると、土がみっしりと付着していた。
湿っている。
先ほど表面に触れただけでは分からなかったが、この土壁はその内側に水分を豊富に含んでいるらしい。
ということは――――やはり、あったか。
すぐ近くに、水が漏れ出している壁面を見つけた。高さは丁度、私の肩辺りであり、泥状化しているようにも見える。僅か数十立方センチメートルの範囲だけだが。
私はその地点に向かって肩から勢いよく体当たりした。
ブチャァァッ、ドサァ!
「ゲホッ、ゴホッ」
ブチャッ!
口に入ってきた泥を咽せびながら吐き出す。私は外壁を突き抜けて、そのまま向こう側まで出てしまったらしい。
こんなことになるとは流石に予想外だった。まさか、弾かれるでもなく、突き割るでも着き破るではなく、突き抜けてしまうとは……。だか、これで、外壁の外の様子を見られる。
黄土色の泥に塗れた私は、ハンカチを取り出して目に入った泥を取り払い、目を見開くと――――すぐさま開いた目を閉じ、目を擦り、再び開ける。そして、それが見間違えではないことに呆然とすることとなった。
壁外には雪が降っていたのだ。一面真っ白であり、その雪は、今外にいる私にも降り注ぐ。
私の体にべっとりついた泥の上に落ちる。その泥自体が冷えているからだろう。雪は全く溶けない。
空の色が、違う……。どんよりとした、薄い、白よりの灰色。どうやら、外壁内外で、空の色は綺麗に真っ直ぐな線で境界を引かれたかのように分かれているらしい。
そして、地面はどこまでいっても、純白。内側とは違って、苔の一つも見えないし、足元でそれらを踏んでいる感覚も一切無い。
壁面から斜めにどんどん離れていきながら、数キロ進んだところで振り返ってもう一度、空を見上げる。
丁度、壁の終わりから向こう側、外の領域。そこから線を引いたように向こう側だけに、静かに雪が降っていた。
再び外壁外側外壁沿いまで戻ってきた私は気付く。外壁内側壁沿いよりも、どういう訳か、この外側の方が暖かい……。
風が吹いていないからだろうか? だが、内側でも風は吹いておらず、音だけだった。
周囲を見渡しても、雪がぶれず、流れず真っ直ぐ降っていることから、今は風が吹いていないことも分かる。
もしかしたら先ほどまでは風が吹いていたかも知れないとも思ったが、それなら、外側から見た外壁に雪が付着していなくては可笑しい。そして、雪は壁面には付着していない。
では、外壁内部壁沿いで常にし続けていたあの音は、何だ……?
私は壁から数十メートル離れて、壁沿いに歩いた。数時間かけて、ゆっくりと一周する。
そして、分かったこと。壁の周囲に出入り口となる門は無い。どの方角からも、風が吹いた痕跡は無い。
これは、何かある、な……。それも、不味い類の。
私は自身の手にびっちりとついている泥と、足元の地面の土を雪ごと握り合わせ、団子にしてみることにした。
ん……?
する筈の無い、おかしな手応えがした。
だが、それについて考えるのは置いておくことにして、壁に空いた、黄土色の泥水がぼたぼた垂れる等身大の穴へとそれを投げ入れると――――消えた?
私は急いで駆け寄って確認する。残骸すら残さずに、その泥団子は消えていた。
……。これは内側へは戻れないのでは……。
城壁の内側はまるで、切り取られた、外界と隔絶した世界だ。共有するのは空気の温度だけ。そして、動的なこの外とは違い、中は静的。
まるで、時間が止まった場所であるかのように、隔絶されている。
それにこの雪……。これは、雪では無い。粒が角ばっており、雪よりも軽い。そして、泥が取れた私のこの右手の上に乗っているというのに、全く溶けない。ぱさついた手応えはまるで……。
ならこれは……、まさか……!
何だ?
周囲が急速に暗くなっていく。そうして、訪れた、夜。だが幸い、真っ暗にはなっていない。
視程は数メートル程度しか無いが、周囲が全く見えない程ではない。外壁が薄明りを発しているおかげで。
そして、
「【見ぃつけたぁぁぁぁ!】」
「【な、何で……、貴方は、外へ出てしまっているんですか……】」
ほぼ同時に聞こえてきた、酷く澱んだ声と、狼狽える少女のような声。それと、視界に表示された黒文字と白文字。
そして、私の視界は、黒と白のマーブル模様のようなグラデーションで覆われた。それと同時に、感じていた寒さも消え去った。




