page26:ありがとう、さようなら、そして……
ヒタヒタと、自分のものではないような足音がこだましていた。
何もかもが寝静まっている真夜中、当直の人達くらいしか起きている人はいないだろう。
こんな時間にうろうろしていたら、まず間違いなく見咎められて注意を受けることになる。
が、どういうわけか廊下は無人だった。
たまたま巡回の時間とずれていただけなのか、それとも……。
いや、余計なことを考えるのはよそう。
空は自分にそう言い聞かせて、静かに息を呑む。
やがて、廊下の突き当たりにたどり着く。
すぐ横には、上階へと続く階段があった。
今さっき視界の端で動いていた白いもの……スノウのようにも見えたあの影は、この先へと消えていった。
ついておいでと、そう促されているような気がした。
理由もなく、根拠もなく、ただ漠然とそんな気がしたのだ。
「…………」
暗闇に続く階段を見上げる。
わずかに月明かりが足元を照らしてくれているおかげで、足場ははっきりとしていた。
空はもう一度息を呑む。
そして何かに導かれるように、階段を一歩ずつ上り始めた。
一つ、また一つ。
足取りは決して軽いものではなく、どちらかというと重苦しいものだった。
それが傷の痛みのせいなのか、それとも何かもっと別の感情が働いているせいなのか、その区別はできない。
とはいえ、体のあちこちにもまだ痛みが残っているのは間違いない。
左腕の骨折を始めとし、全身のあちこちを打撲しているのだ。
ほんの数日程度で、それらの痛みが引いていくわけがない。
だから今、こうして階段を上るということだけに関しても、空の体はあちこちが悲鳴を上げていた。
「……っ、……」
それでも足は、上へ上へと向かっていく。
ふと気がつけば、どうしてこんなボロボロの体を引きずって歩いているんだろうと、自分の中で問い詰めていた。
けれど、何度問いかけたところで返ってくる答えを自分自身が持ち合わせておらず、考える間にも足だけが動いていく。
見えない糸に手繰り寄せられているかのよう。
ほんの少し先で、誰かが手を差し伸べてくれているかのような幻覚。
見えたとすれば、それは間違いなく幻だろう。
だが、それでもよかった。
少なくともそこに、過ぎ去りしあの頃によく似た暖かさを感じることができたから。
どれだけの時間を費やしてそこまできたのだろう。
多分、現実の時間の流れで考えればものの数分程度の出来事だとは思う。
だが、空の感覚としてはまるで何年もの間目的を持たずに歩き続けていたかのようだった。
「はぁ、はぁ……」
こんなわずかな運動でも、傷ついた体には相当の疲労だった。
傷口が熱を持ち、そのせいで体全体が火照っているような感覚に襲われる。
それでもどうにか、たどり着いた。
屋上へと続く階段を上りきり、今目の前にある鉄の扉を押し開ければ、そこは屋上だ。
よく見ると、その扉がわずかに開いていた。
外の風のせいだろうか、鉄の扉はキィキィと揺れながら小さく鳴いているようだった。
その泣き声がひどく悲しげで、胸の中を鷲掴みにされるような感覚を覚える。
ドクンと一つ、心臓の鼓動が高鳴った。
それに後押しされるかのように、空はゆっくりとドアノブを握る。
汗が滲み出した手のひらに、夜の空気で冷え切ったドアノブの冷たさはまるで氷のようだった。
握り、そのまま押し開ける。
淡い月光が迎えてくれた。
静謐とした夜の空。
星がまばらだが、頭上には一部も欠けることのない丸い満月が顔を覗かせていた。
金色に輝く月は、屋上の踊り場全体を照らし上げていた。
耳鳴りを覚えそうになるほどの静寂。
時折吹いてくる夜風が火照った体を撫でるたび、不思議な心地よさを覚えた。
シンと静まり返る夜の中。
当然のようにそこに人影はなく、虫の鳴き声さえ聞こえはしない。
その、切り取られた別世界のような場所のちょうど真ん中。
屋上に備え付けられているいくつかのベンチの中の一つ、その上に。
――真っ白な猫が一匹、行儀よく膝を折って座っていた。
「……スノウ?」
その名前を声に出して呼び、空は歩き始める。
その足音に気づいたのだろうか、ベンチの上で膝を折って座っていたスノウは、ゆっくりと振り返った。
そしてその目に空の姿を確認すると、空がやってくるのをただ待つかのように、ぼんやりとした表情で頭上の月を眺めていた。
空の足音が止まる。
空は静かに、スノウが座るベンチの横に腰掛けた。
