page23:退屈、その頃、隣には
「…………」
ぼんやりと見え始める視界。
まぶたはまだ重く、目をしっかりと開くことはできなかった。
薄い膜に包まれたように、わずかにぼやけて揺れる先。
夜の冷ややかな闇の色が、ひっそりと佇んでいた。
「……俺、ちゃんと……飛び降りたよな……?」
自分自身に問いかけるように、消え入りそうにか細い声で空は呟いた。
「……何で、俺……生きてるんだ……?」
感覚のない体は、まるで自分のものじゃないようだ。
ほんの少しだけ、指先に力を入れてみる。
確かにそこに、動いた感覚が残る。
痛みも今は感じられない。
体中の神経が一時的に麻痺して、あらゆる感覚を遮断してしまっているかのよう。
それなのにどういうわけか、頭の中はやけにすっきりしている。
立ち込めていた霧が、一瞬にして晴れ渡ってしまったかのよう。
例えるならそれは、雲ひとつない青々と広がる無限の空。
「……どう、して……」
呟き、空はしかしそれ以上何かをしようとはしなかった。
ゆっくりと、再び目を閉じる。
睡魔とは違う別の何かが、深い眠りの中へと誘った。
このまま、二度と覚めぬ眠りについてしまっても構わなかった。
もとよりそれを望んで、この身を投げ捨てたというのに。
「どうして、俺は……」
そこに続く言葉を口にするよりも早く、空の目は完全に閉じられた。
耳元では、計器類の単調な作動音だけが絶えずこだましていた。
翌朝私が目覚めると、すでにそこには母さんの姿があった。
「あら、起きた?」
「……お、母さん?」
今朝はまたやけに早いなと、私は目元を軽くこすりながら上体を起こす。
「どうしたの? 今日は昨日と比べてやけに早くない?」
「何言ってるのよ。もう十時を過ぎてるのよ?」
「え?」
言われ、私は慌てて枕もとの時計に目を向ける。
すると、確かに現在の時刻は午前十時十分を示していた。
「朝食の時間になっても、アンタ全然起きる気配ないしね。そんなに寝付けなかったの、昨夜は?」
「……んー、どうだろ。確かに何度も寝たり起きたりしてたような気もするけど……」
実際のところ、その辺のことはよく覚えていない。
ただ、夜中に何度か目が覚めてしまったのは確かだ。
お手洗いにも一度向かったと思う。
「ま、回復の兆しならそれでいいんだけどね。あんまり寝てばかりだと、逆に体力が落ちちゃうわよ?」
母さんはそう言いながら、手の中で切っていたリンゴを一つ、小さなフォークにさして私に手渡した。
私はそれを受け取り、一口かじる。
「ん。そうは言うけどさ。入院患者の身分で、こんなこと言うのもおかしい話だけど……やっぱり暇だよ」
「当たり前でしょ。面白おかしい入院生活なんて聞いたことないわよ」
「うん、まぁ分かってはいるんだけどね」
まぁ、それも当たり前だろう。
あくまでも治療のために入院しているわけであって、それが楽しくなることなど考えられない。
こうなるとますます、一日も早く退院して普通に学校へ通う日々が待ち遠しくて仕方がなくなってくる。
一応私の入院は一週間程度という予定にはなっているけど、果たしてどうなることやら。
私自身としては、もう体のどこにも悪い部分はないようにも感じるのだが、やはりそれは素人目に見ているからなのだろう。
しっかりと検査を受けてみれば、直り具合がいいのか悪いのかは、それこそ一目で分かるはずなのだから。
「まぁ、確かに入院生活ってのは暇だとは思うけどね。母さんは入院したことないからわかんないけどさ」
「私は一日で飽きたよ。早く普通の生活に戻りたい」
「そう思うなら、今一時の辛抱をしなさい」
「だよね、やっぱり……」
結局のところ、大人しくしているのが一番の得策であることに変わりはないのだ。
ハァと溜め息を吐き出して、私はぼんやりと窓の外に目を向けた。
今日は雪が降ってはいないようだ。
かといって、空も晴れているわけでもない。
どちらかというと天気はくだり気味な感じで、空はどこまでも濁った灰色一色に染まっている。
雨でも雪でも、いつ降り出してもおかしくなさそうな空模様。
こういう日は、何かよくないことが起きるような予感がしてならない。
実際その予感が的中したことは過去に一度もないのだけれど、私は毎回のようにそう思ってしまう。
不安とは少し違う気がする。
言葉ではうまく言い表せない感じだ。
「さて、と」
一言呟き、母さんは立ち上がる。
「それじゃ、私は仕事に戻るわね。そこのロッカーの中に、着替えとタオルと、あと歯ブラシとか色々入れておいたから」
「あ、うん。ありがとね。今日は外回りなの?」
「この後一度会社に戻って、昼から会議よ。そのあとまたプロジェクトの打ち合わせって感じかしらね」
「相変わらず大変だね」
「あら、変わってくれる?」
「……遠慮しとく」
「正解。それじゃ、あんま無茶すんじゃないわよ」
