page3:屋上、白猫、夕暮れ時
ゆらり、ゆらり。
水面に浮かぶ笹の船が進むように、揺り籠の中の赤ん坊が静かに寝息を立てるように。
私の意識も静かに揺れる。
暖かさを覚える日差し。
そっと撫でるように吹く、優しい風。
まるで春の陽だまりの中、木陰でうとうとと居眠りをしてしまっているかのよう。
気持ちがいい。
鼻腔をくすぐるような仄かに甘い香り。
ずっとこのまどろみの中に、置き去りにされてもいいくらいだ。
本当に、まるで夢のよう。
……ん?
夢……夢?
そう、もちろんこれは夢だった。
夢の始まり……即ち、眠りについたときのことは覚えていないけれど、夢には必ず終わりが付きまとう。
多分、今がその瞬間。
霧が晴れる。
視界が開く。
「……あ、れ?」
目を覚ますと、その先には青い空が広がっていた。
次いで、体に吹き付ける肌寒い風に思わず身震いする。
「……、寒っ」
それもそのはずだ。
ここは校舎の屋上。
本来なら一般の生徒には立ち入り禁止に指定されている場所。
普段なら当たり前のように、校舎内から屋上へと続くその扉には施錠がされている……はずだった。
が、どういうわけか、今日に限って握ったドアノブはすんなりと回転し、ゆっくりと押すことで錆付いた金属音の悲鳴をわずかに漏らしながら開いた。
今はまだ昼休み……のはずだと思う。
何事もなく午前中の授業を終え、いつものようにヒロと一緒に学食へ昼食を食べに行こうとした、その矢先のことだった。
急な気分の悪さ……腹痛や頭痛ではなく、吐き気に近いものを覚えた私は、ヒロに断りを入れてひとまず保健室に向かうことにした。
今にも吐き出しそうなほどの気持ち悪さではなかったけど、とてもじゃないが食欲が沸くものじゃない。
廊下を引き返し、私は一階に向かうべくして階段へとやってくる。
保健室は一階だ。
だから私は、そのまま階段を下っていけばいいはずだ。
……はずだった。
が、どういうわけか私は、その階段の踊り場で言葉ではうまく言い表すことのできない不思議な感覚を覚えた。
「…………」
気持ち悪さを忘れ、ぼんやりと立ち尽くす。
そんな私の左右を、多くの生徒が食堂へと向かうために行き来する。
大勢の足音。
昼休みの喧騒。
それらが、まるで全て遠くの世界の物音に聞こえる。
いや、私だけが皆のいる場所から切り取られて隔離されているかのよう。
そして私は、無意識……いや、もしかしたら半分ほどは意識が残っていただろうか。
とにかく、自分の意思で行動したとは言いがたいその状態で、目の前の階段を上っていた。
その途中も、上の階からやってくる上級生などが何人も私の横を通り過ぎる。
急ぎ足で階段を下る足音も、知らない誰かの笑い声もしっかりと耳に入っていた。
それらを全て、強制的にシャットアウト。
私の日常から、音という音がかき消される。
もはや、階段を上る自分の足音すら音として認識されない。
ただ、足が動くままに。
機械のように、足を動かす。
一段、また一段と階段を上る。
三階を通過し、四階、そして五階へ。
五階には美術室や音楽室、それらの機材を置くために準備室や、視聴覚室や放送室などの設備がある。
学校という一つの組織の中で、この階までの設備で一般的な授業に必要な設備は全て整っている。
だから普段から、ほとんどの生徒が五階より上に向かうことはない。
向かう必要性が何もないからだ。
……しかし、それでも。
階段は続く。
生徒の立ち入りを禁止すると書かれた立て札は置かれているが、それは実に粗末なものでしかない。
鉄格子が備え付けられているわけでもなければ、有刺鉄線が張り巡らせているわけでもない。
当たり前だ、そんなものを一般の学校に設置しようものなら、それだけで大問題なのだから。
だからその立て札は、あくまでも生徒に警告を促す程度の役割しか果たすことができず。
恐らく学校側としても、そのつもりで設置したものなのだろう。
だが、効果のほどは分からない。
実際、こんな立て札一つじゃ何の抑制にもならない気もする。
事実として、こうして私は立て札の隙間を簡単にかいくぐって階段を上ることができるのだから。
そして私は、最後の階段を上り終える。
目の前は行き止まり。
小さな踊り場としてのスペースこそあるものの、それだけだ。
それ以外にあるのは、ただ一つ。
ところどころに錆付が見れる、一枚の鉄の扉。
何の感慨も沸かない。
まぁ、それが普通の反応なのだろうけど。
と、そこでようやく私の意識は現実に戻る。
「……あれ、私、何で……」
こんなところにいるんだろうと、私は周囲を見回した。
するとどうだ、目の前には扉、背後には階段しかない、狭い踊り場に立ち尽くしているではないか。
おかしい。
確か私は、気分が悪くて保健室に向かっていたはずなのに……。
「…………」
が、今になってみると、さきほどまでの吐き気はどこへいったのだろうか、妙にすっきりした気分になっている。
ますますこんなところにいる自分にわけが分からない。
「何やってんだろ、私……」
そう呟いて、私は目の前の扉に背を向けて階段を下りはじめる。
その、最初の一歩を踏み出したその瞬間。
「……?」
誰かに呼び止められるような、見えない手で肩に触れられるような、そんな曖昧な感覚を覚えた。
振り返るが、当然そこには誰もいない。
普通ならその出来事に少なからず不気味さや恐怖を覚えそうなものだが、このときの私は自分でも怖いくらいに落ち着いていた。
何だったんだろう?