しばらく空はスノウの横顔を見ていたが、やがてスノウの視線の先に誘われるようにして同じ月を見上げた。
詩人じゃないけれど、空は素直に綺麗だと思った。
そしてその胸の内を見透かしたかのように、隣のスノウが……言った。
「――綺麗な月だね」
その言葉に、不思議と空は驚くことができずに。
心のどこかで、ああ、やっぱりそうだったんだと、小さく頷いていた。
空は視線を月からスノウに戻す。
そこに、すでに白猫の姿はなく。
代わりに、同じ年頃くらいの少年の姿があった。
少年はその全身を真っ白な衣装に包み、さながらに雪を連想させるような姿だった。
「……お前、一体……」
「……ごめんね」
「……え?」
ふいにかけられた言葉に、空は呆然とする。
「僕には始めから、全部分かっていた。君が僕と同じ道を歩んでしまうこと、ありもしない空に飛び立ってしまうこと。全部全部分かっていたのに、僕は君を救うことができなかった」
「同じ、道? じゃあ、お前は……」
空がそう言いかけると、少年は悲しそうな笑みを見せた。
そこから先は言わないでほしいと、そう言われているような気がして口を噤んだ。
「……あの頃の僕は、きっと何も分かっていなかったんだと思う」
彼は静かに続けた。
「どうして自由が手に入らないんだろう。どうして誰かに決められた未来しか選べないんだろう。そればかり考えていた」
「…………」
「周囲の目から見れば、それは成功を約束されたものだったかもしれない。けれど、僕はそんなものなんてこれっぽっちもほしくなかったんだ。何もかもを押し付けられて、僕の意思なんてそこには何もなくて……ただ、苦しいだけの日々だった」
ぼんやりと月を見上げ、彼は言う。
「……鳥に、憧れていたんだ」
「……鳥?」
彼は答えず、一つ頷いた。
「鳥達は自由だった。あんなに小さな翼なのに、広い大空を自由に飛び回ることができる。何者にも縛られることなく、本当に自由に生きることができる。まるで僕とは正反対だったんだ。いわば僕は、鳥篭の中で翼を広げることさえできずに飼い慣らされている、見世物にしか過ぎなかったんだ。でも、世間はそんな僕を見て優秀だとか立派だとか、口先だけの評価を与えてくる。本当は何も分かってなんかないくせに、自由を奪っていることにさえ、気づいていなかったくせに……」
誰にも理解されない苦しみ。
しかし反面、期待される。
そこに逃げ場などはどこにもなく、ただ仮面をかぶって日々を過ごすだけ。
次第に心は壊れ、他でもない自分を見失う。
希望という言葉ほど不確かなものはなく、すがればちぎれる綱と分かっていてもしがみつくしかない。
「……僕は、何もかもに疲れていたんだ。だから、一番楽な道を選んでしまった。少し考えれば、それは本当に簡単なことだったんだよ。きっと、僕はずっとずっと前からそのことに気づいていたんだと思う。けど、やっぱりその選択をすることは心のどこかが怖がっていて、最後の一歩を踏み出せずにいたんだと思う。今の君なら、それが分かるだろう?」
「…………」
空にはその意味がすぐに分かった。
その結果として、今の自分がこうしてここにいるのだから。
「――そう。死んでしまえばよかったんだ。自分で自分を、殺してしまえばよかったんだよ」
悲痛な言葉が、風と共に耳の奥へと吸い込まれていく。
何よりも鋭く、何よりも深い、そして何よりも痛々しい真実が。
「そして僕は、命を絶った。苦しみから解放されるために、なくなることを選んだんだ。これでやっと自由になれる。縛られていた鎖から開放される。そう思うと、不思議と恐怖はなかったよ。だけど……」
彼は言葉を区切る。
そして長い長い沈黙が流れた。
その間、空はただ無言で彼の言葉を待っていた。
先を促すこともなく、視線をそらすこともなく、ただ待ち続けた。
そこに、何かがあるような気がしたから。
「……どうしてだろうね。地に堕ちて、死に行くまでのわずかな時間を遠ざかる意識の中で感じていると……どうして、なんだろう……」
ポツリと、一粒の雫が落ちた。
雨ではないそれは、彼の目の端から流れ出たものだった。
「――あの時僕は、初めて思ったんだ。心の底から……死にたくないって……そう思ってしまったんだよ……」
その一言が。
空の胸の中でくすぶり続けていた、一つの問いに対する答えそのもので。
長く、本当に長く感じていた自分の中の大きな矛盾に、ようやく終止符を打ってくれたような……。
「……俺、は……俺は……?」
どうだっただろう?
ドクン。
俺は、どうだった?
