page5:but、しかし、続かぬ言葉
「なおー、ご飯できたよー」
「今いくー」
階下から母の声が聞こえる。
ベッドに寝転がったまま雑誌を読みふけっていた私は、緩慢な動作で部屋を出た。
グッと背伸びをすると、体の奥にある疲れがにじみ出るようだった。
心なしか、まだ七時前だという時間にもかかわらずに眠気を覚えてしまっている。
そんなに疲れるようなことをした覚えはないのだけれど……。
「ふぁ……」
椅子に座るなり、私は小さくあくびをした。
「あら、もう眠いの?」
その様子を見た母――上杉雪江は言う。
「うん、よくわかんないけど、眠い」
若いのに何言ってるのとか言いながら、母は半笑いでテーブルの上に料理を並べ立てていく。
そんなこと言われたって、眠いものは眠いのだから仕方ないじゃないかと私は思う。
口には出さず、私と母は揃って食卓に座り、静かに食事を始めた。
相変わらずなので、今更口にはしないが、母の料理はおいしい。
正確に言えば私の口によく合う、ということだろうか。
基本的に食事中にあまり喋ることは少ないのだけど、今日は母から口を開いた。
「そういえば、もうすぐ期末試験だったわよね?」
「う……」
ピタリと、私の箸が動きを止める。
触れてほしくない話題候補ナンバーワンだった。
「そ、そうだっけ?」
必死にごまかす。
ムダだと分かっていても、できることなら逸らしたい。
「ごまかすんじゃないの。ま、別にとやかく言うつもりはないんだけど……」
いや、もう言ってるじゃない。
と、口には出さずに心中で呟いておく。
「冗談でも、追試なんてことだけはないように」
「……善処、します」
「よろしい」
結局先に釘を刺されてしまった。
まぁ、多分大丈夫……だとは思う。
自分で自分を評価するのはおかいしけど、単純な成績で見れば私は本当に平均的だ。
取り立てて秀でている科目もないけど、その逆もない。
上中下で言えば、間違いなく中の中。
優等生でなければ、かといって劣等生でもない。
もっとも、私はそれで満足しているつもりだ。
確かに、人より多く勉強すれば試験の結果という形ではよいものを残すことができるだろう。
それはきっと、努力という言葉で表現されるものだ。
勘違いしないでほしいのは、私が決して努力することに対して面倒くささとかを感じているわけではないということ。
必要なことなら結果を残すために努力もするし、悪い方向に進まないように気をつけもする。
けれど、私はその結果として優れたものを残すべきだという考えには至れない。
目立ちたくない。
そういう言葉を使うと、それは周囲に対する自慢のようにも聞こえてしまうかもしれない。
やればできる。
けど、あえてやらない。
そういう意味じゃない。
要するに私は、どんなことに対しても普通であるようにしているのだ。
そうすれば、いい意味でも悪い意味でも必要以上に自分をさらけ出すことがなくなるから。
それはきっと、楽な生き方なのかもしれない。
けど反面、すごく不器用な生き方でしかないのかもしれない。
いつの頃からこんな自分を作っていたのかは、もう自分でもよく覚えていない。
ある日ふと気が付くと、私はそういう居場所、立場にいた。
それからはそれが私の中の当たり前になって、特別な努力をしなくてもその当たり前は私についてきた。
いや、無意識のうちに私がそうあろうと、自分でも気付かないどこかで努力をしていたのかもしれない。
まぁ、この際それはどちらでもいいことだ。
大切なのは、私が今の私を見失わないこと。
変わらないままの自分でいることは、難しいことだとは思う。
かといって、全ての変化を拒絶し続けるわけにもいかない。
きっとどこかで、受け入れざるを得ない状況が迫ることもあるだろう。
そのときはそのときだ。
とまぁ、今からそんな途方もない未来を案じたところで、所詮は未定のこと。
来年のことを言うと鬼が笑うと言うけれど、こんなことを母に話したら鬼よりも大笑いされるに決まっている。
それはもう、近所迷惑確定の大声で。
「そりゃ、言えるわけないよね……」
「ん? 何か言った?」
「べ、別に。ごちそうさまっ」
一足早く夕食を食べ終え、食器を重ねて流し台に運ぶ。
「ああ、そこに置いておいていいわよ」
言われるまでもなく、私は食器を置いて階段を駆け上る。
「何、もう寝るの? 牛になるわよー?」
そんな私の背中を見送りながら、母が声をかける。
「追試が怖いので、少しは勉学に励みますよお母様」
