原始の箱庭 石造廃都 秘匿区画 Ⅲ
「ゲホゲホ、ゴホゴホ……。つぅ、気にするな。そんな顔をしなくとも、説明くらいしてやる」
吐き出された光沢の無い黒い液体は、黒い靄へと変わり、悪魔の体に纏わり付く。
「見栄を張ったのだ。この靄はな、我が血であり、力を失った我を消失から守る覆いなのだ。力を、格を奪われるということは、存在意義の消失を意味する」
『もういい、分かった……』
私は哀しくなった。もうそこまで言われれば、答えは分かる。解を組み立てる情報は既に出揃っている。
そう伸びておらず、尖ってもいない人のものかと錯覚するような爪で皮膚を切り裂き、黒々しい血液を出し、黒い靄に変え、悪魔はそれで身を覆っていく。
「だから私は、自身を靄で曖昧にし、自身を覆い守っていた。だが、その血の在り処は我自身。これは唯の延命でしか無い。外気へ晒した我が血の力は失われてゆくのだから。そして、それは自然に回復することは無く、緩やかな滅びが我には待っている」
私は、その弱った悪魔らしからぬ悪魔に敵意を向ける気は完全に失せた。意思疎通ができる上、こちらの意図を汲んでくれる相手のようなのだから。
これまで私が直接遭った者たちの中で、誰よりもこいつは人らしい。そして、私何ぞよりも、ずっと、人らしい。
「さて、話を続けようではないか」
そう言って、悪魔がその場に座り込んだため、
『ああ……。頼む』
私もそれに倣い、座り込んだ。どうやらまだまだ話は続くらしい。
「貴様はこの世界の悪魔を誤解している。この世界の悪魔は貴様の世界から来たものではないのだ。この世界で、この世界の理で、この世界の人間たちが生み出した、概念的であるが実態を持った存在なのだから貴様の中の言葉を借りるすれば、こうだろうか? "善き隣人"」
言い得て妙である。
要するに、実態と実体を持った悪魔、か。
物理的にこの世界に存在しており、物理的干渉がこちらからも向こうからも可能。悪魔という名の上位存在ではなく、悪魔という名の実態も実体もある上位生物として存在している。
そんなところだろうか?
似ているようで、違う。だが、違うようで似ているともいえる。
「そんな我らは、人の想念より生み出された存在である。貴様の中の我ら悪魔という存在の定義とも一致しているだろう?」
『確かに』
「だからこそ、貴様ら外来の者たちの想念が、そこに混入した。変質した。融合した。貴様らの思い浮かべる悪魔という存在の概念が、我らに付与されたのだ。相反する要素がそう多くなかったからだろう」
『それが?』
要領を得ない、回りくどい話。これから打ち倒す者たちを知ることは大事だろうが、理解し、共感する意味は無い。
だが、そうなりそうで、私はそっけなく、距離を取った。
「特定の役割を示す名と、その名に沿った力の所轄という、新たなる力と束縛を与えられた。人には、悪魔の力を借りられるより強大で奇蹟的な力と、代償が必要になるという束縛が与えられた。それでいて、人が悪魔に物理的に干渉できる。となると、何か起こる?」
それでも変わらず、悪魔は話を続ける。饒舌に。
こんなにも顔を近づけられ、問いかけられれば、答えない訳にもいかない。それに、こんな楽しそうなこいつの顔を曇らせるのは無粋。そう思ったから、私は答えることにした。ぶれぶれだ、私は。
こんなことで、この先、進み続けていけるのか? そんな不安を感じてしまう。
『私の元いた世界の、私の中の知識通りの悪魔と人の関係が、それまでのお前たちと人との関係の在り方を塗り潰す、だろう?』
「では、我がこう存在できているのはどう説明する?」
『影響が薄れた。もうこんな問答止めにしよう。そこに意味など無い。私はお前たちのことを深く知り、肩入れするつもりはない。悪魔は滅する。それは変えられない。私は以前の私の意志を継いたのだ。もう既に、私の前に立ち塞がった者を滅したのだ。ある女性の想いを背負ったのだ』