そう思うより前に、確信していた。
いる。
誰かが、いる。
どこに?
……向こうに。
この、錆付いた鉄の扉の向こう側に。
「…………」
恐怖はなかった。
本当に自然と、体が動いていたと思う。
踏み出した足を、もう一度引き返す。
目の前には鉄の扉。
屋上は立ち入り禁止。
それは今までにも何度か聞かされていた話だった。
そんな場所なのだから、普段から施錠されているのは当たり前のはず。
仮にこの場所までやってきたところで、扉が開かないのでは意味がない。
そうだ、そうに決まっている。
手を伸ばす。
銀色のドアノブに触れ、握る。
氷のようた冷たさが、指先を伝って全身を駆け抜けた。
握ったその手に、わずかに力を込めた。
回るはずがない。
なぜなら、鍵がかかっているのだから。
回るはずがない。
回るはずが……。
カチャリ、と。
「……っ!」
思惑とは逆に、あっさりとその扉は開いた。
ドアノブを握ったまま、手が硬直する。
寒さでも怖さでもない、もっと別の何かが動きを止めた。
が、それも一瞬。
今度は扉を、静かに押す。
キィと音を立て、鉄の扉が押し開かれる。
少しずつ、少しずつ。
隙間が広がり、外の光が流れ込む。
そして、扉は開かれた。
そこに…………。
「じゃあねナナ、また明日」
「あ、うん。またね」
放課後、ホームルームも終わり、多くの生徒は下校か部活のどちらかに急ぐ。
仲のいいクラスメートに声をかけ、また一人教室の中から姿を消していく。
「ナナー、帰るよー」
と、背中からヒロの声が聞こえた。
見ると、ヒロはすでにコートを羽織りマフラーを巻き、帰宅の準備を終えている様子だ。
「あ、うん」
返事をし、私もロッカーからコートやらを引っ張り出して着込んでいく。
が、頭では全く別のことを考えていた。
数時間経った今でも、その光景は焼きついて離れないまま。
このもやもやした感覚を引きずっていくのは、どうしてだかがまんできなかった。
「……ごめん、ヒロ。私ちょっと、図書室に寄っていこうと思うんだ」
「ん、そうなの? 相変わらずの本の虫だね」
「うん、まぁね。ヒロは今日もバイトでしょ?」
「そ。だからごめん。ちょっと今日は付き合えないかも」
「分かってる。だから、今日は先に帰ってて。ごめんね」
「了解了解。じゃ、また明日だねー」
そう言って、ヒロは小走りに教室をあとにしていく。
去り際に互いに小さく手を振って、私はヒロの背中が見えなくなったところでマフラーを首に巻いた。
「……やっぱ、確かめないとね」
鞄を手にし、私も教室をあとにする。
廊下にはすでに、窓越しに差し込む夕陽のオレンジが続いていた。
自分の背丈よりも一回り大きな影が、付かず離れず付いてくる。
そして私は、図書室へは向かわず、真っ直ぐに階段を上り始めた。
三階、四階を通過して五階へ。
廊下に立つと、少し離れた場所から楽器の演奏が聞こえてきた。
多分、吹奏楽部が音楽室で部活をしているからだろう。
放送部、美術部、吹奏楽部は五階の各教室で活動するのが基本だが、ほとんどが教室の中から出てくることはない。
なので、部活が行われている今の時間帯でも、廊下そのものは人気もなく静かなものだ。
私はそのまま、昼休みのときと同じように立ち入り禁止の立て札をすり抜けて、更に続く階段を上る。
「…………」
そして一度、扉の前で立ち止まる。
ほんの少しだけ、緊張が走る。
昼休みのことを思い出せば、それも無理もない話だった。
あのときこの扉を押し開けて、その先で私が見たもの。
それは最初、空だった。
開けた屋上の地面の上、学校の中で空に一番近いこの場所。
しかしそこには、誰の姿も見当たらなかった。
考えてみればそれはものすごく当たり前のことだった。
なぜなら、ここはもとより立ち入り禁止の場所なのだから。
