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page4:出会い、別れ、扉の向こう


 風が冷たい。

 どれだけの時間、私はそこに立ち尽くしていたのだろうか。

 長くもなく短くもない、けれど時が凍りついたように感じた瞬間。

 私が立つ屋上の地面の上には、私の影が伸びていた。

 その伸びた影の先に、彼は立っていた。

 見慣れた服装……それはうちの学校の指定の制服だ。

 紺のブレザーとグレーのズボン、白いワイシャツに青いネクタイ。

 が、彼の場合、ネクタイは外しているし、ワイシャツのボタンも首元のいくつかが外されていた。

 一見して、少し不良っぽい印象の服装。

 夕焼けに照らされて目立たないが、茶色に染まった髪の色もその雰囲気を後押ししている。

 ただ一つ場違いなほどに似合わないのは、その彼の足元にしっかりと寄り添って尻尾を振る、白猫の姿だった。

 もう一度風が吹く。

 私と彼、それぞれの髪が横に揺れた。

「……あ」

 と、ふいに私はそんな言葉を口にした。

 直後、しまったと思う。

 特に話し掛ける言葉も持ち合わせていないのに、何を思って口を開いたのだろうか。

 後悔しても時はすでに遅い。

 その証拠に、彼は何だろうという表情で私を見返してきている。

 表情そのものに怖さや鋭さのようなものこそないものの、私からすれば嫌な空気だ。

「……あー、えっと……」

 適当な言葉を並べ立てて、それらしいもっともな言葉を探す。

 どこだ、ここか、そこでもない、ああ、どこだもう。


「え、っと…………そ、その猫、さ」

「ん?」

 そう話しかけると、彼は少しだけ驚いたような表情をして、足元に寄り添っている白猫に指差した。

「君の、猫なの? その、ずいぶんと懐いてるみたいだから……」

「……いや、別にそういうわけじゃないけどさ。まぁ、懐いてるのは確かかも。手なずけたわけじゃないけど」

「そ、そうなんだ……」

「…………」

「…………」

 はい、会話終了。

 ……って、何やってんだ私!

 これじゃ丸っきりこっちが怪しい人じゃないか!

 ああでもない、しかしこうでもない……。

 と、私は内心で一人身もだえするような問答を繰り返す。

 別に猫がどうこうというのを聞きたかったわけじゃないのだけれど……。

「あのさ」

「え、あ、はいっ。何でしょう!」

 声がうわずる。

 うわ、何だか私、すごくバカみたいだ……。

 そんな調子の私に、しかし彼はいたって普通に聞いてきた。

「俺がこういうのもなんだけど、こんなとこで何してんの?」

「あ……いや、それはその……別に、深い意味はないんだけど……」

 うう、なんだろうこの空気は。

 何も悪いことしてないのに(実際は屋上に無断で立ち入っているわけだけど)、尋問みたいだ。

「……えっと、昼休みにもここにきたんだけど、そのときに、その猫を見かけて。それで、ちょっと気になって……」

 私が彼の足元の猫を指差すと、彼が視線を猫へと移す。

「ニャア」

 と、白猫はまるで私の言葉を肯定するかのような鳴き声で答えた。

「ふぅん。まぁそれなら別にいいけど……ていうか、俺がどうこういえる立場じゃないし」

 そう言うと、彼は足元の猫の首根っこをむんずと掴み、軽々と摘み上げた。

「フナァ」

 と、何だかちょっとだけ嫌がってそうな鳴き声を白猫は漏らす。

 摘み上げた白猫を彼が自分の腕に抱えると、白猫は大人しくそのまま抱かれていた。


「いや、俺はてっきりさ、変な方向に考えちまったから」

「変な、方向?」

 それは一体どういう意味だろう。

「何ていうか、すげー偏見なんだけど。放課後、人気のない屋上で、思いつめたような目で地上を見下ろす生徒。こうなるともうさ、俺のイメージの中では自殺に決定なんだよな」

