page25:謝罪、目覚め、白い影
本当にほしいものは、もう手には入らない。
「ごめん、ね……ごめんね、空……」
「…………」
どうして謝るんだろう?
その言葉の本当の意味が、分からなかった。
「ごめんね、本当にごめんね……」
……その声は泣いていた。
ギュッと、痛いくらいにこの体を強く強く抱きしめながら、ただ泣いていた。
視線の先は虚ろ。
ゆらゆらと揺らめく赤い景色。
灼熱の炎の熱さと、包まれる暖かさがごっちゃになって、何が何だかよく分からない。
カタンと音を立て、壁にかけてあったカレンダーが落ちた。
落ちたそれは、床の上にまで迫ってきていた炎に包まれ、少しずつ灰へと変わっていく。
ぼんやりとその様子を眺めている。
何もかもが真っ赤だった。
焼ける景色。
佇むモノ。
くの字に体を折り曲げて、床の上で横たわる一つの体。
ほんの少し前まで、父親だった存在がそこに転がっていた。
その体は、もうピクリとも動きはしない。
胸の真ん中から流れ出した真っ赤な血潮は、水溜りのように広がり、足元にまでやってきていた。
……ああ。
そこでようやく理解する。
あれはもう、生きていない。
そんなの、分かりきったことだった。
なぜなら、その生を奪ったのは……。
ゴトン、と。
手の力が急に抜けて、握り続けていた何かがスルリと抜け落ちた。
鮮やかな赤に染まり返った銀の刃。
小型の果物ナイフには、べったりと血がこびりついている。
その刃こそが、そこに横たわる父親だった存在の命を奪ったもの。
その刃を振るい、父親だったものの命を奪ったのは、他ならぬ自分自身。
一瞬前の記憶がフラッシュバックする。
肉を貫き、神経を引きちぎるような耳障りな音と感触。
思い返すだけで、胃の中のものが全部逆流してしまいそうだった。
「……ごめん、なさ……い……」
ようやく動いた唇が紡いだのは、謝罪の言葉だった。
「違うの。空は、何も悪くないの。何も悪くないの……」
その言葉を遮るように、耳元で囁かれた別の言葉。
しかし、その言葉もどこかおぼろげで。
抱きしめられる温もりも優しさも、風が隙間を縫うように抜け落ちていく。
「……僕が、殺した」
「……っ、空!」
抱きしめる力が強まった。
痛い。
苦しい。
放してほしい。
「僕が、僕が……お父さんを、殺した……」
「っ!」
声にならない声と一緒に、さらに強く抱きしめられた。
ガシャンと、背後でガラスの割れる音。
火の手は全てを取り囲むようにして伸び、ここだけが取り残されたよう。
「……僕は……人殺し…………」
「空、空っ!」
「……ごめんなさい、お母さん」
「……いいの、いいのよ。空は何も悪くないの。何も心配しなくていいのよ……」
「…………」
……違う。
悪くないはずなんか、ない。
だって、お父さんは死んでしまった。
……僕が、殺した。
胸を刺して。
苦痛に歪んだその顔を、はっきりと覚えている。
紛れもなく、間違いもなく。
殺したのは、僕。
大好きだったお父さん。
もう、いない。
そこにいても、もうどこにもいない。
悪いのは誰?
僕は悪くないと、母さんは言うけれど。
お父さんを殺してしまったのは誰?
それは、僕。
じゃあ、悪いのは誰?
それも、僕。
どうすればよかったんだろう?
……どうすれば、よかったんだろう……?
