page27:気持ち、変化、生きること
目が覚めるとそこは、ただ真っ白なだけの変わらぬ病室だった。
夜明けが近いせいだろうか、カーテン越しにうっすらとだが朝日が差し込んでいる。
それでもまだどこか薄暗いままの室内。
起床時間まではまだもう少しの間がありそうだ。
「…………」
空はただ、ぼんやりと天井を眺めていた。
そしてふと思う。
全部、夢だったんだろうか?
真夜中、スノウの鳴き声で起き、その姿を追って屋上へ行ったこと。
そしてそこで、真っ白な少年に出会ったこと。
そこで彼が教えてくれた、あらゆる全てのことが、もしかしたら……全部、夢だったんじゃないだろうか?
「……違う、よな……」
虚空に向けて呟く。
「夢なんかじゃ、ないよな……絶対に……」
だって、こんなにも胸は軽い。
気持ちのいい朝を迎えたのは、ずいぶんと久しぶりな気がする。
でも、今はまだ少しだけ。
残るまどろみの中で、眠らせてほしい。
空は静かに目を閉じ、再び浅い眠りの中へと落ちていった。
「ふぅ、ようやく終わった……」
午前中の検査を終え、私はようやく堅苦しい空気から開放された。
どうして検査というものは、こうも体中に疲れがたまってしまうのだろう。
入院しているのにこれでは、元も子もないような気がするのだが……。
「あら、七緒ちゃん」
「あ、近藤さん。こんにちは」
自分の病室へ戻る途中、廊下で近藤さんに出会った。
「今検査が終わったところ?」
「はい。もう、何か逆に疲れちゃって。眠たいくらいです」
「気持ちは分かるわ。でも、そういうものだからね」
そういうものなんだそうだ。
「でも、順調ならもうすぐ無事に退院できるんじゃないかな?」
「あ、先生にもそれらしいこと言われました。次の検査で異常がなければ、問題ないだろうって」
「そう。なら良かったじゃない。入院生活なんて、退屈なことばかりでしょう」
「まぁ、お世辞にも楽しいとは言えませんよね」
そんな言葉を交わしながら、私達は小さく笑い合った。
「それじゃ、私はまだ仕事があるから。またあとで」
「あ、はい。私も部屋に戻って、少し横になってきます」
「お大事にね」
「はい」
そう言い残し、近藤さんはナースステーションへと去っていった。
さて、私も早く病室に戻ろう。
お昼を間近に控えた病院の廊下には、昼食を乗せた配膳台が設置されていた。
入院患者の多くも出歩くことはあまりなく、それぞれが室内でテレビを見たりラジオや音楽を聴いたり、本を読んだりなどして過ごしているようだった。
真冬で気温が低いこともあって、暖房が効いているといっても廊下はやはり肌寒い。
立場上、衣服はいつもパジャマのような薄手の格好なので、それもひとしおだ。
かくいう私も、上着こそ羽織ってはいるものの、もともと寒いのは大の苦手である。
「うー、寒い寒い……。温かいコーヒーでも買っていこうかな……」
一応、そのくらいなら口にしても大丈夫とは言われている。
けど、眠い上からコーヒーなんて飲んだら眠気はどうなってしまうのだろう?
などと、実にどうでもいいくだらない疑問を浮かべつつも、私は自販機でホットの缶コーヒーを一本買い、それをカイロ代わりに手の中で転がしながら病室へと戻ってきた。
そして、扉を開けるその前に。
「……」
ふと、隣の病室の閉め切られた扉に目が向かう。
そこは、空の病室だった。
今はシンと静まり返り、物音や話し声は何一つ聞こえない。
眠ったままなのか、それとも検査か何かで今はいないだけなのか。
そういえば、ケガの具合はどうなったろう。
少しはよくなったんだろうか?
腕、骨折してたんだっけ……。
と、気がつくとそんなことばかり考えていた。
この期に及んで、私は一体何を律儀に心配なんてしているんだろう。
わずか一日前に、言い争ったばかりだというのに。
「…………」
……ちょっと、言い過ぎたかもしれない……かな?
