原始の箱庭 黒洞窟 小広間 Ⅰ
受け取ったそれらについての説明を私は彼女からさっと受けた。
"緑の代用紙片"は、この世界の一際瑞々しい葉を切り取り、乾燥させたもののようだ。作ったのはだいぶ昔だそうで、乾燥させる前に何か一手間加えていたそうだが、それが何かはもはや覚えていないらしい。
小さめのハンカチ1枚分程度の大きさのこれら数枚の断片しか、まともに使える分はもはや残っておらず、彼女が今ここで私に手渡した分以外は、触れた途端、塵となって消えたらしい。この断片も端に触れるとその部分が脆く崩れる。
彼女はどこか、遠い目をしているように見えた。
"黒枝樹液筆"は、真っ黒で、表面に木目のある、木の枝である。それの根元側を尖らせて、持つ部分には薄い緑色の布のようなものを貼り付けて巻いてあるようだ。
この世界に自生している真っ黒な木。その枝を切り取り、切断部の先端を尖らせたものだそうだ。その木は、まるで血管のように樹液が全体に張り巡らされているそうで、それは当然、枝にも及んでいた。
成長点である枝の先には樹液の通り道は一本しか無く、文字を書く道具として都合がよかったそうである。たまたまその木の存在と特性に気づいた彼女はその木の枝を根こそぎ折り、作れるだけ"黒枝樹液筆"を作った。だが、それが原因でこの周囲一帯の真っ黒な木は枯れたそうである。
そう彼女は自虐しながら、これがそうやって作った筆の最後の一本だと懐かしそうに言った。
「【では、使ってみてください。】」
早速私はそれを使ってみた。インクはその紙に程よく線を引いていく。書き心地は、ざらざらなごわごわした紙の上を走らせたボールペンのようだった。
【最後の筆記具と言っていたな、これらは。】
【私に無償であっさり与えてしまってよかったのかな?】
そう、意思を紙面に記し、彼女に見せた。
「【はい。私にはもはや必要のないものです】」
彼女の表情はどこか儚げに見えた。きっと、思い入れがあるからこそ、使えなかったのだろう。
『ありがとう。大事に使わせてもらう』
再度彼女に感謝して、彼女に見せた紙を手元に戻すと、その緑色のキャンパスから、文字が消えていた。
「【インクの劣化が進んでいるようです。長期の記録はできそうにありませんね……。精々、今のような筆談程度が限界でしょうか……】」
インクが出なくなっていないだけましだと思うことにしよう。それに、これは私にとって一方的に都合の悪いことではないのだ。勝手に消えるなら、スペースを節約する必要はないのだから。
私はそそくさと筆を走らせる。唯心を読まれるより、この形式の方が落ち着く。
【いやいや、筆談の道具と考えればむしろ都合が良いと言えるだろう。これは、私にとって、言葉を手にしたに等しいのだから。】
彼女はそれを見てにこりとして、
「【そう言って貰えて、幸いです。】」
そう言って少し詰まった後、
「【……。本当は、メモでも取って頂こうと思って用意したのだったのですが。申し訳ありません。】」
それらを用意した意図を明かしてくれた。私が先ほどの彼女の言葉があまりしっくりこなかったことを彼女は汲み取ってくれたのだろう。
私はふと思い至り、空間から本を取り出して、
【よくよく考えれば、これがあるのだった。これにメモすれば問題無いだろう。これ、返した方がいいかな?】
試し書きの意味も込めて白紙の頁にそう書き込んだ。
「【ああ、それがありましたね。懐かしいですね、私にもそれを持っていた頃がありました。その紙片はお収めください。きっとどこかで役に立つでしょうから。私にはもう必要ないものですし。】」
彼女は寂しそうにそう言った。
まず最初に、彼女は神らしき者に会ったかどうか、それが私が会った神を名乗る者と同一の存在であるかを確認した。
彼女はどうやら以前の私と同じ世界出身で、尚且つ、私より数十年程度前の時代から来た転生者らしい。
そして、彼女が転生者として世界に再誕する前に出会った神らしき者は、私が会った者と同様であったようだ。
実際に彼女がその神らしき者と会った場を見ていないので、私があそこで会った、神を名乗る者と同一であるかどうかは断定できないが、聞いた限りはそうではないかと思う。
それを踏まえた上で、彼女の使命を尋ねた。
彼女の使命の対象範囲はこの原始の世界だけだった。彼女は私のようにあの庭園に足を踏み入れてはいないのだ。あの神を名乗る者に会い、それから直接、彼女はこの原始の世界に転生者として飛ばされた訳で。
具体的な使命の内容は、原始の世界に彼女が転生した地点から数十年後に起こる、人に時折軽い悪戯をする程度の穏健な悪魔に取って替わって悪魔となる者が、人の滅亡を確定させることを阻止することだった。それも彼女が生きていた間だけ何とかすればよかったらしかった。
