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page19:入院、悪夢、夢の終わり


 入院した。

 その原因は、風邪をこじらせて肺炎になってしまったからだった。

「はぁ……」

 真っ白な病室の中、私は窓の外の景色を眺めて溜め息をつく。

 清潔感溢れた奇麗な空間といえば聞こえは悪くないが、結局のところそれはこの退屈な時間をどうにかしてくれるわけではない。

 規則正しい生活を強いられることは苦痛ではなかった。

 寝る時間と起きる時間が普段に比べていくらか早いくらいで、別に生活のリズムが大きく乱れるほどの影響じゃない。

 だからといって不満がないわけではなく。

 とりあえず例を挙げれば、とにもかくにも暇を持て余してしまって退屈で仕方がないということだろうか。

 肺炎とは言葉ばかりで、要するに安静にして時間が経てば自然と治るもの。

 だから、こうしてジッとしていることも治療の一環ではあるのだ。

 だとしても、頭ではそれを理解できたところで、結局退屈な時間はちっともなくなりはしない。

 一日の大半をベッドの上で過ごす生活は、はっきり言って飽きる。

 飽きるを通り越してストレスさえ溜まってしまいそうだ。

「退屈だなぁ……」

「こら」

 ペシンと、頭を雑誌で叩かれた。

「あた……」

「何言ってるのよアンタは。元を正せば自業自得でしょうが」

 と、母は隣のパイプ椅子に腰掛けて話す。

「それを言われると、グゥの音も出ないんだけど……」

「だったら、大人しく寝てなさい。ヘタに動き回られて余計な心配かけられるより、その方がよっぽど安心するわ」

「そうは言うけどさ。やっぱり……」

 退屈だよと続ける前に、母さんはすごむような視線で私を睨み返した。

「……はい。大人しく寝てます」

「よろしい」

 まぁ、仕方ないか。

 どれだけ退屈で暇で仕方なくても、確かにこうなった原因は他の誰のせいでもない。

 私の自業自得なのだから。


 その後しばらくして、着替えやタオルなどを持ってきてくれた母さんは仕事へと戻っていった。

 個室の中には私一人が取り残されることになる。

「雪、ずいぶん積もったなぁ……」

 窓の外は雪景色。

 昨日の夜の間も、雪は止むことなく振り続けたようだ。

 病院の裏手にある駐車場にも、雪はこんもりと積もっていた。

 停めてある車の何台かは、車体の色が雪のせいで白く塗り替えられてしまっている。

 一夜明けた翌日の昼、即ち今現在は、雪は降ってはいない。

 が、空は相変わらずの曇り空で、いつまた雪が再び降り出してもおかしくなさそうな空模様だ。

 風はないが、気温は昨日までと比べると一際冷え込んでいる。

 病院内はしっかりと暖房が行き届いているからそうは感じないが、一歩外に踏み出せば凍えそうになってしまうに違いない。

 そんなことを考えながら、私は昼過ぎの午後の時間をどうやって潰そうかと考える。

 できることは限られてくる。

 外出は当然できないし、病院内を歩き回ったところで別に楽しいこともないだろう。

 することといえば、ラジオや音楽を聴いているか、読書にふけっているかくらいのものだ。

 そのどれもが、自然と眠気を誘うであろうことは言うまでもない。

 そうとは分かりつつも、私も母さんに何冊か雑誌を持ってきてもらっていた。

 入院翌日から病院内を徘徊するのもあれなので、とりあえずは読書でもして大人しくしておくことにしよう。

 雑誌を一冊手に取り、パラパラとページを捲る。

 文字に目を落とすその前に、もう一度窓の外の空を見上げた。

 濁った灰色のような空だった。

 今もまだ意識を取り戻さない空は、夢の中で何を見ているのだろう。

 夢の中で見上げた空は、何色?

 今みたいに、どんよりと曇っているの?

 それとも、すがすがしいくらいの青空?