そんなところに誰かいる方がおかしいというものだろう。
冷たいか風が時折吹くだけのその場所で、それでも私は少しの間立ち尽くした。
けど、やはり何もない。
誰の姿も見当たらないし、目に付いた何かがあったわけでもない。
だから私は、勘違いだったのだと自分に言い聞かせた。
扉の前で感じたあの何かは、気のせいだったのだと。
そうして踵を返し、校舎の中に戻ろうとした、そのときだった。
屋上にある給水塔の隅っこに、何かが見えた。
それは、トコトコとそんな足音を思わせる足取りで、私の前に顔を出した。
「ニャア」
猫だった。
一匹の真っ白な猫が、小さく鳴いた。
が、ちょうどそこでタイムアップだった。
校舎全体に予鈴が鳴り響く。
私がその音に気を取られ、わずかに視線を逸らした次の瞬間には、その真っ白な猫の姿はいずこへと消えていた。
気にならなかったといえば嘘になる。
けど、午後の授業に遅れるわけにもいかず、私はそのままその場をあとにしたのだ。
あれからおよそ四時間ほどが経過した今。
見間違いでなければ、あの白猫は今もまだこの先にいるはず。
どんなにがんばっても、猫一匹の力じゃこの鉄の扉は開けられないだろう。
いや、そもそも何で屋上なんかに白猫がいるんだろう?
……まぁ、それも含めて、もう一度確かめるためにこうしてやってきたのだ。
深呼吸を一つして、私はドアノブを握り、ためらうことなく扉を押し開けた。
広がり、見えるのはまたもや空。
ただし、オレンジがかかった鮮やかな夕焼け色。
遠くの空では、もう紺色の夜空が夕焼けと混ざり始めている。
毎日のように見ることのできるその景色も、高い場所から見るとまた一つ違った感慨を与えてくれる。
と、見とれることをやめて、私は昼休みに見つけたあの白猫の姿を探し始める。
屋上の敷地はさほど広くもなく、隠れるような場所も限られている。
が、白猫の姿はどこにも見当たらない。
給水塔の下の隙間も、物陰も全部探したのに見つからない。
逃げてしまったとは考えにくい。
とすると、やはり昼休みに見たあれは単なる見間違いだったのだろうか。
その可能性もあるだけに、あながち否定できないのもまた事実だった。
「はぁ……」
何かに疲れたように、私は屋上のフェンス越しに下を見る。
グラウンドではサッカー部や野球部、陸上部の面々が練習に明け暮れていた。
校門の近くには、下校途中の生徒の姿も多く見受けられる。
当たり前の、他愛もない風景。
だけど、こうして眺めるのは初めてかもしれない。
「……五階って、こんなに高かったんだ……」
思わず、私は呟いた。
下をジッと見ていると、足が竦みそうになる。
いくらフェンスがあるとはいえ、万が一落下したら確実に死んでしまうのではないだろうか。
……当たり前か。
人間は鳥じゃないんだ。
空を自由の飛ぶための翼や羽根があるわけじゃないんだから。
――we can not fly
「……え?」
ふいに、その言葉が頭をよぎった。
まるで、すぐ隣で誰かが呟いたかのように響く声。
もちろん、そこには誰もいない。
私を見ているものがいるとすれば、それは頭上に広がる空くらいのものだろうか。
「……ソラの、コエ……?」
ふいに呟く。
その呟きを、風がどこかへと運んでしまう。
そして、代わりにもう一つ、運んできた。
「ニャア」
そんな、猫の鳴き声を。
「あ……」
振り返ると、そこに昼間見た白猫が行儀よくちょこんと正座していた。
その目は真っ直ぐに私を見ている。
いや、私の先にある、空を見ている。
つられ、私は再び遠くの空を見た。
夕焼け。
二羽のカラスが、呑気に飛んでいる。
そして、聞こえた。
ソラのコエ。
「――そうやってると、何か面白いものでも見えるのか?」
もう一度、私は振り返る。
そこに……。
白猫が彼の足元に寄り添う。
一人の少年が、立っていた。