page6:青空、晴天、空に一番近い場所
「ふぁ……」
「あれ? どうしたのナナ、寝不足?」
「……ん、まぁ、そんなところ」
「あー、期末近いし、夜遅くまで勉強でもしてた?」
「してたり、してなかったりー……」
などと、まだ眠気の抜けない声で私はヒロの言葉に相槌を打っていた。
今はちょうど休み時間で、次の四限目さえ終わればようやく昼休みだ。
普段なら今頃くらいから空腹感を覚え始めるのだけど、今日に限って食欲は全く沸いてこない。
それどころか、夜更かしのおかげでもう眠いのなんのって。
おかしいなぁ、ベッドで横になったのはいつもどおりの時間だったはずなのに……。
いや、なかなか寝付けなかったその原因は分かっている。
気にせずに眠ってしまおうと思うたびに、そのことは頭にまとわり付いて離れなかった。
何度も寝返りを打ちながら、気が付くと机の上のそれに視線を向けている。
閉じられた一冊のノート。
例によって例のごとく、古ぼけた以外にこれといった特徴もないもの。
あえて言うなら、開いた最初のページと最後のページに、それぞれ英文と英単語が綴られているだけ。
ベッドに入る前、私はその最後のページにあった「しかし」を意味する言葉の後に、何かを書き連ねようと思った。
が、結局何も書けなかった。
三十分近くも机に向かった自分がバカみたいに思えてくる。
あんなことだったら、いっそのこと真面目に試験勉強でもやってた方が有意義に時間を使えたかもしれない。
それにしたって、どうして何も書き出すことができなかったんだろうか?
一つくらい思い浮かんできてもいいそうなもんだと思うのだけど……。
「おーい、ナナ、ナナー?」
「……え? ああ、ごめんごめん。何?」
どうやらまたぼんやりしてしまっていたようだ。
暇を持て余していたのか、ヒロは私の目の前で人差し指を向けてぐるぐると回していた。
って、私はトンボじゃないってば。
そんなこんなで、残りの休み時間を適当に雑談しているうちにチャイムが鳴った。
それを合図に、ヒロも自分の席へと戻っていく。
間もなくして、担当の教師が教室にやってきた。
とりあえず、この時間を乗り越えれば昼休みだ。
小さなあくびを噛み殺して、私は教科書を広げた。
毎日のことだが、学食を利用する生徒は大勢いるため、この時間の食堂はメチャクチャに混み合う。
券売機の前には行列が並ぶし、パンなどを販売する売店にも人波がドッと押し寄せる。
券売機の方は一応並んでいるからいいものの、売店の上に紛れ込むとこえがまた結構ひどい目に遭うわけでして。
過去に何度かそのひどさを経験している私としては、身の上の安全を考慮した上で、多少時間がかかってもいいので安全な券売機を利用することを心がけている。
今日は比較的に見れば早く並べた方だろうか、目の前に続く列もそう長いものではない。
とはいえ、前述の通り今日はあまり食欲がない。
なので、せっかく並んだにも限らず、最終的に私の手に握られたのはきつねうどんの食券が一枚だけ。
それと、食堂の隅っこに設置されてる自販機から買ってきた紙パックのジュースが一つ。
昼食というか、食事そのものの観点から見ても簡素すぎる。
誰がどう見てもそれは明らかだ。
でも、そんなこと言ったって食欲がないんだから仕方ないじゃないか。
何も食べないよりはきっといいはずだ。
一方、向かいの席に座るヒロはいつものように日替わりの定食を食べている。
値段もその辺の店と比べるとずいぶん安いし、量もそれなり。
確か料金上乗せで大盛りにもできたはずだけど、さすがに女の子が食べる量としてはこれだけでも十分だ。
「次の授業、何だったっけ?」
食事の合間を使い、ヒロが聞いてくる。
「えっと、確か数学」
「ってことは、また問題集か。ていうか、もうほとんど自習みたいなもんだよね」
「そだね。まぁ、気楽ではあるけど」
期末試験が近いこともあってか、最近の授業の大半はこれまでの復習用の課題プリントか、あるいは自習の時間として使われることも少なくない。
「まぁ、数学に関して言えば、今回はそんなに辛くもないかな。範囲もそんなに広くないし、覚える公式とかも簡単なのだったし」
「うへぇ、そうきましたか? 私は苦手科目だから必死ですよ」
「苦手科目、か。私は間違いなく古文かな……」
う、思い出しただけで頭痛がしそうだ。
昔の人に無茶言うようだけど、ただでさえ今の現代社会からは標準語が消えつつあるのに、あんな回りくどい言い回しはどうかと思う。
地方の方言でさえ、他県の人間から見ればもはや外国語に聞こえるくらいだ。
全くもって、今に生まれてよかったと思う。
ちょうど食事を終えた頃、校内放送が流れた。
その内容がヒロを呼び出すことも含まれていたので、ヒロは一足先に食堂をあとにした。
放送の内容は、生徒会の呼び出し。
ああ見えてヒロは、一応は生徒会に所属している。
バイトも忙しいだろうに、よく両立しているなぁと、たびたび私は感心させられる。
そんなわけで、私は昼休みの廊下をこれといった当てもなくぶらぶらと歩いていた。
教室に戻ってもすることはないし……まぁ、友達と喋るくらいのことはできそうだけど、何となくそんな気分じゃなかった。
で、結局此処に行き着くことになる。
図書室の扉を静かに開け、私は中に入った。
昼休みということもあってか、中にはそこそこの人がいた。
奥の方にある席では、何やらレポートのようなものの仕上げにかかっているのか、百科事典みたいな分厚い本を何冊も重ねて作業している人の姿も見える。
ネクタイの色から見ると三年生の人だろうか?