……ああ、そうか。
簡単なことじゃないか。
ようするに、僕なんか…………。
「…………ごめんなさい」
「もういいの、空。休みなさい。あとは母さんが……」
「…………きて、ごめんなさい」
「……空?」
母さんの言葉を無視して、僕は壊れたスピーカーのように繰り返した。
届かない謝罪を。
「――生まれてきて、ごめんなさい……」
やがて、炎が全てを包み込んだ。
焼けるような熱さの中、意識は急激に薄れていく。
闇に、堕ちる。
「っ!」
金縛りから抜け出した瞬間みたいだった。
「っ、はぁ、はっ……あ……」
暗い部屋の中、空は目覚める。
額、首筋、そして背中にまで汗をかき、自分の体なのにひどく気持ちが悪い。
「……っ、ゆ、め……?」
治まらない動悸を少しずつ静め、火照った体を空気の中に置く。
少しして落ち着き、空は手探りに部屋の中を見回す。
デジタル時計の数字が、緑色のランプで夜中の二時を示していた。
病院内はとっくに消灯の時間になっているはずだ。
シンと静まり返る室内。
聞き耳を立てるようにしても、廊下からは誰かの足音一つさえ聞こえはしない。
「…………」
空は無言で、再び起こした上半身をベッドへと沈める。
汗の球が夜の冷えた空気に触れて、一瞬で冷たい水滴へと変わっていった。
が、やはりどうにも気持ちが悪い。
空は起き上がり、クローゼットの中から白いタオルを一枚取り出し、額と首筋の汗を拭った。
できることなら背中の汗も拭き取ってしまいたいのだが、骨折して動かすことのできない左腕を抱えているので、さすがに服全部を着替えることはできそうにない。
とりあえず、右腕を背中に回し、届く範囲で汗を拭き取る。
「っと……」
片腕だけの作業というのは思ったよりもやりづらかった。
ぶら下がっているだけで使い物にならない腕は、邪魔で仕方がなかった。
汗を拭き終え、空はまたベッドに横になる。
が、一度消え去った眠気はなかなか戻ってきてはくれないようだ。
すっかり目が冴えてしまい、天井を眺める時間だけが過ぎていく。
余計な音は何一つない。
静か過ぎて、それが逆に不気味なくらいに思える時間。
「……何で、今頃になって……」
あの頃の夢を見たのだろうと、空は自分に問いかける。
しかしそれも、すぐにどうでもよくなってしまった。
夢は所詮夢。
それ以上でもそれ以下でもない。
どうせいつか忘れ去ってしまうのだから、今すぐに消え去っても大した差はないのだ。
だったら……。
今すぐにでも、消え去ってほしかった。
こんな風に、夢になってまであの頃の記憶を呼び覚ますのはやめてほしい。
だから死にたかったのに。
死ねば記憶も何もないだろう。
過去に捉われる必要も、未来を見る必要もなくなるのに。
どうして俺は……生きているんだ?
「…………」
その問いにも、やはり明確な答えは返ってこなかった。
いや、持ち合わせていなかったという方が正しいかもしれない。
小さな迷いが、空の中には確かにあった。
その答えを、ずっと探している。
けど、答えはいつになっても見つからないままで。
時間だけが過ぎていくばかりで、気がつけば今日もまだ生きている。
生まれたことを罪と知り、死に往くことを罰と知り。
それでもどちらか選ぶのならば、覆せない生よりも終われる死を選ぼうと。
無意識のうちにそう誓って、それでもズルズルと日々を生きて。
そんな風に流されるだけの日常に、すっかり居心地のよさを覚えてしまった頃に、そいつは現れた。
そいつは、今より過去のいつの頃か、死んだ。
自由を求めて、代わりに全てを失うことを選んだ。
それが唯一、自分という意思を貫き通して手に入れたものだと信じて。
……だけどそれは、本当に正しかったのだろうか?
今となっては、それすらも分かりはしない。
ただ、一つだけ分かることは……。
「……アイツは」
ふと、空は口に出して言った。
「アイツは、どうしてあんなに悲しい声をしてたんだ……?」
問いかけるように呟いた。
脳裏に浮かぶのは、名前も知らない誰かの姿。
何もかもが真っ白で、まるでカラッポのよう。
反面、氷のように透き通っていて。
触れればそれだけで、粉々に砕け散ってしまいそうな……。
「……くそ……」
何が何だか分からなくなって、そんな言葉を吐き捨てることしかできなかった。
早く眠ってしまいたい。
どうせ何もないのだから。
その、はずだった。
「――ニャア」
そんな、小さな鳴き声が耳の奥に響くまでは。
「……何だ? 猫の鳴き声?」
空はベッドから起き上がる。
鳴き声は病室の外、廊下の方から聞こえた。
まさか、こんな深夜の病院の中に野良猫が入り込んでるわけがない。
空耳だろうと、空は思った。
が、記憶を掘り返して至る。
どこかで聞いた、その鳴き声に。
「……まさか」
ベッドを降りる。
スリッパを履き、病室の扉に向かう。
ドアノブを握り、静かに押し開けた。
キィと、そんな音が寝静まった夜に響いた。
「…………」
廊下は無人だった。
もちろん、猫の仔一匹の姿も見当たりはしない。
分かってはいたが、やはりただの空耳だったのか。
空は押し開けた扉をそのまま引いて、扉を閉じようとした。
その、ほんの一瞬に。
「……?」
視界の向こう。
廊下の奥で、白い何かが動いているのを確かに見た。
「……スノウ……?」
まさかとは思いながらも、その名前を呼ぶ。
すると、それに答えるようにその白い影は一度だけゆっくりと振り返り、廊下の向こうにその姿を消した。
「何で、アイツがここに……」
そして、考えるより先に体は動いていた。
廊下に出る。
足音を殺しながら、空は白い影を追いかけた。