言うつもりすら無かった。だが、言ってしまう。無駄に、無為に。それを言うことは、こいつとのこれ以上の語り合いを拒絶することに他ならないのに。
『変えはしないよ、結論は。お前はどうでもいい。だが、お前の嘗ての契約者、現・"本能"の悪魔に私は手を掛ける。そう、お前なんて、どうでもいいのだ』
だが……。
「ふはははは、なら、どうして貴様は、大人しく私の話に耳を傾けている?」
悪魔はどこまでも人らしく、嗤う。嘲笑う。胡坐をかいた悪魔は、それでも私から興味を失ってはいない。だから、少し反省し、素直に答えた。
『気まぐれさ』
「気まぐれ、ね。違うな、それは」
『何だと?』
私はこいつのその言葉に思わず、立ち上がってしまう。そんなことにどうして自分がむきになっているのか、どうしてか分からない。
「その通り。貴様は未だ迷っているからだ」
『話せ、続きを。聞かせろ。少なくとも、そうする意味はあるらしい。そう思えてきた』
私はそうして、再び座り込む。
「唯、促されるがまま、誘導されたその思考で、貴様の為に整えられた舞台で、貴様に植え付けられた記憶からのみを根拠に貴様は判断し、何の疑問も持たずに前へ進んでいいのか、と」
……。何を言えばいいのか分からない。図星だ。その通りだ。私は正にそう、疑問を浮かべていた。尤も、こいつが言うくらいに明確には思い浮かべられていなかったが。
こいつは私を見ている。観察している。見定めている。私という存在を。
そうしているのは悪魔の性か? それとも、こいつ自身の性質か? 結局、今の私には、何もかも、分からない。
「まあ、いい。未だ、貴様には早かったのだろう。焦らずとも、貴様には未だ時間はある」
そんな意味深な言葉で、悪魔は私の、私の内面に、私の行動の空虚な根拠の理由を問うことを一方的に終えた。
一方的に始めていながら、終えた。
「今は人は存在しないのだから、我に掛けられし縛りは解け、このように自由に振るまえているのは何とも皮肉なものだ。畏怖を振り向く超常的な存在であるかのように」
そして再開されるこいつ自身の話。
「本来私の領分では無いかも知れないが言っておくことにしよう」
そして唐突に、
「魂を代価にする。それが意味するところを貴様は自分なりに解釈する必要がある。その答えは一通りでは無い。だが、その形を誤認してはこの先危うき道程となるぞ。それは決して、魂を直接代価にすることだけを指すのではないのだから。契約の意味。それを今一度、見直すべきだ」
ぶち込まれた忠告。
「この世界の悪魔は、契約の対象となる者のみに直接的な影響を与え、干渉を行う。他者は巻き込まないのだ。他者の道を、結末を、過程を、歪めることはしない。お前と、以前のお前。その共通点を、相違点を、踏まえ、問い続けよ」
「これでもぶれはしない、か」
『ああ。決めたから』
私は立ち上がった。
『喩え、全て用意されていたとして、決めたのは、全て、今の私なのだから。決めて、背負って。だからもう、変えるつもりは無い。根底から崩れ去ることでもない限りは」
それに応えるように悪魔も立ち上がる。
「誘導されていると分かっていて、自らの誘導に乗るとは。ふはははははは。ふははははははは! だが、それでこそ、人間らしい。人形に成り果てた者たちや、我のような存在にはできないことだ、それは。自分で決め、自分の意思で進む。縛られることなく」
悪魔は纏っていた靄を再度捨て、
「だからこそ、我もそれに倣って、一歩を踏み出そう。使命とやらを果たすつもりである貴様に、教えてやる。」
人のように、大きく息を吸って、一呼吸置いて、
「貴様の求める悪魔、"本能"の悪魔は、現在、ここからほ……っ」
……。突如悪魔の言葉が途切れた。
そうして語らいは終わる。第三者の介入によって。




