精神唯存揺篭 隔離庭園 無数架橋連結塔群 溶け合う前後と混じる現幻 Ⅱ
その巨大な直方体の部屋で、味方に当ててしまった矢の巻き起こす風が収まったところである?
可笑しい……。だが、何が……?
そんなことは、後だ。
悪魔が動き出す。
纏っていた黒い影の塊の大半を解いて現れたのは、一人の少女だった。顔と手先は隠したままではあるが。
悪魔らしき意匠は一切見当たらない……。見えている範囲では、だが。
その少女は妙なくらいに、今は白い羽の姿になって私の背後に控えている……、ん? いや、気のせ……、うっ、ん? いや私は今何を?
ああ、そうか。ともかく、白羽根の人間体と姿が非常に似通っていた。よく考えたら、当然か。この悪魔らしからぬ様子の悪魔は、彼女の姉……、姉?
ああ、そうか。悪魔だから姿形は自由なのか。だとすれば、この姿で現れたのはわざとか? ということはつまり……、私が白羽根に案内されてここに来て、共にこの悪魔を打ち倒そうとしていることは、ばれていた……のか?
いや、そんなこと考えても仕方ない……? 仕方ない。
彼女が着ていたものと同じデザインである、全体的にぶかついている、彼女とは対になるように、深い漆黒の色をしていて、破損の無い状態の衣服。
だが、少し改造してある。横のリボン部。一番下から腰の辺りまで、裁断してあるようだ。動きやすくするためか。
白羽根の人間形態を比率を変えず少しばかり縮小したような少女。そんな容姿。
違いはそれ位。
それと、一見上品であるが、棘々《とげとげ》しく、あざといその気性か。
「私は貴方の心が読める。妹とは違ってね。だからその状態でも会話に支障は無いでしょう?」
白い世界で、私は彼女の話を聞いている。彼女はこの陰鬱な話の聞き手である私に対してこう言った。
「姉は、そのとき、壊れた……、いや、私も、壊れたんです……」
あとは、そこから崩れるように、彼女たちの世界は崩れていった。まずは足元から。彼女の姉は、その日を境に家を出た。そして、両親は姉を一切探しはしなかった。
彼女、つまり妹が死んだことにし、姉が生き残ったことにした。不幸な事故で。そして、その日から、彼女は紛うことなき長子となった。そう偽装した。
その日、彼女は独りになった。いつも自分の隣にいた姉が、彼女の隣にいない初めての、始まりの日となったのだ。
その時からだろう。彼女は保険ではなくなった。予備はもうないのだから。だから、彼女は立ち止まることが許されなかった。
これまでは、姉がいた。彼女が立ち止まったときに限り、姉が前に立った。彼女の親も、どちらかがどちらかの予備であるため、それを許容してきた。
だが、もうそれはないのだ。
彼女がこれまで家での生活に耐えてこられたのは、姉がいたから。両親にとってだけではない、彼女にとっても、姉は予備であったのだ。きっと彼女の姉も彼女のことを予備と考え、どこか心の負担を預けて、分け合っていたかもしれない。
まあ、それは今となっては分からない話だ。
彼女の姉は、その数年後、不慮の事故により亡くなったそうだからだ。原因は不明。彼女の両親はそれを彼女に教えてくれなかったのだ。
彼女自身で調べても情報はまるで出てこない。まるで本の頁が途切れるように、急に彼女の姉の生の痕跡はある地点ある場所で途切れていたのだから。
それが、ここだそうだ。
いつできたか分からない、用途不明の建造物群。そこに彼女が消える寸前頻繁に出入りしていたことを彼女は突き止めたのだ。
そして、敷地に足を踏み入れた瞬間、雷に打たれたかのように、全身に激しい衝撃を感じ、彼女はその場で気を失ったらしい。
「あと、それとですが、」
【何だ?】
「いえ、何でも、無いです……」
ん? 私は何を?
いや、何を言っている、私は? 何をぼうっとしている? 目の前の悪魔から気を逸らしてどうする……。
【では、尋ねる。君は何を司る悪魔だ? この世界そのものか?】
「随分、いい性格しているわね。最初に言うことがそれぇ? 謝罪でも無く、命乞いでも無く、私が貴方にしたそれが何であるかも聞かず、それぇ? まあ、いいわぁ。私は、この世界の半分を司る者よぉ」
【成程、分かった。では、君の望み通り、聞いてあげよう。どうして私と彼女を、意志を残したままの状態で操っている?】
「どこが、私の望み通りよ。まあでも、その感じ、嫌いでは無いわぁ。だから答えてあげましょうかしら。それなりに聡い貴方に。それでありながら愚かな貴方に」
『負け惜しみは止せ』
私はそう、強がってみせる。
「いいえ、だって貴方、読心能力者への対処の仕方知ってる癖に、それに反することしたでしょう? 自覚無いのぉ?」
そう。知っているからこそ。そんなものに頼るのは、臆病だから。だからこそ、つけ入る隙はそこしか無い。
どうだ? 読めても理解できないこと。それが君には恐ろしい筈だ。そして疑うだろう、私の正気を。
「【まあ……、いいわぁ。どうせ貴方はここで終わる。だって、貴方は最初から私に抵抗できないのだから。】」
真っ暗だ。暗闇の中に私はいる。
何も思い出せ……、いや、何だこれは?
