神秘庭園 本能台座先末端 Ⅰ
指に付けたのを舐めていたときと比べ、何十、いや、何百倍もの量なのだから効いて貰わなくては困る。だが、少々、量が多過ぎたかも知れない……。
すると、私の不安は、一気に消し飛んだ。今までの躊躇も、つい今しがたの不注意への後悔も。
どうにかなる!
そう思って私は結局、台座にしがみつきながら、
スッ。
球を窪みに嵌めた。
私は相当に神経質で臆病であるらしい……。それと、この雫の効果は、口にする直前までに生じた不安にしか作用しないらしい。
……。
何も起こらない……、ということはなかった。
球を嵌めてから数秒後。轟音が鳴り響いたり、道が消えたりすることは無く、すうっと、向こう岸への道が現れた。
しがみついていた台座から降り、先へと進んでいく。
やっとのことで向こう岸へと辿り着いた。目に見えていたよりも明らかに距離があったような気がした……。台座からここまで、どれだけの距離を歩いたのか、もはや定かではない。
私が足を踏み入れたそこは、半円状の巨大な柱だった。
闇の底から、垂直に聳える、半径5メートル程度の半円の柱。その直線部分の中点に先ほど渡っていた橋が接続している。
そして、どうやらここで行き止まりのようだが、行き詰まった訳ではなかった。中央に落ちていた"それ"を、私は今から開いて確認しようとしているところなのだから。
《[ "???の書" を手に入れた]》
それは、表題の無い本。縦24センチ、横18センチ、厚さ2センチ程度の、しっかりとした装丁の本だった。
厚みがあり、汚れや擦などの傷のない茶色の表紙。触った感じでは、しっかりと磨いて艶が出た状態の、タンニン鞣しの牛革製だろう。
横から見た限り、中の紙はそれなりに古そうであるが、同じく傷は見られない。
この庭園内ではどこにも埃は積もっておらず、この本も同様であるが、それがこの庭園内では埃が積もらないからなのか、何者かの手による手入れが行き届いているからかは分かりはしない。
薄々埃がどこにも積もっていないことに気付いていて、それを無視していたことに今さら気付く……。
溜め息と共に、気を取り直して。
これは誰の物であり、何が書いてあるのだろうか? 本かも知れないし、日記の類かも知らない。
そして、本を開く。左開きで、開く。
ザッ。
……。
パラパラパラパラパラパラ――――、ザッ、バタン。
その本に向きは無かった。何故ならば――――白紙。その本は、文字や絵が印刷されている本でも、誰かの私的な日記でも無く、全ての頁を捲っても何も書かれていない白紙だったのだから。
溜め息が漏れる。
これまでの溜め息とは違い、それは落胆の溜め息。
まあ、折角なので回収しておくことにした。後は書くものさえ見つかれば、日記やメモ帳として使えるだろう。
"ものは考えよう"である。
本を脇に抱えて庭園中央部に戻ろうとしたところ、本が一瞬、光ったような気がした。見てみると、表紙に、金色の文字が浮かび上がってくる。
【汝、立ち止まり、括目せよ。】
そして、本は私の脇から、手からひとりでに抜け出て、ひとりでに最初の頁を開く。更に、半円状の岸の中央、私の目の高さ辺りに、中身を橋側に向けて、浮かんだ。
私は当然、それに目を合わせた。
黒い文字が、紙面に次々と浮かび上がっていく。
【汝は自身の記憶を代価として、試練を受ける資格を掴み、それを乗り越えた。】
左から右への横書きらしい。
にしても、意味深な文だ。
それに……。
この世界での知性を持つ者との初接触が、まさか、生物ですらなく、唯の本とになるとは。それとも、何者かが、この本を通じて語りかけてきているのか?
それの方が現実味があるか。だとすると、あの球を落としてきたのは、まさか、その何者かなのだろうか?
私がその文を確認し終えたところで、次の一文が浮かび上がってきた。
【拠って、汝は契約の義務を負う。】
そういう仕組みらしい。良い意味で、興奮する。私はどうやら、こういった神秘的な、不可思議なものが好きであるようだ。
だが、これらの文章、一体どういう意味だ? 私は知らないうちに試練とやらを受けさせられてしまっており、内容も知らない契約を結ぶ義務があるらしい。
酷く一方的だ……。こちらから意思表示できるなら、何か言ってやりたいところではあるが……。
【汝は二つから選ばなければならぬ。契約か、消滅か。】
巫山戯た選択肢だな、これは……。それに、この場合、契約か、死か、ではないのか?
