原始の箱庭 人肉臓骨血殿 臓物貴賓室 Ⅰ
私は辿り付いた先で早速、目を瞑り、這い蹲り、嘔吐していた。目を閉じていようが、逃避し切れない……。地面に接している掌と膝から嫌な熱と脈動を感じる。
諦めて私は目を開ける。顔色を青くしつつも、立ち上がる。
そこは、人体を切り開かない限り見ることのできない各種内臓、つまり、体の内側の骨以外が形を残したままぐちゃぐちゃに混ざり合って配置されて形成されている床、壁、天井が広がっていた。
そして、噎せ返るような、濃厚な血肉の臭い。
各種消化液らしいものが、壁面から吹き出している。その度に、私の意識が揺らぐ……。あの通路の数段、酷い……。
床から壁まで、臓物で作られ、脈打っている。腸やら肺やら胃やら。各種臓器がモザイク状に配置され、この部屋を形成しているのだ。そして、見たところ、出口はない。閉塞している。
噴き出す、緑茶色の液体。それが足元に掛かる。生暖かくて、限りなく気持ち悪い。靴もスラックスもそれで溶ける様子は無く、私の肌にも損傷は見られないのは幸いであるが、気分はこれ以上無く、沈んでいる。
壁を見るのも、床を見るのも、天井を見るのも、ここにおいては気持ち悪いものを近くで見ることと変わらない。
気分が悪くなった私は前を向いた。
ここは、出口のない、縦横100m程度、高さ5m程度の空間。
きれいな直方体の部屋ではないのだが、部屋の形をしっかり把握した。正面遠くに見える壁付近に座っている人影まで、果たして、再び意識を失う前までに辿り着けるだろうか……。
私は気持ち悪さに失神しそうになるのを唇を頻繁に噛んで必死に耐えつつ、生暖かく、ぷにぷにする、たまに血やその他液体が噴き出す床を、涙ながらに、駆け抜けていった。
そして、十数秒何とか耐え、人影の正体が何か分かる程度の距離に来たところで、再度強烈な吐き気を催す。
足が止まってしまった。
私はこみ上げるそれが口から飛び出そうとするのを手で押さえて防ごうとしたが、抑えられていなかった鼻から噴き出し、思いっきり咽せる。それでも、膝は付かない。跪く訳にはいかなかったのだから。
何とかして、この場から逃避したい気分ではあったが、それはここでやるべきことをしてからでないと無理だと分かっている。ならせめて一時の精神的な逃避だけでも、と、気絶する訳には益々いかなかった。
目を逸らさずに、潤み、吐瀉物で濁り汚れた目で、前の光景を見る。肉刀を構えながら私は前を見て、距離を詰めて、その人影の前2メートル辺りに、立つ。
それは、椅子に座っていた。大層悪趣味な椅子に……。
二つに切り開かれた脳が地面に刺さっているのだ。延髄部分は埋まっていてどれくらいの長さがあるかは分からない。露出している、延髄以外の部分の全長は凡そ2m程度。
脳は、右脳と左脳の分け目の部分で横向きに開いてあり、そこにめり込むようにそれは深く腰掛けて座っている。
そして当然、それは人間ではない。"闘争"の悪魔の言葉通りだとすると、それこそ、私のターゲット、そして、これまで倒してきた悪魔たちの親玉、"本能"の悪魔。
これまで遭遇した悪魔たちと比べ、それは更に人間に近く見えた。これまで見た悪魔とは違い、小型。慎重160センチから170センチといったところだろうか? そして、威圧感も今のところ放って来てはいない。
紫色の瘴気で編んだ服。光を吸い込むような深い黒色をした皮膚。背中に生えている蝙蝠風の翼。毛の一切ない体。
この悪魔が纏っている瘴気が明らかに、服といえる形状をしていることが何よりの証拠だった。元人間の悪魔。そして、現・"本能"の悪魔。それが目の前の存在なのだ。
「待っていたよ。人間を見るのは久々だからね」
文字の表示は無く、言葉だけ。言葉に合わせて口が自然に動いていた。これだけ悪趣味な場所にいる存在だというのに、その第一声は、驚くほどに普通だった。
少々高めの、男声。少々、幼さも感じられるような気もするが……。
「何を驚いているんだい? 悪魔が人のように自然に流暢に、字幕無しで話すのがそんなに可笑しいかい? 君の為にわざわざこうしたというのに」
悪魔は微笑を浮かべながら、自然な言葉遣いで私にそう言った。
「彼女と同じ転生者かな?」
そう言って、"本能"の悪魔は椅子から立ち上がる。
ブチュチュチュ、ニュッ、プシャァァァァ!
