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page21:散歩、黄昏、見下ろす先は


 窓の外、覗いた景色はオレンジ色に染まっている。

 時刻は間もなく夕方の五時を示そうとしていた。

「ふぁ……」

 結局私は、うたた寝を繰り返すばかりでまともに睡眠を得ることはできなかった。

 そのせいだろうか、頭が重くてふらふらと傾きそうになっている。

 眠気は残っているのに、体が眠ることを拒んでいるような感覚。

 あくびだけが絶え間なく続き、部屋の中で大口を開けている自分が時々バカみたいに思えてくる。

「もうすぐ夕食の時間だっけ、そういえば……」

 病院の夕食は意外と早く、六時頃に各病室に運ばれてくるようになっている。

 それでもまだ一時間ほどの間があるわけだが、眠気が残っているせいで体はだるく、とても自ら動く気が起きる状態ではなかった。

 備え付けの小さな冷蔵庫を開け、中からお茶を取り出して一口含む。

 冷たさのおかげでいくらかは眠気も覚めるが、この程度では消えるわけもない。

「どうしようかな……」

 昼間に母さんが持ってきてくれた雑誌もほとんど読み終えてしまった。

 というか、大して厚みもない漫画雑誌じゃそんなに時間は潰せない。

 何はともあれあと一時間、寝る以外の方法で時間を潰しておこう。


 私はベッドから降り、スリッパを履いて病室を出た。

 私の場合はこれといって出歩いてはいけないなどという条件はつけられていないので、病院内であれば比較的自由に歩きまわれる。

 もちろん、血圧検査などのときは別だが。

「えっと……」

 とはいえ、勝手しったる人の家じゃあるまいし、ただでさえ病室だらけで入り組んでいる院内は構造が分かりにくい。

 気分転換に屋上にでも行ってみようと思ったのだが、まずそこへ行くには階を上がっていかなくてはいけないわけで。

 この病院は地上六階建てで、私が入院している病室は五階の一室だ。

 さすがにエレベーターを使う必要もなく、階段で十分に行き来ができる。

 が、まずその階段がどこにあるのか分からない。

「聞いたほうが早いかな」

 私は呟き、一度ナースステーションまで出向くことにする。

 歩いて目と鼻の先にあったナースステーションだったが、さすがに夕方のこの時間は忙しくなるのだろうか、ガラス窓越しに覗いた感じではずいぶんと慌しかった。

 忙しそうだし、やめておこうかなと思い、引き返そうとしたところで声がかかった。

「上杉さん、どうかしましたか?」

「わ……って、びっくりした。近藤さんですか」

 振り返るとそこには、私の病室を担当してくれている若い看護婦さんの近藤さんが立っていた。

 その手には点滴用の袋が握られており、どうやら今は点滴を変えたその帰り道のようだった。


「何か用事ですか? 取り次いでほしいとか?」

「あ、いえ、そんな大したことじゃないんですけど。夕食までの時間、気分転換に少し屋上にでも行ってみようかなって思って。でも、階段の場所が分からなかったので……」

「ああ、なるほど。それだったら、エレベーターホールの脇にあるのを使うといいですよ。他にも階段はあるんですけど、そっちは非常用のものだから、緊急時以外は使っちゃいけないようになってますから」

