原始の箱庭 黒洞窟 小広間 今に至る後悔の過去 Ⅰ
彼女は重く噤んでいた口を開き、言葉を紡ぎ始める。
「【いいえ、死んでいるのですよ、人としては。私が失敗と看做されたのは、私が人で無くなったとき。それは当然、この世界に転生した後のことです。そして、この世界の悪魔に歯向かう術を永続的に全て失ったときです……。
「【いいえ、構いません。元々私から言うつもりでした。そろそろ始めましょう。長い長い昔話を。】」
『では、お願いする』
「【ですが、その前に。その昔話を私が貴方に聞かせ、質問があればその全てに私の知る限りの範囲で答えます。ですので、私の話が終わり、貴方の質問が終わった後、私の些細な願い事を聞いてくれないでしょうか。】」
『その願いと言うのは?』
「【今は言えません。】」
彼女はそう強く意思表示する。
『どうしても?』
「【どうしても、です。ごめんなさい。これだけは譲れません。そして、その願いは貴方を害する類ではありません。誓います。どうします? それでも、私の昔話、聞いてくれますか?】」
私はそれに頷いた。
「【私を信じて下さってありがとうございます。私も貴方を信じます。お互いを裏切らないようにしましょう。この口約束に拘束力はありませんから。互いの良心によって成される契約なのですから。では、始めましょうか。本当に長くなると思いますので、メモのご用意を。】」
彼女の昔話。昔話と言いながら今まで続く、未だ完結していないその話は、
「【それがどれ位昔のことか、もう私は憶えていません。】」
このようなありがちな一文から始まった。
「【私は前の世界で自殺しました。とある条件を満たして。それが何かは憶えていません。それはとても恐ろしいことで悍ましいことで、私はそれでもそれに縋り、その結果、転生する資格を得て、貴方の言うところの、神を名乗る者の前に立ちました。】」
「【私は学者でした。フィールドワーク中心の。人以外の生物から、人の本能的な行動を解き明かすというテーマを掲げて研究に明け暮れていました。あの頃は楽しかったですね、本当に……。】」
「【ですが、そんな、楽しい時間は終わりを告げます。私は、気の狂った者たちの集団に襲われ、首から下を動かなくされてしまったそうです。後から聞いた話です。私は気づけばそのような状態になって、病院のベットの上にいたのですから……。犯人は誰一人として捕まりませんでした。】」
「【ですが、私としては、そんなことはどうでもいいことでした。これまで情熱の全てを注いできた研究に二度と取り組めないということに私は絶望したのです……。そこで私は、噂話という藁に縋りました。】」
「【詳しい内容は憶えていません。ただ、その条件を満たせば、こことは違う世界に転生できる。そう知った私はそれをどうやったかは分かりませんが、満たしたのです。】」
「【そこで願ったのは、至極単純なことでした。先ほど述べた通り、これまでいた世界とは異なる世界での、記憶を持ち越した上での生です。】」
「【私は、その神を名乗る者が私に何をさせたいか尋ねた上で、そう願ったのです。噂話の中に、その転生というのがどのようなものかについての事前情報が全く無かったからです。】」
「【無かったということは今でも憶えています。随分不思議なものです。転生先に着くまでは自身の記憶の保持は保障されるようにしても、そこから先は、自身で努力しなければ保持できない。そういう風になっていたのです。】」
「【要するに、願いの詰めが甘かったんです。願いの調整もしくは、能力の調整でそうならないようにしておかなくてはならなかったのに。私は前世でかなりの知識を蓄えこちらに来たため、それらの中から、優先度を付けた上で維持を試み、重要な知識に関しては残すことができたのですが……。】」
「【と、失敗するとこんな感じで不都合が生じる訳です。これだけで済んで本当に良かったです。今思えば。】」
「【願いをできるだけ軽くして、先払いで叶えてもらう。能力はそれを果たすために私が最低限必要だと思うものを自分自身で考えて要求するという条件で、契約しました。】」
【私の本当の願いは、生物学者として、自身のせいでない理不尽に邪魔されずに研究に生きることでした。ですが、それを直接願うとなると、条件はより重くなることは明白でしたので、それを果たすための願いを私は望んだ訳です。】
「【それでもこの願いは厳しいものでした。他者に影響をより大きく与える、巻き込む願いほど、代償として課せられる使命は重くなるのです。そうなれば、能力に割く分が無くなってしまいます。】」
「【ですので私は願いを本当のものよりも軽くした上で、能力用に代償を、使命に加え、上乗せした訳です。それは新たな世界での苦労。代価の後払いです。】」
