page22:温もり、陽だまり、幸せな記憶
夕食の後片付けの後、病室にやってきた近藤さんから私はその話を聞かされた
「え、本当ですか?」
「ええ、意識が戻ったみたいですよ。さっき、先生達がそう話していたのを聞きましたから。確か、藤杜さんていう、男の子の患者さんですよね?」
「はい、そうです。あの……それで空……彼は、もう面会とかできるんですか?」
「さぁ、私にもちょっとそこまでは分からないけど。でも多分、意識が戻ったばかりの今は、もう少し安静にして様子を見ると思うから、今すぐには無理だと思いますよ?」
「……そう、ですか。そうですよね……」
「……立ち入った話になっちゃうけど、彼とはお友達なんですか?」
「……同じ学校の生徒なんです。学年とかクラスは、分からないんですけど……」
「クラスメートとかではないんですか?」
「そういうのとは、またちょっと違って……」
事情があって空が保健室登校だということは、この場では言わないでおこう。
そんな風にぺらぺらと喋るようなことでもないだろうし。
「……でもまぁ、意識が回復したっていうことは、体も少しずつ回復に向かっているってことですから。その点は安心してもいいと思いますよ」
「そう、ですね」
「また何か聞いたら、伝えにきますね。早ければ明日にでも、一般病棟に移動することになるかもしれませんけど」
そう言い残して、近藤さんは静かに病室から去っていった。
私は出て行く近藤さんに小さくお辞儀をし、その背中を見送る。
パタンと、扉が閉じる。
「……はぁ」
途端に溜め息が出た。
安堵のものなのか、それとも単純に疲れているからなのか。
多分、その両方だと思う。
いつもより吐き出した空気が重苦しい気がするから。
結局その後は、一度読み終えた雑誌をもう一度読み直していた。
ぼんやりとそんな風に過ごしているうちに、時間だけが緩やかに、しかし確実に流れていき、気付くともう間もなく消灯の時間が迫っている頃になっていた。
病院の消灯時間は夜の十時となっている。
それ以降はお手洗いや緊急の場合を除き、できるだけ部屋から出ないようにと私も言い聞かされていた。
もちろん、頭ではそのことをしっかりと理解している。
が、昼間もずっと寝てばかりいたこともあり、この時間になってもなかなか眠気はやってこない。
中途半端なまどろみが頭の中でくすぶって、あくびを何度も繰り返すのに睡魔には至らない。
そんなことを繰り返しているうちに、目はすっかり冴えてしまっていた。
ベッドの上に横になり、何をするわけでもなくぼんやりと天井を眺めている。
白一色に包まれている部屋の中も、夜になれば夜色に染まる。
締め切ったカーテンの隙間からは、わずかに外灯の明かりが差し込んでいた。
チクタクと、備品の目覚まし時計が時を刻む。
単調なそのリズムは、普段なら眠気を誘ってくれるはずなのに、今夜はなかなかそうもいかない。
「眠れないや……」
私は小さく呟いた。
ベッドの中で寝返りを打つ。
うつ伏せになって枕に顔を埋めてみるが、病院の枕はどこか硬く、薬品の匂いが染み付いていて違和感を覚えてしまう。
「はぁ……」
気が付くとまた溜め息。
これで今日何度目だろう?
