page18:廊下、ランプ、雪の行方
深夜の病院というものは、こんなにも静寂がひしめいたいたものだったのか。
私は今、それをこれ以上ないほどに実感している。
各階に用意されている、小さな待合室のような場所で、私は一人で椅子に腰掛けていた。
時刻はもう夜の十一時を回っている。
病院内の設備はしっかりとしているものの、やはり廊下に面したこの場所はどこか肌寒い。
廊下を挟んだ向こう側からは、ナースステーションの灯りがぼんやりと見て取れる。
夜勤の看護婦さん達は、今も仕事に追われているのだろう。
「…………」
私はそこで、何をしているわけでもなかった。
ただ、待っている。
「……あの、大丈夫ですか?」
ふと気が付くと、横には一人の看護婦さんが立っていた。
「え?」
突然のことに、私はそう聞き返す。
「ここは冷えますから、向こうの室内で休んだ方がいいですよ? 風邪を引いてしまいますから」
「あ、はい。すいません……でも、大丈夫です。ここにいます」
「……そうですか」
看護婦さんも私の言葉の意図を汲み取ってくれたのか、それ以上無理に言うようなことはなかった。
「でしたら、これを使ってください」
そう言って手渡されたのは、一枚の毛布だった。
「風邪、引いちゃいますから」
そして小さく微笑んで、そのままナースステーションの方へ戻っていった。
「あ、ありがとうございます……」
そう言うと、看護婦さんは一度だけ振り返り、軽くお辞儀をした。
私は受け取った毛布に体を包んだ。
とっくに体が冷え切っていたせいか、常温の毛布なのにひどく暖かかった。
けど、どんなに寒くても不思議と体は震えない。
それは、寒さの影響で体が震えないという意味だ。
実際は、私の体は今も小刻みに震えを繰り返している。
その理由は……不安。
どうしようもない、例えようのないくらいの不安が、胸の内側でくすぶるように充満していた。
緊張とは少し違う。
いくら落ち着こうと頭の中では思ってみても、体が言うことを聞いてくれない。
心臓の鼓動が耳の奥まで響いて、時折必要以上に高鳴る鼓動に恐怖を覚える。
あれからもう、八時間近くが経過した。
しかし今もなお、手術中の文字を照らす赤いランプは消えていない。
「……空……」
ふいに、その名前を呟いていた。
大丈夫なのだろうか?
助かるのだろうか?
思い浮かんでくるのはそんなことばかりだ。
自分でもおかしいくらいに興奮状態が続いている。
誰かを心配してこんなことになったのは、多分生まれて初めてのことかもしれない。
そんなことを考えていると、廊下の方から足音が一つ近づいてきた。
「上杉さん、大丈夫?」
それは飯塚先生だった。
「……はい、平気です」
「無理はしない方がいいわ。あなただって、風邪だから病院に診察を受けにきたんでしょ? こんなところにいたら、余計にこじらせちゃうわ。それに、今日はもう遅いから、もう帰ったほうがいいわ。藤杜君には、私がついてるから」
「……平気です。私、もう少しここにいます。親にも電話で説明はしましたから」
「だけど……」
「…………」
先生は私のことを心配して言ってくれているのだろう。
それは分かっていた。
でも、私もちゃんと見届けるものを見届けてからじゃないと自分に納得ができない。
聞く言葉を聞いておかないと、ものすごく後悔しそうな気がしていたから。
直後のことだった。
廊下の奥に見えていた、手術中の赤いランプが音もなく静かに消えた。
それを視界の端で捉えた私は、反射的に椅子から立ち上がった。
私のその様子を見て、先生も同じく振り返る。
そして、手術室の扉が開いた。
中からは、手術用の緑色の衣服を身に着けた医師達が数人出てきた。
ドラマなどで見ることは多かったが、こうして目の前にするのは初めてだった。
私はすぐに廊下を走り出した。
消灯時間をとっくに過ぎ、走れば迷惑になると分かっていたが、それでも走った。
すぐ後に先生も続いていた。
「先生!」
私は走りながら、手術室から出てきた一人の男性に向かって言った。
