原始の箱庭 大樹林帯 Ⅰ
目的地は、嘗て彼女が築いた、今は廃墟となっているだろう町。
荒野を超え、湖を越え、また荒野を超え。そんなことをひたすら繰り返して、おそらく数日後。私の視界には森がひたすら広がっていた。
この森は、地図の北端中央から東端中央にかけて斜めに帯を張ったように存在している。これを通り抜けなければ、町にも、彼女が嘗て彼と最初に出会った洞窟へも、辿り付けない。
ここに来るまでに歩いてきた距離からして、この樹林は最短距離で抜けられたとしても半日程度は覚悟しないといけないだろう。その上、森を構成する木々は巨大で背が高く、森を進む際の目印となるのは、森の中に存在する石畳の道のみ。苔や草や土で埋もれず風化せず飲まれず残っていればいいが……。
地図によれば、森に入ってある程度進んでいくとそれが見えてくるらしいが、果たして……。
おそらく、森林帯の中点辺りであろう場所から、私は森へと足を踏み入れていった。
豊かに葉を茂らせた、私の数倍から数十倍もの背丈の木々に高密度に覆われた森。濃い薄いはあったが、葉の色は例外なく緑。花は一切咲いていない。
そんな常夏の森だ、ここは。僅かばかり落ちている葉を拾って観察してみると、ここは広葉樹林のようだ。一応、私のいた世界の知識の範囲内の森。そう判断することにした。
ただ、気掛かりなのは、虫の声がしないこと。大樹林帯が広がっているというのに、動物が一切見当たらないのだ。それどころか、植物以外の生物の存在が一切見当たらず、微かな存在感すら感じ取れない。
森の外とは違って湿気ており、ぬめぬめと生暖かい空気が私の周囲を漂う。日差しは頭上遥か上の枝と葉に遮られており、だいぶ弱い。とはいっても、周囲を知覚しながら程度には降り注いでいる。
湿気ているとはいえ、暑くは感じない。湿気が沸いていることからして、熱いはずなのだが……。喉は渇かず、熱によって体力を奪われることはない。そもそも、汗を全くといっていいほど掻いていない。
そういえば風も吹いていない。そもそも汗を掻いていないため、風が吹こうが私に恩恵は無いのだが。だからこそ、今まで気づかなかった。
空気の流れがないのだ、この森の中には。
そうやってひたすら考え事をして気を紛らわせながら、終わりの見えない、一切の手掛かりの見当たらない、まるで未開の樹林帯を私は横断していった。
どれだけ進んだかは分からない。靴底に摩耗は無く、足に疲れは全く溜まっていないのだから。周囲の風景はそう変わらないままで、時間感覚など、とうに消え失せていた。
最初の方とは違って、やたらめったら、進む方向を限定され、ぐるぐる右へ左へと蛇行しているのだから。
先ほどから、地面が木の根で覆われるようになっていた。苔や未だ緑の瑞々《みずみず》しい落ち葉がその上に時折乗っかっている。それにによって一切の足跡すら残らないのだから、引き返すという選択肢はもう消えていた。
途中の木々に印をつけようとして、スコップで樹表を傷つけようとしたが、それは上手くいかなかった。
スコップの先端は、樹皮が豊富に含んだ湿気によって緩衝される。手でそれに触れてみると、まるでゴムとスポンジを融合させたような、何ともいえない感触をしていた。こんな植物が存在するのかと、あっけに取られた。
いつになれば石畳の道は見えてくるのだろうか? そもそも、埋もれずに残っているのか?