いや、さすがにいちいち数えてはいないけどさ……。
「…………」
結局また仰向けになって、ぼんやりと天井を見上げている。
もちろん、面白くも何ともない。
そこはただの暗がり。
夜の冷えた空気が、静かに息を潜めているだけ。
「……だめだ。無理にでも寝ちゃおう。このままじゃ朝までこうやってそうだもの……」
布団をかぶり、私は半ば強引に目を閉じる。
きっと、ヒツジでも数えていればそのうち眠ることができるだろう。
その数分後。
結局私は、ヒツジを数える前に眠りについてしまった。
それは、青い記憶。
「ねぇ、空。どうして自分の名前が空なのかって、考えたことある?」
長い黒髪の女性は、隣に座る小さな少年に語りかける。
「ううん」
と、少年は首を左右に振って分からないと答えた。
すると、女性は柔らかく微笑んで、隣に座っていた我が子を膝の上に抱き寄せ、優しく包みながら続けた。
「空の名前はね、この空と同じなのよ」
「……空? 空は、空なの?」
「そう。空の名前は、このどこまでも広がる青い空と同じもの。澄み切っていて、晴れやかで、限りがないもの」
「……んー?」
難しい言葉は、まだ幼すぎた少年には理解できないものだった。
小首を傾げて不思議そうな表情を作る少年に、母親はまた一つ柔らかく微笑んだ。
「おーい」
そんな二人の背中から、一人の男性の声が届く。
母親と少年は揃って振り返った。
「お父さん!」
そう叫ぶと、少年は母親の腕からするりと逃れ、駆け足で父親の元へと走り出す。
そんな少年を、父親は膝を折って出迎え、両手で高く高く持ち上げた。
「遅くなってごめんな、空」
「ううん、いいよ」
持ち上げた空を、父親はそのまま肩車の姿勢に変える。
普段の背の高さから見る世界とはまた違う別の世界が、少年の目の中に景色として飛び込んだ。
「車、大丈夫だった?」
「ん? ああ、なんとか開いてる場所を見つけて、そこに停めてきたよ」
この日、家族は三人で丘の上にある草原にやってきていた。
住んでいる町並みが一望できる、絶好の場所だ。
天気も晴れ、雲ひとつない青天だった。
遠く向こうの空には、つい先ほど飛び去って行った旅客機が残した飛行機雲がうっすらと浮かんでいる。
三人がいるのは、草原に佇む大きな一本の木の下。
初夏の季節である今、枝葉は新緑に染まって青々と輝いている。
時折吹く涼しげな風が、いっぱいに広がる草原の草を一斉に揺らした。
ザァというその音が、空は好きだった。
「お父さん、あれ持ってきてくれた?」
父親の頭の上で、空は聞いた。
「ああ、ちゃんと持ってきたぞ。ほら」
答え、父親は手荷物の中から黄色いゴムボールを一つ取り出した。
「キャッチボールするって約束だったもんな。よし、じゃあ早速やるか空」
「うん!」
父親は空を持ち上げ、そっと草原の上に下ろす。
その手からゴムボールを取った空は、草原の向こう側に走り出した。
ある程度の距離まで離れると、その小さな体の小さな手で、思いっきりゴムボールを投げた。
コントロールはメチャクチャだった。
ゴムボールはあらぬ方向へと飛んでいき、父親はそれを見て小さく笑っていた。
母親もそれを見て、やはり柔らかく笑っていた。
二人を見て、よく分からないけど空も同じように笑っておいた。
夏の始まりの日。
緑に包まれた草原と、青に染まった空の下。
その狭間で、黄色いゴムボールが楽しそうに放物線を描いて飛んでいた。
三人分の笑い声。
太陽が暖かく照らし出す。
幸せがあった。
確かに、幸せはあった。
幸せだったんだ。
陽だまりの中、木陰で三人分の静かな寝息。
父親と母親に挟まれて、抱かれるように空は眠る。
その手にはしっかりと、黄色いゴムボールが握られていた。
遠くへ、遠くへ。
飛んでいけ。
届け、向こう側に。
空に、届け。
そんなまどろみのような、暖かく優しい時間が、ずっと続くはずだった。
ずっと続くと、信じていた。
……なのに。
それなのに……。
夢のような時間は、やはり夢で。
現実はあまりにも残酷で、幸せをあっさりと裏切り、切り裂いてく。
特別な幸せがほしかったわけじゃない。
そんなものを願ったことなんてない。
なのに、どうしてと。
いるかどうかも分からない神様を、恨んだ。
始まりはいつも突然。
それは、いい意味でも、そして悪い意味でも同じこと。
目には見えない亀裂が、このときすでに始まっていた。
やがてそれは、悪夢に還る。
そしてその悪夢は、やがて……。
――少年を、悪魔に変える。