page7:スノウ、私、空と空
扉を押し開けると、突風が顔に吹きつけた。
「わっ……」
たまらずに目を閉じ、私は体を横に滑らせるようにして屋上の踊り場へ立つ。
静かに扉を閉める。
今日は風が強く、しかし気温はそれほど冷え込んではいなかった。
当たり前のように人影一つないこの屋上。
というか、まさか今日も扉の鍵がかかっていないとは思わなかった。
当直の先生達はちゃんとチェックしているのだろうか、不安だ。
「ナァ」
と、そんなことを考えていた私の足元に、いつの間にかあの白猫がやってきていた。
行儀よく正座をし、ことなく機嫌よさそうな眼差しで私を見上げている。
私はその場にしゃがみこんで、そっと白猫の額に触れてみる。
逃げられるかとも思ったけど、白猫は大人しく頭を撫でられ、くすぐったそうに目を閉じた。
「人懐っこいんだなぁ」
毛並みの温かさを楽しむように撫でながら、私はそんなことを呟いた。
首の下をくすぐるようにしてみると、白猫はとても嬉しそうにのどを鳴らした。
「キミは、どこからここに入ってきたのかな?」
撫でながら、ふいにそんなことを考える。
どうがんばったって、猫の力じゃこの鉄の扉を動かすことは無理だろう。
取っ手の部分にしがみつくくらいのことはやってやれないこともなさそうだけど、そこからさらに取っ手を回し、扉を引くことは到底できそうにもない。
「ニャ?」
と、私の口にした疑問に対し、白猫は小首を傾げて一言鳴いた。
「ま、答えられるわけないよね。猫だもの」
「ニャ」
うん、と、素直に返事をされているようだった。
けど、だとしたらどういうことなのだろうか。
何度も言うようだけど、猫の力だけで屋上と校舎の中を出入りできるとは思えない。
とはいえ、こんなところに最初から猫が一匹迷い込んだとも考えにくい。
誰かが連れてきた。
そう考えるのが普通だろう。
では、誰が?
何のために?
「んー……」
白猫を抱き上げて、ぼんやりと空を眺めながら私は考える。
「ニャ?」
何を考えているの?
そんな声で話しかけるように、腕の中の白猫は不思議そうに鳴いた。
いや、一応私にも、思い当たる節が全くないってわけじゃないんだけど。
ただ、それを確認するにしたって、当の本人が今この場にいないわけでして……。
「キミ、昨日の人の猫なの?」
仕方なく、返ってこない答えを知りながら、私は猫に話しかける。
「ナァー……」
間延びした鳴き声。
はいとも、いいえとも、それ以外にも聞こえない……っていうか、分かるわけないじゃんか!
「はぁ……そりゃそうだよね……」
わけもなく溜め息が出た。
疲れたわけじゃないのに、ひどく落ち込んだような気分だ。
せめて、昨日ここにいたあの人がいてくれれば、もう少し色々と話を聞けたのかもしれない。
けど、いないものは仕方がない。
私は彼の名前もクラスも、何も知らないのだから。
昨日の時点で聞くことはできたかもしれないけれど、そんなことまで頭が回る余裕なんてなかった。
一応確かだと思えることは、同じ学校の生徒だということくらい。
それは征服をこの目で確認したから間違いないはずだし、そもそも他校の生徒だとしたらどうやって進入してきたか、そのことから考え始める必要があるわけで、何というかそんなことは非常に面倒くさいことこの上ない。
せめてネクタイをしてくれていれば学年くらいは分かったのだが、昨日の彼は見事にネクタイを外していた。
一年生なら青、二年生はグレー、三年生は黒のネクタイが割り当てられている。
もちろんそれは、本年度の場合の話だけれど。
一応私は、白猫を抱きかかえて屋上をぐるりと見回した。
が、やはり彼の姿は見えない。
隠れる場所さえないに等しいこの場所、見落としたということもないだろう。
それに、彼が隠れる理由があるのかどうかも怪しいところだ。
別に悪いことなどしていないのなら、隠れる必要など全くないわけで……。
「……って、そういえばここは立入禁止の場所だったんだっけ」
連日であっさりとやってこれてしまったため、全くそんな実感が沸かなかった。
いや、本当に。
「どうしようかな……」
何だか急に、目的を見失ってしまったような喪失感に捉われた。
……目的?
あれ、目的なんて、あったっけ?
そもそも、何で私は今日も、この場所にやってきたんだろう?
