page9:風邪引き、微熱、眠る頃
最悪だ。
何が最悪かというと、ずばり私の体調だった。
「……あう」
休み時間、私はぐったりと机の上にうつ伏せになり、動くことさえも億劫に感じて過ごしていた。
「な、ナナ! どうしたの?」
と、横からそんな驚きの声が聞こえてきたが、もはや首から上を動かして振り向くことも難しい。
「ちょっとちょっと、大丈夫?」
ヒロがやってきて、覗き込むように私の顔を見た。
「……う、うん。大丈夫…………」
「大丈夫って、そうは見えないんだけど……」
「……じゃないー……」
「ダメじゃん」
頭がやたらとガンガンする。
鉄の塊で後頭部をぶん殴られてしまったみたいだ。
何て言えばいいのだろうか……頭の芯に響くっていうの?
カキ氷を急いで食べたときのあの頭痛に加えて、耳元で大声を出されたような感じだ。
頭が、いや、体全体が重苦しい。
気のせいか、気だるさもこみ上げてくる。
典型的な風邪の症状に似てはいるが、それとはちょっと違うような気もする。
「とにかくさ、今のうちに保健室行ってきなよ。授業に遅れるようだったら、先生には私から言っておくからさ」
「うー……やっぱ、その方がいいかな?」
「どう見たって今のナナ、病人だもん。そんなんで授業なんてまともに受けれっこないって」
「け、けど……次の時間は古文が。私の苦手な古文がぁ……」
「苦手なら、休めてお得じゃない」
「そうじゃなくってー……試験が、試験がぁ……」
「分かった分かった。ちゃんとあとでノート見せてあげるから。ほら、動いた動いた」
「ヒロ、今日はあんたが女神様に見えるよ……」
「その代わり、数学教えてね」
「ちゃっかりした女神様だなぁ」
「ふふふ、交渉上手といってほしいわね」
とにもかくにも、そういう話で折り合いをつけ、私は自分でもおぼつかないと分かる足取りで教室を後にし、保健室へと向かった。
途中、階段を転げ落ちて死んでしまうのではないかという恐怖に駆られた。
が、どうにかこうにか無事に一階へと辿り着き、私は保健室の扉をノックする。
「はい、どうぞー」
「失礼しまーす……」
ガラリと扉を引き、中に入る。
「はいはい、どうしたのかなー?」
と、養護の先生である女性……飯塚麻紀はいつもどおりの明るい口調で聞いてきた。
「それが、やたらと頭が痛くて……ついでに体も重苦しくって……」
「どれどれ。とりあえず、そこに座って」
「あ、はい」
促されるまま、私はパイプ椅子に腰掛けた。
「はい。一応熱測ってみてね。見た感じ、風邪の引きはじめっぽく見えるけど」
「……やっぱり、風邪ですか?」
「うーん、まぁ、時期が時期だからねぇ。最近になって急に冷え込んできてるし、先生達の中にも風邪気味の人はいたからね」
「そうなんですか……」
差し出された体温計を受け取る。
あ、これ耳に当てて検温できるやつだ。
数十秒後、ピピピと電子音が鳴った。
「はい、見せてー」
体温計を渡す。
「んー、七度二分かぁ。微熱っちゃ微熱だけど、これまた微妙な数字が出たものねぇ」
わずかに苦笑しながら、先生は体温計をケースの中に戻す。
「えーっと、頭も少し痛むんだっけ?」
「あ、はい。あと、なんか体中が重くって」
「体が重く感じるのも頭痛が出るのも、風邪の典型なんだよね。うーん……」
やや悩むような様子を見せ、先生は続けて口を開いた。
「ま、授業サボるために来たって様子じゃないし、実際に微熱ではあったけど風邪引きさんなわけだしね。少し休んでいくといいよ」
言って先生は立ち上がり、薬品棚の中をごそごそとあさり始めた。
「一応風邪薬飲んでおく? 本当は食後とかの方がいいんだけど」
「あ、それじゃ、薬だけもらっていいですか? お昼食べた後、飲みますから」
「ん、じゃあそうしよっか。ちょっと待ってね、何か入れ物用意するから」
テキパキと、先生はよく動く。
年もまだ若く、外見も素直に美人だ。
なので、仮病を使った男子生徒は先生目当てにやってくることも少なくないとか。
もっとも、すぐに見抜かれてお灸をすえられることになっているのだそうだが。
「あ、そうだ。座ってても辛かったら、ベッドがあいてるから使っていいよ。そっちの奥の方ね」
言われて見ると、保健室に備え付けられた三つのベッドのうち、すでに二つにはカーテンがかかっていた。
ということは、すでに誰かが利用しているということだろうか。
確かに、正直言ってこうして座っているだけでも体温が上がっているような感覚を覚えてしまう。
頭はボーっとしてくるし、目元が熱い。
吐き気やめまいはないけど、体が左右に揺らいで、まるでメトロノームになっているみたいだ。
「それじゃ、ちょっと横にならせてもらいます」
「うん、そうしなさいー」
よろよろとした足取りで、私はベッドに向かう。