こちらの世界に転移して闇の中で意識を得た、最初の状態に戻った? そんな訳が無い。私は、私は、……ともかく、この状態は間違っている。
それだけは分かる。
ん、あれは?
紫色の炎を纏った、白い羽根?
周囲に壁は無く、平坦であったらしく、私はそれの元まであっさりと辿り着いた。近くで見たそれは、淵に紅色の炎を纏い、蒼色の炎でその身を燃やされているように見えた。
だから、遠くから見たときは、紫色に見えたのだろう。
……。
妙に見覚えがあるような……?
「お願いです、早く――――」
ん、何だ? よく聞こえない……。
うっ、意識が遠のいて……。
『私に握らせたこいつか? 成程、これが君がそうやって私の前に立てる理由か』
「【あら、その状態でそんなことまで気付けるの、貴方ぁ? 素敵ね、とっても素敵。】」
そして、彼女のべたついた舌が、躍った音がした。
しゅるり。
もう、正気が、保てない……。
消えゆく意識、周囲が真っ白になっていく。色々と反響する言葉? ああ……ここは、いや、私は、一体何を……。
目の前の、羽根一枚の体となった彼女は私にこう言った。
「私は、そのとき気絶したのか、死んだのか、今となっても分かりません。意識はこうして存在しているわけですが、私の体はどこにもありませんでした。意識を取り戻したら今の姿になっていたんです」
目の前の彼女には顔なぞ無い。だが、彼女は泣いている。涙なぞ当然流れないはずなのに、そう見えて、聞こえて、しまう。
彼女の響く声も、私の眼下に表示させている文字も、実際は人の声を模したような機械のような声である。本来無機質ながら、有機質な声に寄せ、彼女が羽根になっても人らしく振舞おうとしてきた結果なのだろう。
きっと、だからこそ感じたのだ。泣いているのだ、この人……、この子は……。そう伝わってきたのだ。
しかし、私にできることは、聞くことだけ。彼女を救うことができるのは、彼女自身か、彼女の姉か、それとも私以外の誰かなのだろう。
掛ける言葉が浮かばない……。
「この姿になって色々考えてやっとそうだったって気付きました。どうして、お利口さんで一度の反抗すらしたことがなかった私が、両親の反対を押し切って、消えた姉を探しにいったのか……。この姿になって、独り長い間考え続けて、やっとそれが分かったんです。姉は、唯一私が縋れ――――」
話の終わりは突然訪れた。途切れるように、遮られるように。そして、何か聞こえて、くる?
「――――て……い」
「起き――――い!」
「早く……」
起きてください、か?
ああ、分かった。
私は何をしていた?
この少女と対峙しているのだ? いや、違う。その前だ。その前に何を思っていた? そうだ、こんなことをしている場合では――――
……、目が、逸らせない……。私の心が訴えるのだ。それは、許されない、と。
本来、汗でも流れる場面なのだろうが、どうしてか、そういったものは一切、私の体から分泌されなかった。
この少女が、既に私に何かしたかというのか? それに、何か、おかしい。この少女が、という意味ではない。
私が、どこか、おかしい……。
目の前のこの少女が怖い。
だが、私の体に、恐怖の影響が出ていない。全くといっていいほど。足は竦むことなく、しっかりと体を支えており、手の震えなどもない。手汗もなく、額から汗が流れることはない。心に苦しさはない。
むしろ、落ち着く。この少女を見ていると、落ち着くのだ。
そして、この少女を見つめていること。それが、私の今すべきこと、そんな感じがするのだ。
だが、何か、おかしい……。
だから私は予感した。きっとこの状態が続くのだろう、と。それもかなり長く……。直前にも心に沸いた、根拠のない不安、焦りが私に問いかける。
いいのか、それで?
不味い。駄目に決まっている!
あれ? どうして不味い?
思い出せない……。
「そろそろね」
少女が口を開き、そう言った。そして、その後、また少女がぶつぶつと何か呟いたかと思うと――――
「さぁて、そろそろかしら、ねぇ、ふふふふふ」
[[[楔は消えた]]]
この機械のような音声を操っているのも私の目の妖艶な女性……。
拘束が解けた。だが、反撃する前に、一つ尋ねなくては。
『何のつもりだ……』
「あれが何か、分かるかしら?」
その女性が指指すその先にあったのは、灰塵と化した、白羽根だったもの……。
そして、少女は何か囁くように私に向けて呟い――――いや、もう、いい……。終わったのだ……。
私はそこで、突如、汗と涙を激しく流して、崩れ落ちる。違和感の正体の判明とともに、自身のあまりの愚かさとともに、私の心は、真っ黒に沈んで、落ちていった……。




