page2:寝不足、寒空、ソラのコエ
週明けの月曜、普段と変わらない通学路。
「おっはよー、ナナ」
「うわっ」
例によって例のごとく、ヒロが背中から飛びついてくる。
勢い余って二人揃ってそのまま転んでしまいそうになるのを、私はどうにか持ちこたえる。
「っと、おはよう」
私とヒロは歩きなれた道の上を肩を並べて歩く。
私達以外にも登校途中の学生の姿は多く、一人で歩いている生徒もいれば、大勢のグループで談笑しながら歩いている生徒もいる。
土曜の夕方に雨が降り、その雨が日曜の昼過ぎまで降り続いているのを見たときは、このまま雨が雪に変わって月曜日を迎えるのではないだろうかと、少しだけ欝な気分にもなったけど、今の青天を見る限り、それは余計な心配で終わったようだ。
天気そのものは晴れているといっても、十二月に入ったことで寒さはまた一段と厳しさを増している。
私もヒロも、制服の上からコートを着込んでいるし、首にはマフラーを巻いて手袋まで着用して防寒対策している。
何気ない会話を繰り返す中でも、寒さを示す真っ白な息は留まることなく吐き出される。
学校そのものがそこまで好きというわけではないけれど、今は教室の暖房が待ち遠しかった。
私たちの通う学校――皐月学院付属高等学校は、緩やかな坂の頂上に位置する。
もともとは小さく連なる山があった場所を開発して建てられたものらしい。
校舎そのものは比較的まだ新しく(設立からは三十年以上経っているが、何年か前に校舎全体を新築したらしい)、敷地面積も並の高校のものと比べると一回り以上大きい。
私なんかが言うのも何だけど、実はうちの高校は名門ほどではないにしろ、結構な人気校なのだ。
進学率が高いということもあるが、その辺は私にはよく分からない。
それでも、わざわざ入試を受けに県外からの受験者が訪れるくらいだし、私が気付いていないだけで本当にそうなのかもしれない。
もっとも、私がこの学校を受験した理由なんてあってないようなものだ。
ずばり、家から一番近くて歩いて通える距離だったから。
これはあくまでも私の意見だけど、高校に通うのにわざわざ電車やバスを何時間も乗り継いだりするのは正直言ってバカらしい。
徒歩か、あるいは自転車で通える程度の距離が一番望ましい。
そんな私の中で都合のいい条件下にあった高校は、ここしかなかったのだ。
もっとも、この学校がそんな風に言われる人気校だと知ったのは、受験が終わって無事に入学が決まってからのことだったのだが。
まぁ、私自身はそんな評判みたいなものはこれっぽっちも気にはしてない。
逆に、名門中の名門のお嬢様学園とか囁かれるようなところに入学する方が、むだにプレッシャーを受けているみたいに感じる。
道端を歩くだけで噂されそうだし、制服を着るだけで宣伝用の看板を背負っているみたいだ。
寒空の下を歩くこと十数分、私とヒロは教室にやってくる。
扉を開けて中に入った途端、暖かい空気に包まれ、私はようやく安堵の息をつく。
毎年のことだが、やはり寒いのは苦手である。
いや、夏は夏で暑苦しくて嫌になるんだけどね、うん。
「はぁ……」
マフラーと手袋を外し、コートを脱いで折りたたむ。
それら一式を後ろのロッカーに入れ、鞄の中のものを机の中に放り込み、最後に鞄を机の横にかける。
ホームルームが始まるまではもうしばらく時間があるけれど、教室の中は大体半分くらいが生徒の数で埋まっていた。
各々にレポートを書いたり、漫画雑誌を読みふけったり談笑したりと様々だ。
これといってすることがなかった私は、席について机に体を突っ伏している。
実を言うと、まだ少し眠い。
やはり、昨日の夜中になって慌てて課題のレポートに手をつけたのが原因だろうか。
いつもならこんなことはないのだけど、今回はうっかりレポートのことを忘れてしまっていた。
いや、忘れていたわけではない。
提出の期限を月曜と火曜とで勘違いしてしまっていたのだ。
しかも苦手な古文の課題だ。
苦手教化であるがゆえに、正直言ってすぐそこにまで迫っている期末試験での結果はあまりいいものは望めない。
ので、こういった課題だけでもせめてしっかりとこなし、今のうちに埋め合わせをしておかなくてはならないのだ。
努力のかいあって、レポートは無事に終わらせることができた。
できたが、終わって気付いてみればカーテンの向こう側からはうっすらと朝日が射し、雀の鳴き声まで聞こえていた。
さすがに二度寝をするわけにはいかない。
とまぁそんなわけで、いつもに比べて私は少しだけ睡眠不足だった。
「ふぁ……」
思わずこみ上げるあくびを両手で覆い隠し、まぶたを軽くこする。