うう、世界が、世界が回っている……。
歩く途中、一瞬だけ視界が真っ白に覆われた。
こういう現象は初めてではないが、そのとき私の体は確かに自由を失った。
「わ、と……」
足元がふらつく。
目に映る世界がぐるんと回転し、平衡感覚を狂わせた。
「と、と、と……」
よろめく足取り。
支えにして捕まるものは、手が届く範囲には見当たらない。
「ちょ、ちょっとちょっと!」
それに気付いた先生が、大慌てで駆け寄ってくる。
が、悲しいかなわずかに遅かった。
完全にバランスを失った私の体は、もつれた膝をカクンと折って、あらぬ方向へと倒れていく。
まずい。
瞬間的にそう思って、むやみやたらに手を伸ばした。
しかし、その手は悲しくも無残に中を空振るばかり。
いくら空気を掻き分けても、そこを泳ぐことなどできはしない。
体が倒れていく。
その動きがやたらと緩慢で、まるでVTRのスロー再生をしているみたいだった。
間もなく体が崩れる。
その瞬間だった。
伸ばした手が、何かを掴んだ。
この際何でも構いはしない、とにかく掴んでしまえ。
と、そう思ったのがいけなかったのだろう。
掴んだそれは、明らかに薄い布と分かる手触りをしていた。
「え?」
ふと見れば、それはベッドを覆うように垂れる、白いカーテンの布だった。
が、時すでに遅し。
重力に引かれ、体は倒れていく。
ブチブチブチという、カーテンレールが外れる音を耳にしながら、私の体は床の上に横たわった。
「いたた……」
少し背中を打ったようだけど、それ以外は特にどうというわけではない。
「だ、大丈夫?」
倒れた私の上に降ってきたカーテンを取り去って、先生が顔を覗かせる。
「はい、何とか……」
すいませんと続けようとして、それよりも一瞬早く、私の視界にそれは入った。
「…………え?」
「お?」
「ん?」
明らかに三人分の声。
それもそのはず。
引きちぎられかけたカーテンの向こう、つまりベッドの上には。
「……お前、何してんの?」
彼が……空が、寝転がっていたのだから。
そういえばそうだった。
空は諸事情で、保健室登校をしているって、本人の口から聞かされていたじゃないか。
いや、私だって忘れていたわけじゃない……わけでもないけど、今の今までそんなことに考えが及ばなかった。
「どっかで聞いた声だとは思ったんだよな。でもまさか、そんなに都合よくいくとは思わないしさ」
「わ、私だって別に、好きで体調不良を訴えてるんじゃないもの。仕方ないでしょ」
「いや、別に悪いとは言わないけどさ。こういう偶然ってあるのな、ホントに」
「こらこらー。諸君らは一応病人扱いとされているんだから、私がいる前で堂々と雑談を始めるんじゃないのー」
とかいう先生も、コーヒーを飲みながらのんびりと小説なんかを読み始めている。
それって職務怠慢じゃないんだろうか。
ベッドに横になったまま、私は口にせず内心でそんな言葉を呟いた。
「で、どうなのよ?」
「……どうって、何が?」
「具合悪いから保健室にきたんだろ?」
「あ、うん。なんか、まだはっきりじゃないけど風邪っぽいみたい」
答えて、自分の手で自分の額を触れてみると、確かに熱を帯びているのが分かる。
加えて、保健室の中の暖房が後押しするように体を暖めてくれるので、何だか眠気までやってきてしまっていた。
「はいはい、雑談もそのくらいにね。藤杜君も、今のうちにレポートやっておかないと、あとから厳しいわよ?」
「あ、いけね。そういやそんなのあったっけ」
言われて、空はベッドの脇に置いてある自分の鞄の中から、数枚のプリントを取り出した。
「何、それ?」
「ん? ああ、俺さ、普通に授業とか受けてないじゃん? だから、こういうプリントとかレポートの提出で補ってるんだよ。一応、保健室ではあるけど登校はしてるしな」
「ふーん……」
「先生、そこのテーブル借りるよ」
「はいはい、どうぞご自由に」
備品のソファに座り込み、空は自分の課題に手をつけ始めた。
ぼんやりとその背中を見ていると、眠気が本格的にやってきてしまっていた。
「ふ、ぁ……」
「ああ、眠いなら無理しないで寝てしまったほうがいいわよ? 昼休み前には起こしてあげるから」
「はい。じゃあ、少し眠らせてもらいます」
「はい、おやすみなさい」
先生はそう告げると、静かにカーテンを閉めていった。
私は体全体をベッドの中に沈め、深く深呼吸する。
まぶたがゆっくりと落ちてくる。
目を閉じ、体の力を抜く。
徐々に眠気がやってきた。
耳に届く音は、ペンが文字を書き連ねて走る音。
多分、空がやっている課題のものだ。
その音をどこか遠い世界で聞くようにしながら、私の意識は少しずつ遠ざかっていった。
視界が暗転する。
現実との遮断。
浅いまどろみの中へ、入り込んでいく。