 答えが帰ってこないと知りながら、私は胸のうちで問いかけた。

「……早く、起きなよ。ネボスケ……」




 集中治療室の中は無人だった。

 いや、厳密に言えば無人ではない。

 見たこともないような医療器具に囲まれた中、空は一人、ベッドの上で眠っている。

 その体のあちこちには、医療器具から伸びた赤や青のコードが繋がり、端から見ればそれは治療というよりもロボットが修理を受けるため、一時的にその機能を停止させられているような状態だった。

 とはいえ、その表現もあながち間違っているというわけでもない。

 実際、空は今生物としての最低限の機能だけをして冬眠しているようなものなのだから。

 よくよく見れば、わずかに上下する胸が分かる。

 それに合わせるように、心電図の波を打つラインが電子音を共に走っていた。

 部屋の中は昼間だというのに、真夜中のように薄暗い。

 カーテンは全て締め切られ、当然灯りもついてはいない。

 消毒液の匂いが鼻をつく室内には、定期的なチェックをしにくる医師や看護婦以外の出入りもない。

 一般病棟から少し離れ、隔離された空間。

 廊下から誰かの足音が聞こえてくることさえ稀で、ここはやたらと静寂が満ちていた。

 そんな中、空は時々何かに名前を呼ばれるような感覚で、一瞬だけ意識を取り戻していた。

 とはいっても、わずかに目が開きそうになる程度で、とてもじゃないが目を覚ますという表現が適切ではないだろう。

「…………」

 意識が戻っても、言葉一つ口にする力もないし、体も指一本すらまともに動かせない。

 だが、そのときだけは不思議と痛みから解放されていた。

 まるで、見えない何かがそっと痛みを取り除いてくれているかのような感覚。

 それが何なのかは空にも分からない。

 けど、それはとても懐かしい感覚だった。

 いつかどこかで、当たり前のように感じていられた、そんな感覚。

 暖かくて、優しくて、それでいて心が安らぐような……。

 できることなら、いつまでもそのまどろみのような安らぎの中に。

 できることなら、いつまでもその温もりのような暖かさの中に。

 身を委ねていたい。

 包まれていた。

 けど、そう思うたびに、いつもそうだ。


「ニャア」

 と、そんな猫の鳴き声が一つ。

 聞こえるはずのない悲しい鳴き声が、空の意識をかき乱す。

 いい加減に鬱陶しい。

 邪魔をしないでほしい。

 頭ではそう思っているはずなのに、不思議とそれは言葉にはできなくて。

 それは、言葉が出ないからという理由ではなく。

 あえて理由を述べるのなら、それは心が拒絶していたからだろう。

 そんな言葉を吐きだしそうになるたび、胸のどこかが締め付けられるように苦しくなった。

 心の奥で、誰かがそっと告げている。

 それは違うと、告げている。

 それは、真っ白な記憶だった。

 まだ、何色にも染められていない、無色に近い白の頃。

 確かにそこには、幸せと優しさと温もりがあって。

 寄り添ったその場所は、いつも陽だまりのように暖かで。

 怖い悪夢を見たことを、すぐに忘れさせてくれるような安心感があって。

 そして、そして……。


 ――何物にも変えがたい、大切な居場所だったんだ。


「だから、目を覚まさないと」

 ふいに、誰かが空の耳元で囁いた。

 しかし、今の空にそれが誰の声か確認することはできない。

 意識は今も途切れかけたまま。

 自分の心臓の鼓動さえも、虚ろにしか感じられない。

「君の居場所は、こっちじゃない。ちゃんとそこにあるから」

 誰かの声は続ける。

 不思議とその声に不快感は沸かず、むしろどこか安心させられるような感じだった。

 かつて一番近くにあった、大切な居場所に少し似ている。

「今はもう、なくなってしまったかもしれない。それでも、君にはまたできる。大切な場所、失くしたままで終わらないで」

 誰かの声はか細く弱い。

 まるで泣くのを必死で堪えているかのよう。

 ただ、それだけにどこかこう……。

 胸の奥にある大切なところに、響くものがあるような気がして。

「悪夢の時間を終わらせよう。何色の現実でもいいから、受け入れるんだ。そうすればきっと、君は僕が辿り着けずに終わった本当の未来に行き着くことができるはずだから……」

 言葉は儚い詩となり、心のどこかに溶け込んだ。

 冷たくも暖かくもない。

 けど、ただ一つ、それは。


 ――世界で一番大好きだった人と、同じ優しさを持っていた。


「さぁ、夢の時間はここまでだ。目を覚まそう。そしてどうか、終わらせること以外で始まる何かを、どうか…………」

 声が遠ざかっていく。

 手を伸ばそうにも、その手はまだ動いてくれない。

 声には出さず、しかし空は胸の奥で訊ねた。

 お前は、誰だと。

 すると、何となくだが。

 その誰かは、小さく振り返って微笑んでくれたような気がして……。

 答える代わりに、どこかで聞いたような鳴き声一つ。

「ニャア」

 そう、一つだけ小さく鳴いて。

 遠くへ。

 どこか、遠くへと歩き出していった。



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