私が自身の使命、少なくともこの世界を含む最低でも4つの世界を、それらの世界をそれぞれ支配する悪魔を滅ぼすという手段で救わなくてはならないと話すと彼女は酷く動揺していた。そんなこと、できる訳がない、と。
そして、次は能力について。
彼女の能力を聞く前に、私は特権Ⅰと特権Ⅱを自身の能力を彼女に提示したが、特権Ⅲについては伏せた。自殺する能力なんて、ただ場を暗くしてしまうだけだろうから。
だが、これらの能力を得る代償として自己を構成する記憶を捧げたということは抜かすわけにはいかず、話した。
彼女が授かった能力は、コミュニケーションの絶対成立というものらしい。相手が何であろうと、心を開いていようが閉じていようが、心を持った相手であれば、必ず意思疎通が可能になるというもので、その都度、必要なものが自身に知識として付与されていくらしい。
この世界に来たとき、彼女は当然、赤ん坊の状態となっていたため、すぐさま能力が発動したそうだ。
この世界での言葉の発音のための知識が付与され、この世界で言葉を発するためのコツは、以前の世界とは違うことを知ったらしい。そして、練習した、と。
彼女の能力で付与されるのは知識であり、手段の提示であり、方法論であり、つまり、その地点では机上の空論でしかない。必ず、それを実践するためには、試行錯誤、つまり練習が必要とされる能力であるそうだ。
彼女が転生した地点の神を名乗る者の能力を以てしても随分無茶な能力であったため、そういった制約を付けられることで能力として成立する条件を満たしたらしい。それでも彼女は代償として何か元から持っていたものを支払った訳では無い。私は大きな代償を払って得られたのがあの3つの特権だというのに……。
色々考慮しても与えられた能力と使命に差がありすぎると感じたため、彼女にそれについての意見を求めたところ、願いの違いでは無いかと言われた。
彼女が願ったのが、これまでいた世界とは異なる世界での、記憶を持ち越した上での生だった。
以前の私がそれよりももっと大きな願いを神を名乗る者に望んだとすれば、それが私と彼女との使命の難度の差に大きく関わっていると考えらえるが、それを確かめる術は無い。
以前の私が胸に抱いた願いを私は知らないのだから……。
と、このように、ある程度彼女と話をして、彼女との話は私にとってかなり有意義なものであるということが分かった。
彼女にとってもそうであるようで、私が尋ねたことに、彼女は嬉々《きき》として答えてくれるのだから。とはいえ、私が知りたかったことの半分も知れたかどうかは怪しい。謎はまだまだ残っている。
一度情報を整理する。
彼女が私とは違って転生者であり、私よりも前にこの世界に飛ばされてきて、彼女が救わなくてはならない対象はこの原始の世界だけだった。
彼女が転生した時期は私が転移した今の時期とは異なり、神がまだ今よりは優位であった状態だったのだろう。
それに、比較検証しようがないが、彼女と私とで、願いの大きさが違いっていたのかも知れない。私が彼女よりも遥かに大きな願いを抱いたから、それに見合った無茶な使命を与えられたのかも知れない。そう思わないとやっていけない程、私の条件が彼女の条件に比べ困難が過ぎる。
更なる情報を得るために、私は彼女の核心に迫る。
それはとても聞き難いことだ。それに、彼女のこれまでの話から作り上げた推論に過ぎない。それをぶつけるのだ。彼女がこれ以上何も言ってくれなくなるかも知れないと覚悟しつつも、私はそれを彼女に尋ねなければならないと思った。
彼女はどうも、本当に言いたいことをまだ言っていない、踏み切りがつかないようだったから。私が言いださなければ、このまま、彼女はそれを吐き出すことなく、話を終えるような気がしたから。そして、それはとてもとても、重要なことのように思えたから。
空間から紙片を出し、書き殴る。
【貴方は与えられた使命に、どう失敗した? いや、こう言った方がいいか。どうして使命に失敗したと、貴方という人間が未だ生きているにも関わらず、看做されている?】
「【えっ……。】」
【貴方は死んでおらず、生きている。にも関わらず、貴方は、自身の使命に対して、過去形で私に話した。つまり、失敗したと判断したのだ。そして、私が神を名乗る者との契約の証である本を提示したとき、貴方は『懐かしい』と言った。】
「【……。】」
【ここまで言えばもう分かるだろう? 貴方に一体、何が起こった? どうか、全て、話して欲しい。】