精神唯存揺篭 黒渦溺落 石の鳥籠 Ⅲ
私はそれから暫く考え込んだ。それらが何を意味するのかを。だが、何も思いつかない。
当然だ。
こういったものの自身の知っている文字へ変換しての解読は、専門職の人間が一生を賭けて行うもの。その分野の必要最低限の知識すら足りていない私がそれをこの短時間でどうにかできる筈はないのだ。
だから、刀身に刻まれた文字のことは置いておいて、本来の目的のために、それを振るうことにした。
門の前に立ち、構え、石の蔦のうちの一つに向かって、そのレイピア状の剣で、素早く刺突を放った。
ガシュッ!
あっけない程すんなり、蔦は剣に貫かれる。
ピッ!
振り抜くように引き抜くと、
ゴバシャァァン!
蔦は切断され、地面に落ちて、水音を立てた。
だが、それだけではなかった。
薄黒い煙が刀身から立ち込めてきたのだ。そして、切断されて地面に落ちて水に漬かっている方の蔦の断面からも、残っている蔦の方の断面からも同様の煙が上がっていた。
そして、剣の刀身が、煙では無く、少々青み掛かった薄黒い、靄のような光を帯び始める。竜脳樹の匂いと共に。
それはつまり、擦りたての墨の匂い。
ザァァァァァァ……。
その音が聞こえてきた足元を見る。
切り落とした石の蔦が、切断面から順に風化していって、空中を漂うように幾つもの纏まりになって、上へと昇っていきながら、塵へ還っていく。
そのエフェクトは、肉刀のものとは全く違う、摩訶不思議なものだった。
その纏まり状のものは、明らかに、文字だった。
大量に上へと昇っていく、墨色のたくさんの文字。一気に数十もの文字が、もわもわ上昇していき、やがて散って、塵と消える。
しかも、私の知っている文字も知らない文字もごちゃ混ぜ。私の知っている文字に関しては意味を成しているように見える。
【不朽処理済黒曜石】
【進行阻害】
【遠距離攻撃による破壊無効】
等々、どうやら、その刀身で傷つけたものの性質を示しているらしかった。
これは、使える。純粋な武器としても、情報を吸い出す道具としても。
よくも、こんなにも都合の良いものが降って沸いてくれたものだ。
そして、残っていた蔦の方も、文字へと変換され、塵となって消えたのを確認したところで、私は、残る蔦の全てを切り払った。ものの数分程度で、門を覆っていた巨大な石の蔦たちは全て消え去った。
遮るものは無くなったが、門の先は相変わらず見えない。門の先の通路はかなりの長さがあるのだろう。だが、確実に何処かへ繋がっている。通路へ向かって、風が通り抜けていくのを変わらず感じるのだから。
女性像が先ほどのように動き出す気配も無い。
だから私は先へ進もうと、剣を仕舞って駆け出して門を潜――――ゴツン! ゴォツゥゥゥ!
何かに思いっきり、頭からぶつかり、遅れて、体全体がぶつかる。そして、
バシャッ、バシャシャシャ!
それなりに速度が出ていたからか、弾き返されるように、豪快に後ろへと転がるように私は吹き飛ばされた。
すぐさまむくりと起き上がった私は、門の入口に透明な壁が聳えていることを確認した。それなりの量の水飛沫が付着している。
コン、コン。
叩いてみた限り、そう硬そうにも思えない。私があれだけ弾き飛ばされたことからもそれは明らか。
ん……、背中に何かが、触れて、落ちた。
拾い上げて確認したところ、それは水を弾く素材で作られた白い紙であるようだ。A3程度の大きさで、中途半端にぐしゃっと丸められていたそれを綺麗に広げて延ばす。
【籠から羽ばたこうとする者よ、汝に問う。】
【汝が定義する至高の安心とは何ぞや。】
【『 』】
私が読解可能な文字で書かれた、僅か三行の文章。上の二行は質問文で、最後の一行は回答欄。その幅からして、10文字程度の答えが望まれているらしい。
頭上を見上げる。
丁度真上に、石の蔦の束が消滅したことですかすかになった女性像の右手の握り輪っかが位置していた。そして何やらぴらぴらとその隙間からたゆたっているのが見えた。
成程。これは、あの女性像から、私へ投げかけられた問い。そして、その答え如何で、先へ進めるかどうかが決まるということだろう。
至高の安心、か。随分、哲学染みた問いだ。
至高。この上ないこと。最高の理想。
安心。心配や不安がなくて、心が安らぐこと。心の平穏。
質問に含まれるこれら二つのキーワードには共通点がある。どちらも精神的な、形ないものであり、人によってその基準がまばらであるということ。
だが、決められた答えは無い、自由に答えろ、という意味だとは到底思えない。これが問いかけである以上、求められる答えの方向性というものがあるのではないかと思う。
それは答え自体の方向性かも知れない。それとも、答える際、嘘をつかないことかも知れない。はたまた、答えをより一般論に寄せることかも知れない。
かなり長い時間、私は考え込んだ。水浸しになったスラックスは、すっかり乾いていた。