「うん。いってらっしゃい」
最後に母さんは軽く手を振り、病室をあとにした。
その姿を見送った後、私は言われたとおりロッカーの中を改めてみる。
透明なビニールケースの中には、洗面用具やタオルなどが一式詰まっていた。
もう一つの鞄には着替えが入っている。
と、もう一つそこには何か四角いケースのようなものがあった。
中身を改めてみると、それはCDプレーヤーと数枚のCDが入っていた。
それは私のもので、CDも私が気に入っているバンドのものだった。
どうやら暇つぶしになるだろうと母さんが気を利かせ、入れておいてくれたものらしい。
他の病室の中でもラジオを聞いたりしている人の姿を見かけたことがあるので、音楽を聴くくらいのことも許可されているのだろう。
確かにこれは、退屈な入院生活を過ごす中では貴重なアイテムになりうるかもしれない。
ただ、あえて一つ言わせてもらうなら、それは。
「また一段と、眠くなるってことだよね……」
とまぁ、そういうことだ。
午前中は採血の検査があったので、それを終えた頃にはもうお昼を回っていた。
朝食を食べていなかったこともあるのだろう、決しておいしそうには見えない病院食も残さず食べることができた。
そんな感じで午後の時間が始まり、私は早速母さんが持ってきてくれたCDプレーヤーにCDをセットし、イヤホンを耳につけて音楽を聞いている。
手元には、売店で買ってきた漫画雑誌を一冊広げている。
目で文字と絵を追いかけながら、耳で音楽を楽しんだ。
そんな風にしているだけで、意外にも時間の流れは早く感じてしまうもので。
「……あれ? もうこんな時間?」
ふと気が付いて時計を見れば、時刻は三時半になっていた。
私は一度プレーヤーのスイッチを切り、イヤホンを外した。
「んー……」
ベッドの上でグッと背を伸ばす。
ずっと同じ姿勢でいたせいで、肩の辺りが少し痛くなっていた。
「ふぁ……」
そして案の定というかなんというか、眠気もしっかりとこみ上げてきている。
いっそのことこのまま眠ってしまえばいいのだろうけど、何となくそういう気分にはなれなかった。
「ちょっと、顔でも洗ってこようかな……」
スリッパに履き替えて、私は病室を出る。
廊下は人気も少なく、昨日に比べてどこかひっそりとした空気が漂っていた。
出歩いている患者さんの姿もまばらだし、看護婦さんや医師の人達の姿もずいぶんと少ない。
まぁ、そういうときもあるのだろう。
私はさして気にすることもなく、真っ直ぐに洗面所に向かう。
中に入り、冷たい水で顔を洗った。
冷たすぎるくらいだった。
今が真冬だということをすっかり忘れてしまっていた。
持ってきたタオルで濡れた顔を拭いていく。
多少はさっぱりした感じもするが、やはりそれでも眠気を完全に消し飛ばすまでには至らないようだ。
午後は検査も何もないので、寝てしまっても問題はないのだが……。
「…………」
何かこう、胸の奥で気になって仕方がないことがあるような気がしてならない。
いや、その正体を私は知っている。
知っているが、そのことを確認するのは少し気が引けるというか、あまり気が進まないことでもあった。
「……空、どうなったのかな」
近藤さんの話では、今日にでも一般病棟に移っておかしくないとのことだったが……。
「意識は回復したって言ってたから、もう危険な状態ではないんだろうけど……」
何しろ屋上から飛び降りたのだ。
いくら危険な状態を脱したとはいっても、あちこちの傷が瞬く間に塞がるわけでもない。
どこかしら骨折もしているという話だったし、やはり重症であることに変わりはない。
仮に一般病棟に移されているとしても、自由に面会ができるようになるのはすぐではないかもしれない。
リハビリとかも必要かもしれないし、どちらにしても私なんかとは入院期間が違いすぎるだろう。
「……あとで、近藤さんに聞いてみよう。その方が早いし、正確だもんね」
私は洗面所から出て、病室へと戻るべく廊下を歩く。
病室までの距離は直線でおよそ二十メートルほどだ。
その間には、私の病室と同じような個室の部屋がいくつか用意されており、そのうちのいくつかは今は無人のままだった。
患者さんがいる場合は、扉の前のネームプレートにその名前が表示される。
もちろん、私の病室もそうだ。
そんなどうでもいいことを考えながら、私は扉を見ながら歩を進める。
そして、その一瞬。
ピタリと、足が止まった。
自分の病室まで、あと三メートル。
その位置で、私の足は地面に縛り付けられたように止まっていた。
目の前には、別の病室の扉がある。
そしてそこは間違いなく、昨日までは誰も入院していない無人の部屋だったはずだ。
しかし今、そこに。
その、扉に。
ネームプレートが差し込まれていた。
見覚えのある、その名前。
――藤杜空。
その名前が、書かれていた。