原始の箱庭 原初大自然 Ⅲ
1メートル程度の距離を空けて対峙する。
そこにいたのは、人。振り返れば人の顔が、そこにあったのだ……。それの手が私に向かってゆっくりとぬるりと伸びつつあったところであり、その手と私の背中との距離は10センチ程度しかなかったのだ。
幸い、追撃されることもなく距離を取ることができたのだが……。間に合わなければどうなっていたか、と考えると寒気が止まらない。
今にも、スコップを落としてしまいそうになる。これとは、間違いなく、意思疎通はできない……。
見覚えがあった。この固体の腹部。そう。あの扉を開ける際に、私がスコップで圧迫した鬱血の痕。黒ずんだ内出血の痕がその腹にはあったのだから。
そう、こいつは、私が害してしまった、あの扉を形作っていた肉人形の一体……。
この場所に来て私を襲った初めての恐怖は、恐竜ではなく、人。それも、私の不注意の産物だった……。
私が開けた距離をその個体は詰めてくる。ゆっくりと徐々《じょじょ》に。
戦うしかない……。
そう思った私は両手持ちにしたスコップで目の前の地面を思いっきり叩く。
ガァァン!
金属の音が鳴り響く。しかし、そんな牽制で止まってくれることは無く、全く怯む様子すら無く、距離を詰めてくる。呑まれている私には、それに合わせるように後ずさりするしかなかった。
このままでは、やられる……。
色々と未知数なこれの脅威をどうやって退ける……。観察しなくては……。罪悪感と嫌悪感が胃の奥から沸きあげてこよう、とも。
今一度、スコップを強く握り直した。
にじり寄りに対して、それとの距離が変わらないように私は後ずさりながら観察する。
目は白目。つまり見えていない。ということは私の臭いに反応して接近してきているとは考え難い。
そして、扉を潜るときには気づけなかった特徴に気づく。それは、肌。シミや皺一つない。肌が細胞の集まりでできているように見えず、まるで、一枚のつなぎ目のない膜のよう。
直立はしておらず、少し腰の折れた姿勢。両手を力なくぶらぶらさせ、首はもたげている。髪があるため、不気味さが倍増している。
黒いストレートの髪は明らかに痛んでいる。それと体つきから考慮して、一応女性と判断したが、本当にそう判断してもいいのかは怪しい。そもそも、これは、人間では無いのだ。
人のように見えて、ところどころ人といえるほど作り込まれていない、顔と頭身だけ人を再現した肉の人形に過ぎない。
だが……。だからこそ、恐ろしいのだ。狂気を漂わせて、それは明らさまに私の前に意志を持って対峙しているのだから……。
だめだ、逃げなくては。
その表情を見たときに私は直感した。肉人形が突如顔を上げ、にやりと笑みを浮かべたのだ。
影があるように見えるその笑顔は決して友好のそれではなく、威嚇のための行動であると断定できる。それが私にそのような表情を向ける理由は十分にあるのだから。
私は逃げた。必死に逃げた。ただひたすら、走りに、走った。笑顔の後の膠着状態から私は先に動き出し、度々後ろを振り向きながら、水溜りの方へ向かって。
これの全速力での移動速度が分からないこと、最初にどこで遭遇したかということ、その二つによって、私の逃げる方向は一択でしかない。
数秒のアドバンテージを稼げ、距離を数十メートルまで開けることには成功した。だが、それ以上、差は開かない。それどころか、距離が徐々に詰まってきているように見えた。
肉人形はぴくりともしない笑顔のまま、私を真っ直ぐに追ってきていた。恐怖が、狂気が、迫る。
私は走るのを止め、後ろを向いてスコップをその場で振り回して牽制したつもりだったが、効かない。全く怯んではくれない。
そのまま向かってきた肉人形は今度は私が当てるつもりで放ったスコップでの振り下しをあっさりと掴まれる。片手で、スコップの刃根元の柄を……。
それは、明らかに狙って、見て、やった動き。
そんな、莫迦な……。
顔がすっかり青褪めた私は、震えが止まらなくなり、体から力が抜けていく。そして、スコップから手を離してしまい、腰も抜ける。
その場にへたりと座り込んでから、もう、立て、ない……。
私は何とか、両手を使って後ずさる。それは唯の足掻きでしかない。終わりの先延ばしでしかない。水溜りまでは、100メートル程度。時間を稼いでも、届きはしうそうにない。
笑顔のまま、表情の変わらない肉人形がスコップを手にし、私がしたように地面に振り下ろす。
グゥァァァァァァアアアンンン!
私の直ぐ足元にそれは落ちた。地面が抉れる。発せられた金属音、巻き上がった土の量、抉れた地面の痕。そのどれもが、その一撃が私の放ったものよりも遥かに強烈であることを示していた。肉人形は、片手でスコップを振り下ろしたにも関わらず。
グゥァァァァァァアアアンンン! グゥァァァァァァアアアンンン! ゥァァァァァァアアアンンン! ――――
何度も何度も振り下される狂気の一撃。当てないようにした、脅しの連撃。私の、山折の足に沿って、少しでも動かせば当たってしまうであろうくらいすれすれに、打ち込まれ続けていた。
足だけは不味い。逃げるための足の負傷。そうともなれば、もはや武器一つ無い私に抗う術は無い……。
状況が変わった。肉人形が、スコップを両手で持って、構えたのだ。
両手で持つということ。それは、両手で振り下ろすということ。その意味は、余りにも明らさま。片手でも地面を抉るのだ。両手だと、どうなる? 頭蓋にでも当たれば砕けて即死。足にでも当たれば、骨の粉砕では済まず、切断までいくだろうか……。
鮮明な想像。私はとうとう、後ずさりすらできなくなった……。
そして、とうとう、その瞬間が訪れてしまった。
振り下ろされるスコップは、私の左足へと向かっていく。
そんな様子から目を逸らすことができす、体は動かないのに頭だけは回り、状況を把握できてしまっていることが恨めしかった……。
そして、触れたのは左足脛部。スラックスごと私の左足が……分断されていく。破壊の音を鳴り響かせながら。
時間の流れが急に遅くなったようで、音がとてもゆっくりと聞こえ、スコップの速度も急激に遅くなる。タキサイキア現象。またの名を、スローモーション。
そんな薀蓄思い返す余裕があるなら、どうしてこの状況になる前に逃れる方法を必死で考えられなかった……。狂って現実逃避する、暴れ回る。唯、見ているだけの今よりも、そんな愚行の方が、まだ、まし……。
どこまでも愚かだった自分を後悔しても、もう、遅い。
スコップが、私の皮を裂き、筋を千切り、脂を掻き分け、骨を一気に砕き、貫き、脂を割り、筋を引き千切り、皮をもっていく。
そうして、私の左足はスラックスごと、完全に切断されていた。スコップという、刃物とはいえないような鈍器のただの一撃で……。
私の左足の残りと、頸より下の左足断片。前者は腰に繋がれた唯の棒に。もう一方は唯の肉片に成り下がっていた。
あんまり、だろう……。こんな終わり方は。嫌だ。こんな終わり方は。こんな無様な終わり方は、どうしても、認めたく、ない! 何もできずに、唯、嬲られるなんぞ、御免だ。
だが、どうする……。
っ!
脳裏に浮かんだ、一つの疑問。そこから繋がる、先ほどの想像通りの終わりを避けるための一本の道筋が垣間見えたかのような気がした。
痛みが、無い。血も、噴き出していない。ということは――――!
思考が、加速し始める。