受験シーズン真っ最中なだけあって、かなり忙しそうだった。
そんな風景をよそに、私は本棚の間を行き来する。
読む本のジャンルは決まってミステリーものばかりだったが、それでももう結構な量を読破している。
が、未読の量の方が圧倒的に多い。
図書館全体の設備が大きいため、納められている本の数も相当な数だ。
さすがに図書館に比べると見劣りはするが、学校の図書室という規格ではかなりの規模だと私は思う。
見慣れた棚の中から適当に未読の一冊を取り、私は空いているテーブルの隅の席に座った。
そして早速読み始めようと、本を開きかけたその時。
何となく泳いだ視線の先に、どこかで見た人影を捉えたような気がした。
「え?」
小声で呟いて、私はすぐさま同じ場所に目を向ける。
が、そこにはもう一瞬前と同じ景色は残っていない。
なのに、その場所からなぜか目が離せない。
もちろん、その理由も分からないまま。
だったが、それはしだいにぼんやりとだがその輪郭を浮かび上がらせてきた。
一度ゆっくり、図書室全体を見回してみる。
すると、おかしなことに気が付いた。
どこの棚にも誰かしらの人影が見当たるのに、ある一ヶ所だけは全く人影がないのだ。
もちろん、そんなことはたまたまだということで簡単に説明が付く。
けど私にはそれが、単なる偶然にはどうしても思えなかった。
「…………」
気付くと私はテーブルの上に本を置きっぱなしにして、席を立っていた。
そして、その誰もいない……誰も気付かない……誰に目にも映っていないのではないだろうかというその角の本棚に向かう。
シン、と、急に人気がなくなったような気がした。
もちろんそれは気のせいで、この位置からでも多くの生徒の姿が私の目から見て取れる。
それなのに、何かおかしい。
確かな違和感を感じる。
ここだけ空気が薄いような、同じ光を浴びていないような……。
私は呆然と、目の前にある本棚を見上げた。
何てことはない、これといって不思議なところの見えない、至って普通の本棚だ。
だが、その中にある一冊の本の背表紙を見たことによって、そんな考えは吹き飛んでしまった。
「……これ、どうして……」
どうしてか、声が掠れていた。
どうしてか、前に伸ばした手の指先がわずかに震えていた。
その震える指先が、一冊の本を引き抜いた。
本のタイトルは、「空の涙」。
内容は、簡単に言ってしまえば詩集のようなもの。
そしてそれは、昨日の朝に私が自分の手でここに戻した本だった。
一冊の古びたノートが挟まっていた本だった。
だけど今、その本の中にノートはない。
それは今も、私が持っているから。
私は左右を見回す。
が、やはりそこには一つの人影さえ見当たらない。
図書室の角。
確かに目立たない位置取りではあるけれど、誰もいないなんてそんなことが……。
わずかに混乱した私は、一度手の中の本に目を落とす。
表紙はどこまでも続く青い空。
吸い込まれそうなほどに青く、広い空が映っていた。
カリカリと、教室の中にはペンの走る音が響く。
逆に言えば、それ以外の音はほとんどない。
時々友達同士で相談しているのだろうか、そんな声が届くだけ。
五限目の数学、授業は思ったとおり復習と試験対策を兼ねたプリントだった。
が、私は全然手付かずのままだった。
ペンは握っているだけで、紙の上を走ることはない。
頭が全然働いてなかった。
出そうな溜め息を押し殺すたびに、私はふいに窓の外を眺める。
空は晴れていた。
雲はまばらで、日差しも季節から見れば暖かい。
吸い込まれそうな空だった。
その空は、あの本の表紙と同じものだった。
どこまでも澄んで、どこまでも続いて、どこまでも広い。
それだけに、キリがない。
今の私の頭の中と同じだ。
考えれば考えるほど、何が何だか分からなくなっていく。
かといって、考えることをやめることもできそうにない。
まさに悪循環。
けど、不思議と嫌な感じはしない。
何かこう、ずごく自然体でいられるような感覚。
どうしてだろう?
……空のせいかな?
そうだ、きっと空のせいだ。
空がきれいだから、きっとそのせいなんだ。
だから、そうだな……。
「…………」
このとき、別に私の中に何か特別な意味や考えが浮かんでいたわけじゃない。
ただ、気が付くと私は決めていた。
放課後、学校でこの空に一番近い場所に行こう。
……屋上へ。