ぐるりと教室を見回してみるが、先ほどとあまり変化はない。
何人か生徒の数は増えているけど、それだけだ。
時計に目を向ける。
ホームルームが始まるまで、あと二十分。
ヒロは……自分の席で雑誌を読んでいるみたいだ。
「今のうちに、行ってみようかな」
小さく呟いて、私は机の中から一冊の本を取り出し、それを持って小走りに教室をあとにした。
廊下に出ると、途端に気温が下がる。
「寒っ……」
窓はしっかりと閉じているのに、それでもこの寒さ。
スカートは不利だなぁとか、実にどうでもいいことを考えながら私は図書室へと向かった。
校舎の敷地面積が広いということは、校舎そのものも即ち広いということだ。
図書室は二階の東の端にあり、教室から歩くと二分ほどの時間がかかる。
うちの高校の校舎は五階建てで、一階は事務室や保健室、会議室や応接室などの事務的な設備。
二階から四階に各学年の教室が割り当てられ、階が上がるほどに学年も上がっていき、クラスの数はそれぞれ七クラスずつである。
なので、一年生の教室は図書室と同じ二階にあることはあるのだが、私のクラスは一年一組で、教室の位置がちょうど校舎の真西の部分にあたる。
構造上のこともあって、図書室まで行くにはカタカナのコの字の最初から最後までの道のりを歩くような感じになるのだ。
「うー、寒い……」
冷えた体をさするようにして、私は図書室がある側の廊下を歩く。
突き当たり、正面にある扉を静かに開ける。
中を覗くと、さすがに朝早いこの時間に他の生徒の姿は見えなかった。
図書委員の生徒くらいならいてもいいだろうが、今日はその姿が見えない。
代わりに受付カウンターに座っているのは、恐らく事務の先生か誰かなのだろう。
顔は知っているのだが、名前と一致しない。
入り口にいる私に気付いてか、その女性は小さく微笑んで軽く頭を下げた。
倣い、私も小さく頭を下げる。
「こんなに早く、図書室を利用する人もいるのね」
澄んだ感じの、若い声だった。
いや、実際見れば分かるが、外見だけでもまだ若いだろう。
図書室の雰囲気に似合う、といえば聞こえが悪いというか、偏見にも聞こえるかもしれないが、メガネをかけて長い黒髪を後ろで束ねているその容姿は、理知的でおっとりとした性格を連想させる。
「あの、本を返しにきたんですけど」
ドアを閉め、私は声をかけた。
そのまま足を進め、カウンターへ。
「はい、返却ですね。じゃあ、こっちのカードの記入をお願いします」
女性は引き出しの中からカードを、ペン立ての中からボールペンを取り出して私に記入を促す。
受け取り、私はカードの項目の中に必要事項を記入していく。
書き終え、カードを提出する。
普通ならここで私にすることは終わり、あとは係の人が本を直接戻してくれるわけだが……。
「……あの」
「はい?」
私の呼びかけに、女性はまたもや笑みのまま返す。
「……ついでなんで、本戻してきますね。場所、覚えてますから」
カウンターに置いたその本を手にとって、私は女性からの返答を聞くよりも早く、小走りに本棚の中へ向かった。
いくつも並ぶ本棚の隙間を縫うように歩き回り、私はその場所にやってくる。
整然と並ぶ本棚の一部に、貸し出しされてる本の代わりに差し込まれた貸し出し中の札を抜き取り、本そのものをそこに戻した。
だが、まだ終わらない。
それは、今も私の手の中にある。
「…………」
一冊のノート。
恐らく、探せばどこの雑貨屋でも簡単に手に入るであろうもの。
ただ、ずいぶんと古いものらしく、表紙の色は剥げ落ち、あちこちが傷んでいる。
色褪せた写真のようなそれを、私は音もなく開いた。
一ページ目。
白紙に見えるその片隅に、やはり、変わらぬその一文だけが、まるで取り残されたように書き連ねられていた。
――we can not fly
と、たった一言、それだけ。
「…………」
私はジッと、その文字を見入る。
このノートは、借りた本に一緒に挟まっていたものだ。
当然、本そのものとは何の関連性もない。
それどころか、ほとんどのページが白紙のままで色褪せているのだ。
文字も絵も、何一つ描かれてはいない。
見ているこっちが寂しくなってしまいそうな、そんなノート。
「……私達は、飛ぶことが、できない……」
唯一書き残されたその英文を、直訳する。
意味がないわけではないけど、特別な意味はきっとない。
文字である以上、文章である以上、最低限の意味はある。
でもその意味は、今私が訳したように、私達は飛ぶことができない……私達は飛べないという、それだけの意味でしかないのだ。
それ以上でもそれ以下でもなく、ただ、それだけ。
……だけど。
どうしてだろうか?