結局のところ、どう答えるべきかのヒントは今のところ見当たらない。そして、時間をこれ以上掛けても無駄になりそうな気がした。
だから私は、"黒枝樹液筆"を出し、素直に思ったことを書き入れることにした。
不正解だったとしたら、強行突破するか、別の経路を探せばいい。
私はこう、書き入れた。
【『 未定 』】
回答欄の空白よりも遥かに短い、僅か二文字の回答。
何となくでそう答えたのではない。今の私なりに考えて、そう書いた。ただ単に、分からない、などと書かず、そう書いた。理由ありきで書いた。
未だ定まっていない。未定。
そしてそれは、至極当然の二つの理由から導き出された。
一つ目。私にはこのような哲学的問いに対して自分なりの見解を示すだけの経験、自身の身となっている本物の経験が無いために書けない。
未だ書けない。これから先も旅を続けていき、そうして旅の終わり頃に漸く定まる集大成のうちの一つを今聞かれても、私の答えというものは導き出せない。
だから、未定。
二つ目。まだ決まっていないということが理想。旅の道筋は、予め定められていない。私のこれからの行動によって全ては決まっていくのだから。
私の道は私が決める。そうでないと、不幸や失敗に対して、私が納得できないから。私はこの未知を楽しんでいるのだ、きっと。だから、無粋な思惑がここに紛れ込んでいて欲しくないのだ。
だから、未定。
その紙は私の手からすうっと消え、透明な壁は消える。付着していた水飛沫が、壁が消えたことで
ザァァッ!
と、地面に落ちて音を立てる。
ゴォォォ!
お気に召したようだ。女性像は微笑を浮かべている。
門の先は、私が思っていたよりも長い長い通路だった。
周囲は暗い。後ろから差し込んでくる光しか光源はない。だが、不思議と足元だけは認識できる。上りでも下りでもなく、左右に曲がりくねっているわけでもない真っ直ぐなその道を私はひたすら進み続ける。
モワ~ン、スゥゥゥ。
何やら、薄い膜のようなものに触れ、それを透過したような感覚を全身に感じた。ぬめっとした、妙に気持ち悪い生暖かさを一瞬であるが味わうこととなってしまった。
服はそれによって湿りを帯びたりしなかったのは不幸中の幸いである。
その直後、忽然と、通路の終わりが現れた。
通路の出口は、少し開けたドーム状の部屋に繋がっていた。天井の高さは最も高い場所である中央ですら6メートル程度。最も低い壁面だと、4メートル程度しか無い。地面の広さは半径2メートル程度で、一切の継ぎ目が無く、歩いても足音一つならない。
壁面と地面の色は、青と緑の二色を中心としたグラデーションのような、マーブル模様のような……、どう表現すればいいか分からない。
そして、この場所には風の流れは無いらしい。ひんやりともしていないし、水気も無い。天井から光が差してもいなくて、仄暗い。
ただそれだけの、何も無い完全な行き止まりなのだ、ここは。
だが、この場所に風が吹いていないのはどういうことなのだろうか?
先ほどの通路の中では私の背中から差し込む空気の流れを存分に感じられていたため、それがひどく不自然に思えた。
あの不可視の膜の仕業と思えばいいのだろうが、それはそれで不自然なのだ。私が通過するだけで通り抜けられるような膜が、空気の流れを遮断するほどの強度を持っているとは考え難いからだ。
とすると、進むべき経路は別にある? そう、例えば、あの膜を潜る前の通路部分の何処かとか。
そう思ってそこから立ち去ろうとすると、
グシャッ!
何か踏んだ。
足を退けてみると、それはぐしゃりとなった紙片だった。
部屋に入ったときにはこのようなものは間違いなく、無かった。天井にこのような紙片がくっついている様子も無かった。何か落ちてくるような音もしなかった。
一体、何処から……。
私はそれを拾い上げ、不安を感じつつ、確認する。
【汝には経験を与えよう。】
【答えを出すための鍵を、与えよう。】
【汝、それを拾うことも捨てることも赦される。】
【行くか引き返すか、答えを示せ。】
先ほどの、続き、か?
そう読み取れる。だが、今度は解答欄は無い。どちらにするか答えは決まっている。当然、行く。先へ進む。
だが、どうやって答えればいい……?
私は悩んだ末、ペンを取り出し、『行くか引き返すか』という文言の部分の、『行く』の部分を丸で囲った。
これで答えたことになるだろうか……。
そうして結果を待っていると、紙片がすっと消えて、部屋の中央部の床部分に、庭園で見たのと同じような、しかしそれよりもだいぶ小さな黒い渦が現れた。
大きさは半径20センチ程度だろうか?
飛び込め、ということなのだろう。
私は庭園のときとは違って、変に警戒したり躊躇したりすること無く、それに足を踏み入れる。すると、周囲の光景がもわっと消えて闇に包まれ、
ブゥオン!
と、一度音がしたかと思うと、新たな光景が瞬時に構成された。