ドクン。
あの時……薄れ行く意識の中で、誰かが呼ぶ声がして。
全身に感じたことのない痛みが走り、声を出すこともままならなくなって。
それでも、ようやく楽になれるのだと、自分に言い聞かせて。
……言い聞かせて?
……そう、だ。
俺は、納得してなんかなかったのかもしれない。
死ねば楽になれるのだと、ただ自分自身に言い聞かせただけで。
そこにあった、本当の気持ちをどこかに押しのけてしまっていたんじゃないだろうか。
だとしたら、俺の……俺の本当の気持ちは、どこへ行った?
どこへ……。
「――どうしてそんなことが言えるの?」
そんな言葉が、脳裏を掠めた。
何、で……?
アイツの言葉が、浮かんでくるんだ……?
「――どういう理由があったにしろ、無事に助かったことをよかったとは思わないの?」
……ああ、そうか。
多分、図星だったんだ。
けれど、それを悟られることは弱さをさらけ出してしまうことなのだと、心のどこかでそんなくだらない強がりがあって。
だから、素直に頷くこともできずに。
虚勢だらけの薄っぺらな言葉で、誰かを傷つけて、突き放すことしかできなくて。
……そうだ。
そうだったんだ。
確かに俺は、あの時……。
――死にたく、ない……。
そう、叫んでいたんだった……。
「……っ!」
頬を伝うその感覚に、空は顔を伏せた。
張り詰めていた糸が音もなく切れ、静かに解き放たれていく。
「……君は、気づくことができたじゃないか」
彼はそっと言葉を投げる。
「だから君は、生きるべきなんだ。僕と同じ道を歩んではいけない」
その言葉に、空は顔を上げた。
もう、泣いている姿を誰かに見られることを恥ずかしいとは思わない。
だから、きっとこれが最後だから。
顔を上げて、彼の顔を見よう。
「……ありがとう。僕は、僕を二度殺さずにすみそうだよ」
そう呟いた彼の顔は、泣きながら笑っていた。
その体が、月光の中に溶けるように消えていく。
まるで、雪が溶けてなくなっていくかのように。
「あ……」
消え行くその姿に、空は無意識に手を差し伸べていた。
しかし彼は、その手を掴むことはない。
静かに首を横に振り、君は僕と違うからと、そう告げるかのように。
そして、光が消える。
その刹那、彼は本当に嬉しそうな笑みを浮かべ、告げた。
「――ありがとう。さようなら…………――――」
最後に、光が一点に集束し音もなく弾けて消えた。
それはまるで、ここにだけ降り注いだ粉雪のようで。
しかし冷たさなどは微塵も感じさせず、むしろ暖かさを残して消えていったような……。
そして、日常に帰る。
ありがとう、そしてさようなら。
その後に、彼が残した最後の言葉を抱きとめて。
空は座ったまま、もう一度頭上に広がる空を仰いだ。
遠くの空が、うっすらと明るくなり始めている。
頬を流れた水跡を、袖口で拭った。
すると、急激な眠気が空の体を襲った。
そしてそのまま、空はベンチに横たわるようにして寝入ってしまった。
確かな何かを、その胸に抱いて。
――じきに、夜が明ける……。
ずいぶんと長い間更新を停滞させてしまい、読者の方々に多大な迷惑をおかけして申し訳ありません。
お久しぶりになります、作者のやくもです。
言い訳がましくなってしまうのですが、四月の末頃にちょっと事故に巻き込まれ、その際に左腕を骨折してしまい、執筆作業ができない状態となっていました。
本来ならその旨をすぐに報告すべきだったのですが、色々と他にも事情があってお伝えできなかったことを深くお詫び申し上げます。
おかげさまで怪我も無事に完治し、ようやく元通りの生活に慣れ始めてきたのがつい最近のことで、どうにか執筆作業にも支障がない程度にはなってきました。
以前ほどのペースで更新し続けていけるかどうかはまだわかりませんが、今日の投稿から執筆を再開していきたいと思っています。
なお、この後書きでのコメントを質問メールをくださった方々に対するお返事とさせていただきますので、どうかご了承ください。
なお、執筆再開にあたってお知らせなのですが、当方の作品の中である「千年の冬」と「世界の果ての真ん中の」の二作に関しましては、作者である私の力量不足のために続行が困難と判断し、これまで呼んでくださった方々には大変申し訳ないのですが、作品を削除させていただくことにしました。
これは完全に私の努力不足の結果ですので、本当に申し訳なく思います。
今後の作品で巻き返せる努力をいたしますので、その際によろしくお願いします。
それではこれで、近況報告とさせていただきます。
今後ともよろしくお願いいたします。