その、意味のない短すぎる文章は、私の心を鷲掴みにしたように離さない。
別にそれが、過去に偉大な実績を残した故人の、死に際に残した格言や名言、辞世の句であったわけでもないだろう。
もちろん、そんな証拠はどこにもない。
私が知らないだけで、もしかしたら本当に何か意味深なことが含まれているものなのかもしれない。
だとしても、そんなものがどうして、こんなノートの片隅に書き残されているのだろう。
学校の図書室の、しかも全く関係のない本の中に隠れるように挟まっていたりしたのだろう。
分からない。
このノートがここにあった理由が。
分からない。
このノートに書かれたたった一つの言葉の意味が。
分からない。
何がこんなにも私の心を捉えているのか。
ノートを閉じる。
古ぼけて色褪せた表紙が顔を出す。
他に、何もありはしない。
だから、戻してしまえばいい。
何もなかったかのように、見つけたときと同じように、本の間にノートを挟んでそのままにしてしまえばいいんだ。
何かあれば、図書委員の人や先生達が気付き、適切な判断をするだろう。
迷う必要なんて、これっぽっちもありはしない。
……はず、なのに……。
「……でも……」
あのときの言葉が、記憶の中に甦る。
居眠り、うたた寝、開く視界。
日常、教室、黒板を叩くチョークの音。
映る視線、無人のグラウンド、風吹く空。
その、向こう側。
どれだけ遠い場所なのか、それとも触れられるほどに近いのか。
そんな、どこかも分からない場所。
だけど、どこかにある、ここではないどこかから、確かに届いた誰かのコトバ。
――we can not fly
それは、ソラのコエだった。
改めて考えると、少しおかしい。
ソラなのに、飛べない?
そこにあるだけで、飛んでいるようなものだろう。
矛盾しているようで、してないような。
そんな、ソラのコエだった。
「あの……」
「はっ、はいっ!」
背中に氷の塊を入れられたように、私は引きつった声で返事をする。
慌てて振り返ってみると、そこには受付の女性が立っていた。
驚いた私を見て、逆の女性が驚いているようだ。
「あ、ごめんね。驚かすつもりはなかったんだけど……」
「あ、いえ、私こそ……」
まだ心臓がバクバクいっている。
寒さなんて一瞬で吹き飛んでしまいそうだ。
「もうすぐホームルームの始まる時間だと思うんだけど、戻らなくても大丈夫?」
「え? ああーっ!」
言われて壁の時計に目を向けてみると、あと二分ほどでホームルームが始まろうかという時間だった。
「じゃ、じゃあ私戻ります。ありがとうございましたっ!」
急げ急げ。
走ればなんとか間に合うはず。
挨拶もそこそこに、私はダッシュで廊下を走る。
そんな私の背中を見ながら、その女性がまた小さく微笑んでいたことを私は知る由もなかった。
そして、結局。
私はそのノートを、再び教室まで持ち帰ってしまっていた。
廊下を走っているその間は気付かなかったけれど。
まるで宝物のように大事に。
大事に大事に、胸に抱えて走っていた。