「じ、自殺っ? いや、私そんなことしないからっ!」

 大慌てで訂正する。

 とんでもない勘違いをされていたものだと、私は急に恐ろしくなった。

 彼ではなく、そうするように見えていた自分の言動が、だ。

「分かってるよ。とりあえず、アンタはそういうヤツじゃなさそうだし。こっちも目の前で自殺なんかされちゃたまったもんじゃない」

「……その、そんな風に見えた? 自分ではそんなつもりはこれっぽっちもなかったんだけど」

「んー……まぁ、何となくそんな風に見えたんだよな、俺には。いいじゃん、そうじゃなかったんだから」

「うん、まぁ、確かに……」

 妙な誤解をもたれたようだが、それはもう誤解だったと理解してもらえてはいるようだ。

 ……それにしても、なんだろう。

 彼と話していると、何だか自分のペースが乱されるというか……いや、逆だ。

 彼のペースに引きずり込まれていくような、そんな錯覚さえ覚えそうになる。

 いや、決して悪い意味ではなく。

 そういえば、今更だけどどこかで会ったような気が……あるような、ないような、そうでもないようで……やっぱりないような……。

「まぁ、もしも万が一だけど」

 と、私の考え事を中断させるように彼は続ける。

「万が一、本当にアンタがここから飛び降りようとしてたら」

「……飛び降りようと、してたら?」

 なぜか緊張した。

 空気の塊を一つ飲み込む。

 ゴクンと、自分の中に大きな音が響いた。


 「――俺も一緒に、飛び降りてたかも」


「な……ええっ?」

「……なんちゃって」

「は……じょ、冗談にしては笑えないってば……」

「ああ、悪い悪い」

 と、彼は軽い調子で笑いながら答える。

 はぁと溜め息を吐き出し、ようやく私の緊張は収まった。

 何だろう、急に疲れた気がする。

「じゃあ、冗談抜きで」

「え?」

「本当に飛び降りるような素振りだったら、殴ってでも止めたよ。それが初対面で、女相手でもな」

 そう言った彼は、どこかこう……うまく言い表せないけど、悲しそうな顔をしていたように、私の目には映った。

 どうしてそんな印象を受けたのかなんて、私にもよく分からない。

 ただ、顔では小さく笑ってこそいるものの、その笑みが本当はここにはないんじゃないかとか、そんなおかしなことさえ考え出してしまいそうで……。

 少しだけ、ほんの、少しだけだけど……怖くなった。

「ま、おかげで殴らずに済んだわけだし。あ、ここは礼を言う場面?」

「え? いや、私に言われても困る……」

「そりゃそうだ」

 そう言って、彼は笑った。

 見た目から受けた印象よりも、どこか幼さを感じられるくらい無邪気だった。

 いつの間にか、私も小さく笑っていた。

 何がおかしいのか、もう全然分からない。

 だから笑うのかもしれない。

「ニャ?」

 白猫だけが、彼の腕の中で取り残されたように、そんな風に小首を傾げていた。


 私が家路についたのは、それから間もなくしてのことだった。

 五時を告げるチャイムが鳴り響き、それを合図にするかのように私は屋上で彼と白猫と別れた。

「俺はもう少し、ここにいるよ」

 別れ際に彼が言い残したその言葉が、どこか意味ありげだった。

 ともあれ、日も暮れて風も冷たくなってきたので、私は帰る事にした。

 特に別れの挨拶もなく、静かに扉を開け、校舎の中に戻る。

 カチャン。

 錆付いた扉が閉じる。

 校舎の中、特に廊下や階段などは冷え込んではいたが、外気に比べればいくらかはマシだった。

 しばらく扉の前の踊り場でぼんやりとしている私の耳には、五階の音楽室から聞こえてくる吹奏楽部のメロディが聞こえた。

 曲名を知らないその曲を、ちょうどワンコーラスほど聞き流して、私はようやく階段を下り始める。

 カツカツと、一人分の足音だけがこだまする。

 部活以外に校舎の中に残っている生徒の数も、この時間になればまばらなのだろう。

 誰一人とすれ違うことなく、私は昇降口へとやってくる。

 そこにも人気はなく、少し離れたグラウンドからは運動部の威勢のいい声が聞こえていた。

 靴を履き変え、外に出る。

 途端に冷たい風が、私の全身を打ちつけるように吹き抜けた。

「っ、寒……」

 鞄の中からマフラーと手袋を引っ張り出し、体に巻きつけていく。

 お構いなしに吹く風を鬱陶しく思いながら、私は夕暮れ色の道の上を歩き始めた。

 さっきまで背中を歩いていた私の影は、いつの間にか私の前を歩いていた。

 その背丈もずいぶんと縮んでしまっている。

 吐き出す息は真っ白なのに、影は全然寒そうには見えなかった。


「早く帰ろう。これじゃ風邪引いちゃうよ……」

 呟き、歩調を速める。

 そのとき、ふいに一度だけ何かに引き寄せられるような感覚で、私はその場に立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。

 視点をはるか上に。

 そこには、さっきまでいた屋上の一角が見て取れた。

 網目のフェンス。

 その向こうに、さっきまで話していた彼の姿はもう見えない。

 いや、見えないだけでまだそこにいるのかもしれないのだが。

「何だったのかな、結局」

 本当に何だったんだろう?

 こんなところで何してるんだと、彼は聞いた。

 それを聞きたかったのは、私だって同じだったはずなのに。

 いつしか、そのことをすっかり忘れてしまっていた。

 だからだろうか。

 今頃になって、振り返って思う。

 彼は一体、どうしてあんなところにいたのだろう?

「……今度、聞いてみようかな」

 そんなことを思った。

 別に、気にしないでいいようなもののはずなのに。

 向き直り、私は再び歩き出す。

 遠くの空で、沈みかけの夕陽が見える。

 冬の夕方はすぐに終わる。

 間もなく、辺りは真っ暗になってしまうだろう。

 緩やかな坂道を下りながら、そんなことを思う。


「あ」

 そしてまたふと、唐突に思い出す。

「そういえば名前とか学年とか、何も聞いてなかったし、聞かれなかったっけ……」

 制服は間違いなくうちの高校のものだから、他校の生徒ということはないだろう。

 だが、学年やクラスまでは分からない。

 そんなことを聞くまで、頭が回っていなかったというのも事実だ。

「……ま、いっか」

 不思議と、何の根拠もなしに、また近いうちに会うことになる。

 そんな気がした。

 あの、錆付いた鉄の扉の向こう側で、一匹の白猫と一緒に。



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