【契約を望むならば汝の血で契約の意を示せ。消滅を望むならばこの書を虚空へ葬れ。】
バサッ。
その文を私が読み終わると、浮いていた本は音を立てて地面に落ちた。
莫迦莫迦しい……。
私がそれを放置して立ち去ろうとすると、
スゥゥゥ。
目の前の橋が消えた……。
私は座り込んで悩んでいた。こんな訳の分からないことを言ってくるような奴は相手にしたくはない。それが人であっても、そうでなくても。
だが……。
私は今、牢に入れられているに等しい。契約とやらを結ばない限り、このままの状態が続くということか。
とはいえ、契約を結ぶという選択肢を取ったということを私はどうやって相手に示せばいい?
指に血の朱肉を付け、本の最初の頁に拇印で契約でいいのだろうか?
いや、待て……。
契約内容が分からない契約など、結ぶわけにはいかない。
だが、あの一文。
本を手に取り、最初の頁を開く。
【汝は自身の記憶を代価として、試練を受ける資格を掴み、それを乗り越えた。】
ここでいう、自身の記憶を代価とした汝。それは、記憶を失う前の私なのではないのか……? だとすると、この契約を私に持ち掛けている者は、私が失った記憶について知っていることになる。
では、試練というのは?
文面通りだとすると、今の、記憶喪失状態になってからの私が、知らないうちにその試練とやらに挑まされて、知らないうちに達成条件を満たしたということになる。
だが、この文面自体が嘘である可能性も十分にある。
これを寄越した者は、少なくとも、私を今、半径5メートル程度の半円の中に閉じ込めた、私を嵌めた者。
都合よく信じるわけにもいかない。
何やら、人智を越えた力を持っていることは確か。私は恐らく、ここへと誘いこまれたのだ。
そして、退路を断つ、というより、閉じ込めて、無理やり、しかし、私の意志で、記憶喪失の私に、内容を知らない契約を結ばせようとしているのだ……。
こんな回りくどい手を使ってくることからして、私が自身の意志で同意して捺印しなくては、契約は有効にならない、など、何だかの制約があるのだろう。
すると、開いていた最初の頁の文章が、全て消えて、次のような文章が代わりに浮かび上がってきた。
つまり、私が諦めて、折れて、従順に契約を結ぶのをただ、その何者かは待っていたが、私が今のままだと絶対に契約しないと踏んで、契約の文を見せる気になったらしい。
舐めた真似をしてくれるものだ。
【 "契約" 】
【魔に奪われし世界、我が手に回帰させよ。】
そして、頁の右下に、四角い囲いが現れる。そこに血の捺印をせよ、ということなのだろう。
だが、今はまだ、押せない。
明らかな空欄。きっと契約の文はこれだけではない。
少々苛立ちを感じるが、今のような状況だからこそ、冷静でいなくてはならない。
待てば残りの文章も出てくるだろうから、私は待つことを選択した。だが、何もしないで待つ訳ではない。今出ている文章からできる限りの情報を読み取る。
まず、魔というものが居る。それが魔物を指すのか、悪魔を指すのか、魔人を指すのか、魔獣を指すのか、私には分からないが。
次に、神がこの世界には居る。この世界は元々神のものだった。今は魔のもの。私は世界を再び神のものにしなくてはならないらしい。
やはりあったか、続きが。
先ほどの二行の下に次々と文が浮かび上がってくる。
【案ずるな。】
【汝の望み、失われし記憶と共に封ず。】
【汝、歩みを進めよ。】
【汝唯みで、四つの世界の魔を滅せ。】
【折れること無く成し遂げよ。】
【然すれば得る。】
【以前の汝が望みし褒美。】
【現の汝の渇望との合致を我は保障す。】
最後まで読み終わったところで、手の裏から光が漏れていることに気付いた私はすぐさま、その光の発信源であろう本の表紙を確認すると、
【 "savior hastily constructed" 】
最初に現れていた金文字は消えており、代わりにそういう文が金字で刻まれていた。背表紙にも同じものが刻まれていたことからして、これがこの本の表題らしい。
訳すと、"急造救世主"か。
っ……、頭に、痛みが……。
《[ "savior hastily constructed" を手に入れた]》
バタッ……。
……。
湧き上がる、強固な意志。
ああ、そうだ。捨てよう。降りよう。消えよう。この俺が、従順な羊であることなど、意思なき操り人形であることなど、あってはならない。
コト、コト、コト、ガッ。
半円の湾曲部先端に立ち、 "savior hastily constructed" を摘んだ左手を放した。