私はさらにひたすら、大きく隆起した木の根を越え、大樹の枝と枝の間を潜り、ただ前へ進んでいく。一体いつになったら森を抜けられるのだろう。相変わらず植物以外の存在を感じられない。
石畳はもう木々や苔で埋もれてしまっていると考えて私は行動していた。
ここまで、一度たりとも私は足を止めていない。いや、止められなくなっていた。私はこの森に入ってもうずいぶん経つ。どこまで進んで今自分がどこにいるのか全く分かっていない。
足を止めるということは、私はこの森で遭難したことを認めることに他ならない。もう、真っ直ぐ進めているかどうかも本当のところ分からないのだ。そのことに気づき、とうとう、額に冷たい汗が流れる。
体に疲れのようなものが巡り始める。私は"蛍色の液体"のハンカチを口に含ませ、自分を誤魔化した。
度々"蛍色の液体"のハンカチを口に含ませながら、先へ進んでいく。精神関係の消耗を回復させるだけならそう分量を消費しないとはいえ、状況はかなり不味い。
こんな使い方をしていれば、そのうち無くなる。それに、物理的損傷があったとき、対処できない。
だが、背に腹は代えられなかった。
そんなことを考えつつ、これまでになく木々の枝や蔦が入り組んでいる場所を抜けた。すると、そこは大樹に囲まれた行き止まりだった。
これまで、一度も引いていなかった行き止まり。だから逆に、これは何かある。私はそう、手応えを感じる。
答えは、私の上方にあった。
正面の、だいたい建物2階分程度の高さの辺りに人一人が余裕で通れそうな大きさの大きな木の洞がある。洞の下部から根の部分まで垂直に蔦が生えている。
樹上なら、何か、別の風景が見えるかも知れない。今まで考えもしなかった。
それに手を伸ばして掴んでみる。
思いっきり引っ張ってみたが、びくともしなかった。私はそれをよじ昇って、洞の中へ潜ってみることにした。引き返すにしても、どうせ何もない。他に行く宛はないのだから。
私はぐいぐいと蔦をつたって上へと向かう。こういったとき、特権Ⅰが非常に有り難く感じられる。
洞の入り口が見える高さまで上ってきた私は、そこから覗いた光景にびっくりし、思わず蔦から両手を離してしまった。
慌てて手を伸ばすが、空振り。真っ逆さまに建物2階相当の高さから私は落下していった。
ボゥ、フワン、ホワン、ホワン、スタッ!
……。
無事だった。それどころか、一切怪我をしておらず、衝撃も殆ど無かった。地面には密集した苔のふかふかの絨毯と、木の枝の弾力と柔らかさを持ち併せた大きな網目がぎっしりと生えており、尻から落ちた私を愉快に跳ねさせてくれたからだ。
反動はかなり強く、まるでトランポリンで跳ねたかのように、数回跳ねて私は着地した。両手を万歳して、両足を揃えて綺麗に着地したのだった。
「ふっ、はははははは!」
思わず、笑いが漏れる。笑い声が出る。
「はっはっはっはっは、はははははは!」
跳ねるように寝そべって、私は心の底から笑った。私が洞の先に見たものこそ、私の望んでいたもの、目的地だったからだ。一瞬しか見れなかったが、その光景はそれなりに強烈なもので、網膜に焼き付いている。
それは、町というより、都市だった。突如大自然の中に現れた、幾何学的な石造りの都市。真っ白な都市。
こうしてはいられない。
飛び起きた私は、再び蔦に手を掛け、勢いよく上まで登りきり、洞を走り抜けていく。私が真っ直ぐ立っても余裕があるほどその洞は大きいのだから。向こう側に広がる光景に向かって、長い長い大きな洞を、私は走り抜けていった。
ここは、建造物に傷みが見られず、植物による侵食が一切見られない、綺麗に形を留めた都市。森の中の石畳は跡形も無く飲まれてしまっているにも関わらず、無傷の都市。巨木によって、ドーム状に包み込まれた都市。
だが、それでもここは廃墟だ。なぜなら、人の気配を一切感じられないのだから。
あの洞窟の資料の中には、この都市の詳細図どころか、概略図すら無かった。だからこそ、手探りでの探索になる。
これまでで最も、旅らしく、冒険らしい展開に、私の胸は高鳴る。
まずは、入口から壁面内側に沿って時計回りに一周してみることにした。