今頃になって考えてみれば、昨日の私は単純に言いたいことだけ言ってしまったような感がある。
けど、それは空だって同じことだ。
人の話を全然聞かないし、挙句の果てには、助けてくれた医者や心配してくれた先生のことまでどうでもいいような言い方をして。
あれはいくらなんでもあんまりじゃないか。
……けど、ああいう言い方をするということは、それなりに理由があった……のかもしれないし。
いやいや、だけどあれは……。
……うーん。
考えれば考えるほど分からなくなっていく。
いっそのこと、本人に真正面から聞いてみればそれが一番の早道なんだろうけど……。
「……昨日の今日だしなぁ……」
私じゃなくたって、こういう状況だったら誰しもが声をかけずらいはず。
思い返せば、私も結構な捨て台詞を吐き捨ててしまったような気がする。
「……ええい、考えるだけ時間の無駄!」
こういう前向きというか、難しいことが苦手な性格は、時と場合によってほめられたりそうでなかったりする。
けど今の私は、考えるより先に動いていた。
理由は……よく分からないけれど、何となくこうしたほうがいいような気がしたからだ。
軽く拳を握り、空の病室の扉をノックしようとした、まさにそのとき。
「――何か用か?」
「うわぁっ!」
突然背後からかけられたその言葉に、私は心臓が跳ねる勢いで驚いた。
そして反射的に後ろを振り返ると、そこには空が立っていた。
「……え? え? え?」
「……何やってんだ、お前」
「な、何って……何だっけ?」
「……俺が知るかよ。さっきからずっと、一人で唸ったり悩んだり、しまいには声をかけると大声出して驚くし。ワケわかんねぇな」
「いや、それはその……って、ちょっと待って。今、さっきからずっとって言った?」
「言ったな」
「……ずっとって、どのくらい?」
「お前が自販機で飲み物買った直後くらいか」
「それって最初っからじゃん! いるならいるって言ってくれればいいのに!」
「俺は部屋に戻ろうとしただけだ。それなのにお前が、人の病室の扉の前で考え事始めたみたいに動かなくなったら、こっちだって部屋に入り辛いだろ」
「う、それは……まぁ」
確かにその通りだった。
「大体、声をかけたくらいで何で俺が怒鳴られなくちゃいけないんだ。本当にワケわかんねぇな」
「うう……」
返す言葉もない。
「……とりあえず、そろそろどいてくれ。部屋に入れさせないつもりか?」
「あ、ごめん……」
私は体をどけ、扉の前から動く。
そのときになって、私は気づいた。
「あれ、汗?」
「ん?」
見ると、空は額にも首筋にも結構な量の汗をかいていた。
一体何をしたらこんなに汗をかくのだろう?
まさかこの体で運動なんてしないだろう……とは思うけど。
「まさかとは思うけど、その体で運動でもしてきたの?」
「似たようなもんだな」
と、涼しげに空は答えた。
「って、そんなんじゃ傷に触るでしょ? ていうか、止められたりしなかったわけ?」
けが人に運動させる病院なんて聞いたことがない。
「……あのな」
「な、何?」
私が聞き返すと、空は面倒くさそうに一拍の間を置き、そして答えた。
「折れた腕のリハビリだ。ダラダラと寝てるだけじゃ、治るのが遅れるだけだからな」
「ああ、なるほど…………」
そう言い残し、空は部屋に入り、静かに扉を閉めた。
「なるほど、リハビリ、か…………」
…………。
…………えー、と……。
「…………はい?」
今、何と?
「ど、どういうこと、それって…………」
空の言葉が信じられなかった。
つい昨日まで、死んでしまったほうがよかったとか、そんな言葉を口にしていた人間が。
次の日には、早く傷を治すためにリハビリに励んでいるなんて……。
「……一体、何があったんだろ……?」
何ていうか……うーん。
世の中、分からないことだらけだ。
……分からない。
何度考えても、どれだけ考えても分からない。
「うーん……」
どうして急に、考え方が百八十度反転してしまったんだろう?
いや、もちろんそれは全然悪い方向にではないんだけれど。
だって、まだ一日しか……いや、正確には半日ほどしか経ってないっていうのに。
「――俺は、死にたかったんだよ。助けてくれなんて、誰にも一言も頼んでない」
あんな冷たい言葉を吐き捨てた空が、どうしてなんだろう……。
「……何かあった、のかな?」
何かあったんだろう。
気持ちを正反対に変えてしまうことができるだけの、大きな何かが。
それが何なのかは、私には見当もつかないけれど。
けど、きっとその何かは……。
「…………何なんだろう?」
結局、分からずじまいだった。
でもまぁ……。
「まぁ、いっか」
きっと、そういうことなんだろう。