「あ、はい。分かりました」

 私は小さく頭を下げ、エレベーターホールへと向かう。

「ああ、それと」

 と、何かを言い忘れたように近藤さんが続ける。

「はい?」

「屋上、ちょうど夕方六時になったら係の人が施錠しにいくので、間違って取り残されたりしないでくださいね」

「分かりました、気をつけます」

 もう一度軽くお辞儀をし、私は廊下を進む。

 エレベーターホール脇にある階段を上に。

 六階に着くが、階段は続いているのでもう一つ上へ。

 どこか見慣れたような、鉄製の少し錆付いた扉がそこにあった。

 ドアノブを握り、少し力を込めて押し開けると、扉はギィと音を立てて開いた。

 瞬間、ブワッと風が吹きつけた。

「わ……」

 思わず顔を逸らし、目をつぶる。

 風は最初だけで、それ以上は強く吹き付けてくることはない。

 私は踊り場へと足を踏み入れる。


 この時間、屋上は無人だった。

 あちこちに物干し竿とそれを支える柱が立っているのが、どことなく病院らしい光景だった。

 昼間だったら、ここ一帯に真っ白なシーツが干されていたのかもしれない。

 屋上の踊り場にはいくつかのベンチが設置してあった。

 私はその中の一つに腰を下ろす。

「…………」

 ぼんやりと夕焼け色に染まった空を見上げる。

 雲はまばらで、見ているだけだと明日は晴れてくれそうな雰囲気だった。

 でも少し地上を見下ろすと、積もりに積もった真っ白な雪が地面を覆い尽くしている。

 念のために上着をもって着てよかった。

 それがなければ、寒さで凍えてしまったいただろう。

 屋上に積もったであろう雪は、奇麗に除雪されていた。

 まだところどころに白い名残があるものの、大半は四隅に固められ、残りは日中の暖かさで解けてしまったようだ。

「はぁ……」

 何の意味も含まない、単純な溜め息が出た。

 疲れているのかそうでないのか、吐き出した私自身が一番よく分からない。

 入院初日ではあるけど、率直な感想を言えば退屈だ。

 もっとも、楽しい入院生活なんて聞いたことがないし、それはそれであったら嫌な気分ではある。

 規則正しい生活をすることは苦ではないけれど、どことなく何かに縛られているような感覚はある。

 でもそれに対して不快感を覚えることはないし、ある意味当たり前だとも思う。

 元はといえば自分の体調管理があまいせいでこうなったわけだし、そのことに関しては文句は何もない。

 ただこう、病院というとありがちなイメージなのだが、消毒液や薬品の匂いが染み付いた空間というのに、私は全然慣れていなかった。

 なので、時々それがよく感じられなくなることもある。

 普段の生活の匂いとかけ離れすぎていて、どことなく違和感を覚えてしまうのかもしれない。

 そんなことを考えながら、私は座ったままでグッと背を伸ばした。

「んー……っ」

 体の内側にくすぶっていた眠気が押し出されていくようだ。

「はぁ」

 気が付くとまた溜め息が出ていた。

 まぁ、これは不可抗力かもしれない。


 ふと、私は何かを思い立ったように立ち上がる。

 ゆっくりと前に歩き、胸の高さほどの手すりに触れた。

 ひんやりと冷たい。

 指先から徐々に、腕を伝って背中まで届きそうな冷たさだ。

 私は手すりに両手で捕まり、覗き込むようにして下を見た。

 高い。

 目もくらむという表現には程遠いが、それでも十分な高さだった。

 目測で、恐らく地上から十五メートル前後。

 学校のプールの横幅より一回り大きい程度の距離だ。

 しかし、それが平面ではなく、高度に置き換わるとものすごいことになる。

「…………」

 その高さに、思わず言葉を失う。

 ただこうして下を見ているだけで、自然と恐怖が生まれてくる。

 怖い。

 口には出さないが、心はすでにそう告げていた。

 手すりを掴む両手が、寒さとは別のもので小刻みに震え出している。

 地面が遠い。

 果てしなく遠い。

 小石を落とせば、ものの数秒で地面に辿り着く程度の距離でしかないというのに。

 この、見下ろす限りの距離感が、人の命の生死を簡単に分かつ。


「……飛んだんだ、よね? 空は、こんなとこから…………」

 こんな高いところから……それでも高層マンションなどに比べれば全然低すぎる高さ。

「飛び降りて……たまたま地面に雪山があったから、かろうじて助かった。でも、ここには……」

 見下ろした地面の上には、そんなクッションのようなものは何もない。

 灰色のアスファルトの上に雪が積もり、その上を行き来した何人もの人々の足跡が上書きされ続けて刻まれている。

「……どう、して」

 空は飛べたんだろう?

 怖くはなかったのだろうか?

 だって、こんな高さなんだ。

 誰だって恐怖を覚えずにはいられない。

「どうして……」

 飛ぼうと思ったんだろう?

 何が空を、空に駆り立てたのか。

 そこに何が見える?

 そこから何が見える?

 実際、そこから飛び降りてみて……。


 ――そこに、何を見たの?


「どうして、空は…………」

 問いは繰り返されるだけで、いつになっても真実を運んではくれない。

 風が届けてくれるかとも思ったが、どうやらそれは期待しないほうが正解らしい。

 理由なんて、分からない。

 分かるわけがないよ。

 だって……だって私は、空じゃないから……。

 行き着いた答えは、結局はそこ。

 空の気持ちが分からない。

 こんな風に簡単に自分を捨ててしまえるなんて、私には到底理解できないことだったから。

「……おかしいよ、こんなの」

 ギュッと、手すりを強く握り締めた。

 冷たさがいつしか痛みに変わり、手のひらいっぱいに広がっていく。

 ほら。

 これだけでこんなに痛いのに、なのにどうして?

 どうしてなの?

 ……ねぇ、答えてよ。

 心の中で繰り返し、答えてくれない空を見上げる。

 夕焼けはさっきより少し薄れ、代わりに紺色の夜空が広がり始めていた。

 瞬間、背後でガチャリと音がした。

 私は慌てて振り返る。

 するとそこには、白衣に身を包んだ男性の医師が立っていた。

「そろそろ閉めますから、戻ってください」

「あ、はい」

 私は返事をし、屋内へと戻る。

 最後に一度だけ、広い空を見上げて。



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