と、私は少しだけ嫌味な口調で言葉を返しておく。
とは言ったものの……。
「はぁ……」
机に向かったはいいが、手にしたシャーペンも文字や数字を書くことはなく、手持ち無沙汰のままくるくると宙を泳いでいた。
とりあえず、広げたテキストは数学の問題集。
試験範囲の部分のほとんどは自分で添削まで済ませてあるが、ところどころ飛ばした問題も少なくない。
穴埋めの意味も兼ねてそれをやっておこうと思ったのだが、いざとなると何だか気分は上の空になっていた。
別の楽しくもないのに、机に並べ立ててある広辞苑とにらめっこしたり、ぼんやりと天井を眺めたり。
身が入らないとは、こういうことを言うのだろう。
そんなとき、頭の中に浮かんでくるのは全く別のことだった。
「…………」
私は鞄の中から、それを取り出す。
一冊の古びたノート。
結局、今日はこのノートを元あったその場所に戻してくることはできなかった。
機会そのものはいくらでもあった。
ただ、私が手放せなかっただけ。
もちろん、理由は分からない。
ただ何となく、手放すことにためらいを覚えてしまって……。
気が付けばまた、こうしてその変わらないページをパラパラと捲っている。
何度見たところで、何も変わらない。
表紙を捲った最初のページ、その片隅に、誰かの寂しい独り言のような一言。
――we can not fly
ただ、それだけ。
私達は飛ぶことができない。
何度も何度も直訳する。
頭の中で繰り返し、暗証するように繰り返す。
でも、やはりそれだけ。
特別な意味は何もなく、かといって深く追求するほどのものもない。
けれど、どうしてか、私の中にある何かを掴んで離そうとしない言葉。
「なんなんだろ、ホントに……」
ポツリと呟き、またパラパラとページを捲っていく。
色褪せただけで、何も書かれていない白紙のページが延々と続く。
ところどころ端の辺りが傷んで破れ、乱暴に扱えばすぐにでも崩れ去ってしまいそうだ。
そして最後のページ。
やはり何もない。
最後に背表紙を摘み上げ、ノートを閉じる。
……その、刹那。
「あれ?」
私はそれに気付いた。
最初はただの汚れか何かかと思っていたけれど、それは注意深く見てみると、しっかり文字だと分かった。
最後のページの片隅。
薄くなって読み取るのも難しかったが、何とか読むことができる。
そしてそれは、最初のページにあったあの英文よりもずっと簡単で。
しかし、底に続く何かを連想させる言葉だった。
しかし。
そう、まさにそれだった。
しかしという意味を表す、英単語。
――but,
その一言だけが、忘れ去られたように書き残されていた。
その先に続く言葉は、どこにも見当たらない。
しかし。
しかし、何だというのだろう?
これは接続詞だ。
ならば、その後に続く言葉がなくては文章としては成り立たないはず。
だが現実として、そこに続く言葉はどこにもない。
書き損じなのか、それとも何か別の理由があったのか。
分からない。
けれど、もしかしたら……。
「……これ、繋がってる、のかな……?」
繋がっているとは即ち、最初のページの英文と、という意味でだ。
つまり……。
――we can not fly.but,――――
こんな形で、文章は続くはずだったのではないだろうか?
私達は飛ぶことができない。
しかし。
……この後に、続く何かがあったのだろうか?
私達は飛べないけれど……といった具合で。
「何て、書こうとしたんだろ?」
まだそうと決まったわけではない。
これは全部、私の勝手な憶測だ。
なのになぜか、私はそうであることを願っていた。
この後に、何かしらの言葉が続いてほしいと、そう思っていた。
……何となく、そうあってほしかった。
だって、このままじゃあまりにも悲しい文章じゃないか。
私達は飛ぶことができない。
多分、この先何十年何百年経っても、それは変わることがない現実だろう。
機械の力を借りれば、いくらでも可能だろう。
けど、人間だけの力じゃどうやっても空は飛べない。
そう、飛べない。
けど、だけど。
……そこに続く言葉が、きっとあるはずだ。
このノートの持ち主は、その言葉を見つけ出せなかったのだろうか?
あるいは、見つけ出してあえて、書かずに終えたのだろうか?
……やっぱり、私にはそこまでは分からない。
じゃあ、私ならどうする?
どう、続きを書く?
「……私は……」
ペンを握る。
芯を押し出し、ペン先をノートに当てた。