「…………」
自分の問いに答えが見つからない。
けど、それを自然と受け入れてしまっている自分がいることもまた事実。
何だかよく分からない。
これじゃ私は、猫の相手をするためにここにやってきたようなものじゃないか。
まぁ確かに、この猫のことが気にならなかったわけではないのだけど……。
「……何だかなぁ……」
ホント、よく分からないよ。
壁に背中を預け、視線を上に。
空はどこまでも青い。
あ、ちょっと訂正。
遠くの空は少しだけオレンジに染まってた。
やけに細長い雲が、ゆっくりと空という海の中を泳いでいる。
実にマイペースで、時間の流れなんてまるで感じさせないくらいにゆったりと。
水面に木の葉が一つ、ゆらりゆらりとたゆたうように。
焦りもせず、急ぎもせず、けれど確実に流れていく。
何かが追いかけてきてるのだろうか?
何かを追いかけているのだろうか?
聞けば答えてくれるだろうか?
……いや、無理でしょ。
そう思った、次の瞬間。
――ゴンッ!
と、そんな鈍い音がして。
「え?」
私は思わず、背中を振り返った。
しかし、そこはただの壁。
灰色のコンクリートの塊。
「いってぇー……」
「……え? えぇっ?」
驚いた。
壁が喋った。
……って、そうじゃなくてっ!
間違いなく誰かの声が聞こえた。
それもすぐ近くだ、ほとんど距離は離れていないと思う。
どこだ、そこか、いやここか?
あちこちを見回してみるものの、私の視界に人影が映りこむことはない。
そんな中で、腕の中で白猫が何やらもぞもぞと動き始めた。
「ナァー」
「わ、ちょっと……」
白猫が飛び出しそうになったので、私はもう一度しっかりと抱きかかえる。
そのとき、ふいに気付いた。
白猫は私の腕の中から、どこかを見上げていた。
少し、上の方。
つられ、私は同じその方向を見上げる。
そこにあったのは、給水塔。
この屋上へと続く扉の上に、設置のためのスペースがある。
その、隙間で。
「あー、マジ痛ぇ……」
そんな声がした。
そして次の瞬間、白猫は私の腕の中から飛び上がり、屋根の上に着地する。
「ん? 何だ、お前かよ……」
言いかけて、声の主が顔を覗かせる。
屋上の踊り場を見下ろす。
「あ」
「あ」
互いの声は同時だった。
見上げる私と見下ろす彼。
間に挟まれて座る猫。
昨日に引き続き、突拍子のない出会いはこうして繰り返された。
「いや、まさか人がいるとは……しかもアンタがいるとは、思わなかったよ」
「うん、それは私も同じだけど……」
ある意味で衝撃的な再会をしてしまった私達はだが、とりあえず今は同じ踊り場の上で言葉を交わしている。
その横では、白猫が小皿に注がれたミルクをちびちびと飲んでいた。
「えっと、さ」
「ん? 何?」
「その……何してたの? こんなところで。それにその猫、あなたの?」
「んー、まぁ、普通気になるよな、確かに」
彼は一度そこで言葉を区切り、少しだけ罰の悪そうな表情で言った。
「サボリ」
「……へ?」
あまりにあっけないその返答に、私はどこか拍子抜けしてしまう。
「なんつーか、ちょっとワケありでさ。俺、本当なら保健室登校っての? そういう扱いなんだよ」
それらしい言葉なら私も聞いたことがある。
でもそれは、極端な例えをするならイジメにあった被害者側の生徒が仕方なく取るような手段であって。
初見同然の印象だけど、彼からそんな雰囲気を感じることはなかった。
「でも、あまりにもすることがなくってさ。それでちょっと、な」
「そう、なんだ……」
まぁ、その辺の入り込んだ事情に関しては、明らかな第三者である私が土足で踏み込むことじゃないだろう。
彼には彼に事情がある。
それだけのことなのだから。
「で、その猫だけど」
「あ、うん」
「結論から言うと、別に俺の猫ってわけじゃない。俺の家で飼ってるわけでもないしな」
「じゃあ、どうしてここにいるの?」
「さぁ?」
「…………」
「俺がこうしてここに来るようになった頃から、そいつはすでに居ついてたぞ? どっかから入り込んだ野良じゃないのかな」
「でも、どうやって入り込んできたんだろ」
「それは俺もわかんねーけど……」
「ニャア」
と、話に割り込むように白猫が鳴いた。
見ると、ミルクはしっかりと飲み干している。
「エサとかは、どうしてるの?」
「ん? ああ、俺の昼飯とか、適当にあげてる。コイツ、何でも食うんだぜ」