「【転生する以上、周りには私のこの世界での親など、周囲に人が絶対にいます。しかし、私たちの世界と同じように、人が言葉を使うか分かりません。】」
「【神は最低限度以下のことしか教えてくれませんでした。情報が無いから、考えうる限りの最悪に備えないといけなかった。きっと以前の貴方もそうしたのでしょう。】
「【それに、同じ世界からの、近い時代出身の人と会えたとしても、言葉が通じるとは限りません。そもそも、違う世界からの転生者と遭遇した場合、下手に対応なんてできません。文化・風習の違いがどれだけ隔絶しているか予想もつかないのですから。】」
「【理性と本能のバランスからして違っており、いきなり襲われるという可能性だって捨てきれません。共食いの風習などを持っていたら、不味いどころでは済みません。】」
「【考えなくてはならないのは、他の存在だけではなく、自分自身についてもです。生まれたときから自意識と記憶を保持した転生者が、通常の新生児のように言葉を覚えられるとは限りません。】」
「【と、こんな風に、切りがありません。ですから私は、有無を言わさず、言葉によるコミュニケーションを私も相手もどんな状態であろうと行うことができる能力を望んだということです。】」
「【つまりですね、どうしようも無い部分は願いと能力で埋め、努力や工夫で何とかできる部分は自力で何とかする、という方針を常に取れる条件を整えたというわけです。】」
【そして、いよいよ、転生。苦難の始まりです。予想外のことが幾つも幾つも起こる訳です。何せ、異世界ですから。しかも、この世界は見ての通り、原始時代真っ盛りです。この世界には、恐竜がいるにも関わらず、人が存在していたのですから。】」
「【この世界に転生したばかりの私を笑顔で見下ろしていたのは、原始人のイメージそのままのヒト2匹……。人ではなく、ヒト。そう言うしか無いと思える位、彼らは知性に欠けて見えました……。】
「【すみません、不快にさせたのでしたら、謝ります。人表記で通すことにします……。仮にも私を生んでくれた人たちにそれはあんまりでしたね……。】」
「【それでですね、どれだけ原始的だったかと言うと、物凄いですよ……、悪い意味で。】」
「【私が生まれたとき、知識の引継ぎや記録という概念すら存在していませんでした。文字は当然なく、数すら、数えられません。完全な狩猟生活。農耕なんて到底無理です。食料も、水も。得ると計画性なしに全部消費してしまいます。】」
【つまりですね、長期的視点を一切持っていなかったんです。超個人主義。それでいて辛うじて人と人とが寄り集まって当座を凌いでいたという……。】」
「【一部の天才的な人のみが原始的な道具を作る程度でした……。言葉も、数種類の仲間の間の合図みたいなものしかありません。それも、法則性がなく、ばらばらでしたし……。】」
「【集落一つ辺りの大きさが、12人いれば多い方でしたね。3人から4人程度が殆ど。長が数をどれだけ数えられるかと、長が何人まで他を従えた状態を維持できるかの2つの要素で決まっていました。12というのは、両手の指と両足を合わせた数、12です……。】」
「【私が生まれた集落の場合は、幸運なことに12人でした。この辺りにある集落の中で最も知的な長を持つ集落に私は生まれたのです。人員が13人になったところで、長であった私の父は、12の次、13を数える手段として、自身の頭をカウントしたのです。】」
「【それを見たときから、この化け物染みた能力を使うチャンスはいつか訪れると確信しました。】」
「【ですが私は、生れ落ちてすぐには能力を使いませんでした。意志を持ち、そのようなことができたらなら、それは、もはや人ではありません。化け物です……。私たちの元いた世界基準であってもです。】」
「【倫理も道徳も無い、誰もが直感的に、迷信的に動く世界。そんな世界で、十全たる意思疎通を行う、いや、行わせる者なんて現れれば、受け入れられないという拒絶反応は、その者をただ弾くだけで終わらす訳がありません。殺すところまでいきます。確実に。それも楽には死ねないでしょう。】」
「【そうであると分かっているのだから、能力の使用の副作用によって、自身の生存が不可能になることは、理不尽として扱われません。理不尽を強いるのは私の能力そのものなのですから。自業自得にしかなりません。】」
「【変に思われないために、人以外に使ってみようとしたりもしませんでした。徹底的に能力を隠しつつ、ひたすら周囲を観察するに留めておきました。できる限り無邪気を演じて。この世界では演じるという概念は無いため、思った以上にあっさり上手くいきました。】」
「【ただ生活しているだけで良い感じで体を鍛えられましたし、能力を使うことを我慢していても不思議とストレスは溜まりませんでしたね。】」