「……あの、彼の……空の容態はどうなんですか? 手術は、成功したんですか?」
「君は?」
「あ、私は、その……」
慌て勇んだところで、結果がすぐに聞けるわけでもなかった。
私は空の家族でも何でもないのだから。
「先生、お疲れ様です」
「ああ、あなたは確か、彼が運ばれてきたときに同行してくださった……」
「皐月学院付属高等学校の保健医を務めています、飯塚と申します」
「保健の先生でしたか。これはどうも」
「先生、それで彼は……藤杜君の容態のほうは?」
「とりあえずは、手術も成功しました。命にも別状はありません」
「あ……」
それを聞いて、ふっと私は力が抜ける感覚がした。
「ありがとうございます」
「ですが、油断はできません」
先生は表情を厳しくし、続けた。
「危険な状態には変わりありませんし、しばらくは集中治療室で様子を見る必要もあります。全身打撲と左腕の骨折以外もそうですが、一番は頭の怪我ですね。後日レントゲンをとって、脳や頭蓋骨に何も以上が見られなければ、ひとまず安心していいでしょう」
「そうですか……」
「こんなことを言うのも不謹慎かもしれませんが、この程度で済んで彼は運がよかった方です。聞いた話では、彼が屋上から落下したとき、たまたま真下に除雪した雪の山があって、彼はそこに落下したそうじゃないですか。もしもそれがコンクリートの地面だったら、恐らく助かる見込みは極端に低くなっていたと思います」
「……雪、ですか?」
私は飯塚先生に向けて呟いた。
「ええ。雪がクッションの役目を果たしてくれたの」
「……雪が」
「とりあえず、今夜が峠とかそういうことはありません。ですから、お二人とも今日は家に戻ってよく休まれたほうがいい。私の目から見ても、お二人は相当疲れているように見えますよ」
「はい。ありがとうございます」
「では、失礼」
先生は手術用の手袋を外しながら、廊下の向こうへと去っていった。
「よかった……」
飯塚先生はホッと胸を撫で下ろし、安堵の表情を見せた。
「さ、私達も今夜はもう戻りましょう? 家まで送るわ、上杉さん」
「…………」
その言葉にも耳を傾けず、私は全く別のことを考えていた。
……雪が、クッションになって助かった。
ありえない話じゃない……けど、何かこう……違和感というか、それに似た何かを感じずにはいられない。
いや、そんなことはどうでもいいじゃないか。
空は助かったんだから、それだけでもう十分じゃないか。
……分かっている。
分かってはいるんだ。
けど、やっぱり何か、こう……。
「上杉さん? 上杉さん、大丈夫?」
「……え? あ、はい」
「やっぱり、疲れてるみたいね。早く帰って休んだほうがいいわ。それに、風邪もこじらせちゃうといけないし」
「あ、はい……そうします」
「行きましょう。送るわ」
そう言って、飯塚先生は一足先に廊下の奥に歩き出す。
私もそれに続き、ゆっくりと歩き出した。
「…………」
一度だけ振り返る。
今はもう、赤いランプは消えている。
……考えすぎかもしれない。
今はもう、空が助かった。
それだけでいいじゃないか。
そう自分に言い聞かせて、私は飯塚先生の後を追った。
ふと、窓の外に目が向かう。
雪が降っていた。
そういえば、今夜は一晩中降り続けるかもしれないんだっけ。
そんなことを考えながら、歩く足を急がせた。
……その、瞬間。
「……え?」
ニャア、と。
どこからか、そんな鳴き声が聞こえた気がした。
立ち止まり、周囲を見回す。
が、どこにも鳴き声を出した猫のような姿はない。
やはり疲れているのだろうか。
「上杉さん、エレベーターきたわよ」
「あ、はい。今行きます」
飯塚先生のその声に呼ばれ、私は足を急がせた。
……まさか、ね。
でも、そうだとすると……。
エレベーターで一階に降り、面会者用の通用口を抜けて外に出た。
「ちょっと待っててね。車回してくるから」
屋根の下、私は立ち尽くす。
暗い夜空を見上げ、思う。
「――……スノウ、どこに行っちゃったんだろ……」
鳴き声は、もう聞こえてこなかった。