空になった小皿を、彼は屋根の上の隅っこに隠す。
「ニャッ」
と、白猫は空腹が満たされてご機嫌なのか、じゃれるように彼の肩に飛び乗った。
「ぐあ、コイツ。危ねーからやめろっていつも言ってんだろ?」
捕まえようと伸ばす彼の手をするするとかいくぐり、白猫は器用に彼の腕の中で走り回る。
サーカスの曲芸みたいで、少し感心してしまった。
「こら、コイツめ」
「フナッ?」
とうとう首根っこを捕まえられた白猫は、観念して大人しくなる。
「よく懐いてるね」
「え? ああ、最初からこんな調子だからな。てかコイツ、きっと誰にでも分け隔てなく人懐っこい気がする」
「そうかもね」
現に私にも、警戒心ゼロだったみたいだし。
「名前とか、あるの?」
「スノウ」
彼は即答した」
「スノウ?」
「そ。白いし。だから雪って意味で。それにもうすぐ、冬真っ盛りだから」
ものすごい安直だった。
けど何かこう、そんなイメージを漂わせるような雰囲気があるような気がする。
「今ならみぞれでも可」
「……何か、ベタつきそうだけど」
「……確かに」
彼は小さく笑った。
だから私も同じように笑った。
笑われているとも知らず、白猫……スノウは小首を傾げて不思議そうな顔をしていた。
「あ、そうだ。ついでなんだけど、いいかな?」
「ん? 何?」
「えっと、いきなり失礼かもしれないんだけど」
「スリーサイズは秘密です」
「……まだ何も言ってない。ていうか、そんなの知りたくないよ」
「よかった。知りたいと言われたらこっちが困るところだった」
そして彼はまた笑う。
「えっと、それじゃ本題。同じ学校だよね?」
「俺とアンタ?」
「うん」
「そりゃそうだろう? でなきゃこんなとこで鉢合わせないだろ」
「じゃあ、何年生?」
「そっちは?」
「一年。そっちは?」
「……秘密」
「……何それ?」
「ほれ、さっき言ったじゃん? 俺ちょっとワケありだからさ。あんまそういうの、話したくないんだよ」
「あ、そっか。でも……」
「でも?」
「いや、もし先輩とかだったら、一応礼儀的にも、言葉遣いとか色々と」
「ああ、いいよ別にそんなもん」
「そんなもんって……」
「いいじゃん別に、そんなの。どうだっていいよ。たかが一年や二年人より早く生まれたとか、遅く生まれたとか。どうだっていいじゃん、そんなこと」
どうでもいいと言い切る彼。
確かに口調そのものも、本当に気にも留めないようなものだった。
けれど、不思議と納得してしまう。
重みというか何というか、そんな謎めいた力のようなものがこもっている気がした。
「じゃあ、もう一つ」
「はい、そこ」
「名前は? むしろ、こっちの方が言い辛い?」
「名前、か……」
そう答えると、彼はふと視線を逸らした。
その視線を追いかけると、空があった。
さっきより少しだけ、オレンジ色の空がこっちに近づいてきている。
もうすぐ夕暮れ。
気のせいか、少し冷え込んできたかもしれない。
「あ、言いたくなかったら別に……」
無理して言わなくてもいいよと、続けようとしたその言葉を遮って、一言。
「……空」
「……え?」
彼は呟くように言った。
今、彼が見ているもの。
その目の先にあるもの。
どこまでも青いもの。
どこまでも広いもの。
もう一つの海。
世界を包む、青いカーテン。
「――藤杜空」
透き通るような感覚。
言の葉が導く、空と空。
学校で一番空に近い場所。
学校で一番大地から遠い場所。
その、間に。
もう一つの空が、ここにいた。
「そっちは?」
「……え?」
「名前。俺だけって、不公平じゃん」
「あ、う、うん……七緒。上杉七緒……」
「七緒、か……」
一度だけ反芻して、彼はまた空を見上げた。
「何か、いい響きの名前だな」
視線を戻し、彼は小さく笑ってそう言った。
「ニャア」
その隣で、スノウが同じ声で小さく鳴いた。
……ああ、そっか。
やっと分かった。
どうして私が、今日もこの場所にやってきたのか。
スノウのことが気になったのも本当。
けどそれ以上に、私は彼の……空のことが気になっていたのかもしれない。
出会ったときの印象が強すぎて、記憶に強く焼き付けてしまったんだ。
だから、知りたかった。
そして、知ることができた。
一番知りたかったこと。
彼の名前は、いつも見上げた場所にあった。