悪魔が立ち上がる共に、椅子に負荷が掛かったようで、勢いよく吹き出した透明な液体。
それが私に向かって豪快に飛んでくる。それは生暖かかった。脳汁だ、これは……。脳味噌椅子は、少しばかりしぼんだ。
「おっと。壊してしまったかな?」
悪魔はそう言って、ねちょねちょと、生理的に受け付けない音を出しながら後ろを向いて、椅子の破損部位に向けて手を翳し、紫色の光を放つ。すると、逆再生するかのように、私に付着したその透明な液体も、感じた熱もまるで無かったかのように消え、元の場所に、液体は戻っていく。そして、元通りになったと思ったが、更に戻っていき、そして――――白目で泡を吹いている女性の顔になった。
この顔の造形、あの洞窟の彼女のものだ……。二重の意味で感じたその気持ち悪さに耐えきれなくて、
「うぅ、うぁあ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"――――」
泣き叫んだ。
「ああ、錯乱しちゃったか」
私は奇妙な体験をしていた。目がぐるぐる変な方向を向き、視界が大きく揺れていた。決して目の前の悪魔自体が色んな意味で怖いからという訳ではない。
えげつない光景が繰り広げられ過ぎている。それは今も、続いている。あの椅子もそう。背中の翼がぐちょぐちょしてて、透明な糸に茶色い汚れが混ざり付いたかのようになっていて、気持ち悪く糸を引いているのもそう。焦点をずらして見えてくる、悪魔の背後の臓物の壁もそう。足元の腸壁っぽい床もそう。
そして、私は涙を零しながら、再び悪魔を見据えて、何とか落とさずにいた肉刀を握り直して、吐瀉物混じりの鼻水を啜って、構えた。
「あらら、えぐいの駄目だったか、君。これではこの場所で話を聞くことはできないかな? 困ったなぁ。私はこの場所から出るつもりは無いんだよなぁ。しかし、君から直接話を聞きたい訳だ」
わざとらしく、煽るように悪魔は私にそう言ってくる。笑いながら軽口を叩くさまは、どう見ても人間のそれだった。
「聞いてるかい?」
すると、悪魔は突然私のすぐ目の前に立っていて、顔を近づけ、耳元でそう私に呼び掛けていた。生暖かい息が掛かり、思わず私はその方向を向いて、思いっ切り、吐いた。
そしてすぐさま、右手の肉刀を振り下ろすと、それは空を切った。
悪魔は姿を消し、また、あの脳味噌の前に意地悪そうな顔をして現れた。
「ったく、臭い臭い。そんなことしてい~のかな? 君の苦手なグロい光景、追加しちゃうよ~!」
私は殺意を込めた目で、私の吐瀉物塗れの悪魔を睨み付けた。
すると、また悪魔が私の視界から消えた。周囲を見渡し警戒していると、
「ねえ、君。どうしよっか?」
私の顔の前2センチ程度に、悪魔の顔があり、私に向かって、そう言ってきた。それが色んな意味でもう無理で、
「ぅ、ああああああああああああ」
肉刀を錯乱しながら振り回すが、その全てが、空振ってしまう……。そう。遊ばれているのだ、私は……。
そう気付いた私は、悔しくて唇を噛みながら、その手を下ろした。
メキキキ、ブチョォッ!
悪魔がその顔椅子を顔面陥没させるかのように、身を投げ出すように座った。
ギュゥイァアアアアア!
椅子が呻き声というか、呻き音というか。そんな音を上げながら、血と吐瀉物が混ざったかのような色の液体を飛ばす。
悪魔の体で遮られる分以外は、私に向かって、飛んできて、付着する……。
その色も、臭いも、ねっとりとした質感も、全部、本物。もう逃避はできないと割り切った私は、何とか耐えた。
このまま振り回され続ける訳にもいかない。
相手はどう考えても、狂っている。自身の愛する者と同じ顔に向かって、そんなこと、するか……? どうして、恍惚な表情を浮かべながら、笑っていられる……?
「愛だよ、愛。愛する人のものなら、どれだけ汚れていようとも、どれだけ臭かろうとも、どれだけ重くとも、愛おしく受け入れてしまえるものだろう? 私は少なくともそうだ」
こいつ……。今まで、わざと、私の心を読まなかったのか……。その言葉から私はそう確信した。
「さて。君が右手に握っているそれについて私は話を聞かなくてはならない。君は私に話す義務がある。何故ならそれは、僕の持ち物だった筈だ。彼女をイメージした逸品なんだけどなぁ」
とっとと私の心を読めよ。それで全部、欲しい情報が分かるだろうが……。私は投げやりに心の中でそう叫ぶように嘆いた。
「それに、僕の分体から報告があったんだよ。彼女に、僕をイメージした品としてあげた、お揃いの肉刀。それも君が持ってたんだよねぇ」
だが、悪魔はそれを無視するかのように、一方的に話を続ける。
「ということだから、君を人形にするのは後だ。何としても君から彼女のことを聞き出さなくてはならないからね。えっ、何でかって? そんなこと、君なら言わなくても分かるだろう? えっ、それでも知りたいって? どうしても? 仕方ないねぇ。それはねぇ、それでこそ、人らしい、から、さ」
なんてたちの悪い狂人なのだ……。狂っているのに知性を持ち、私を一方的になじるように弄ってくる。何なのだ、こいつは……。
「う~ん、じゃあ、一つ譲歩してあげよう。この部屋から、別の場所へご招待~っ」
悪魔がそう言い終わると、私の視界は大きく揺らぎ始めた。そして、次の瞬間、別の場所へと飛ばされた。




