page17:足跡、足音、生死の境
「ただいまー」
と、玄関からそんな声が聞こえて私は起きた。
「あれ、お母さん?」
いつのまにか夜になっていたのだろうかと思い、私は慌てて枕もとの時計に目を向けた。
が、示されている時刻は午後の三時。
とてもじゃないが、普段の母が仕事から帰ってくる時間ではない。
何かあったのだろうかと思い、私は部屋を出てリビングに向かった。
「お母さん?」
「あ、ただいまナナ。あー疲れた……」
「お帰り。でも、今日はやけに早くない?」
「え? ああ、この前の残業の分だけ、今日は早く終わったのよ」
ああ、そういえばこの前は泊り込みで仕事してたんだっけ。
「さて、これから買い物にも行かないといけないし、休む間がないわ」
「外、雪だしね」
「そうね。でも、天気予報じゃ今夜いっぱいずっと振り続けるらしいから、明日になったらどうなることやら……」
「私も、今日のうちに病院行っておいたほうがよかったかなぁ……」
「あ、そうそう。アンタ、具合はどうなの? 熱は下がった?」
「下がったといえば下がったけど、まだ少しあると思う。頭痛はなくなったけど」
「食欲とかは? 歩いててダルくなったりとか、ない?」
「それは大丈夫。食欲はまだあんまりないけど」
「そう。でも確かに、こんなことなら朝のうちに病院に行っておくべきだったわね。今夜ぶり返したりしたら、面倒だもの」
「……今からでも、一応行ってこようか? 今ならまだ、そんなに雪もひどくないし」
「……そうね。私も買い物があるし、途中まで一緒に行くわ。診察受けてる間に、私は買い物済ませてくるから」
「うん、分かった」
というわけで、私は部屋に戻って私服に着替え、寒くないようにコートを着込んでマフラーを首に巻いた。
近所には内科の病院がないので、少し歩いて大きめの病院まで行かなくてはいけない。
今の時間からだとギリギリ間に合うかどうかというところだけど……まぁ、何とかなるだろう。
私は母さんと一緒に家を出て、最寄のバス停に向かった。
やはり雪の影響もあってか、交通手段として用いられるバスの車内はいつもよりも倍近い人が乗車していた。
すし詰めとまでは言わないが、少なくとも席に座れるような状態ではない。
『次はー、総合病院前、総合病院前ー』
車内のアナウンスが流れ、そう告げる。
「じゃ、行ってくるね」
「転ばないようにね。診察終わったら、駅前の喫茶店にきなさい」
「うん」
バスが停車する。
人の波を掻き分けて進み、私は下車した。
もう目と鼻の先が病院の入り口だ。
除雪された道の上を歩き、私は中へと入る。
内科の受付で診察券を手渡し、番号札をもらい、あとは呼ばれるまでの間を椅子に腰掛けて待つ。
人の数はまばらで、ロビーはどこかシンと静まり返っていた。
中央に設置された大画面のテレビでは、ニュースが流れていた。
これといってすることもなく、ただ待つだけの時間。
テレビの横に雑誌類がいくつか積み上げられていたので、私はそれを読んで時間を潰そうと思い、席を立ち上がる。
そして、雑誌の一つを手に取ろうとしたそのときだった。
正面入り口ではない別の入り口から、ドタドタと何人もの足音が聞こえてきた。
それと一緒に、ガラガラと何かこう、何か車輪のようなものが回転する音まで聞こえた。
何事かと思って、私も音の方向に目を向ける。
「すいません、急患です。エレベーターを開けてください」
救急隊員らしき先頭を切る人がそう叫び、エレベーターに乗り込もうとしていた看護婦さんや一般の人は道を開けた。
事故か何かだろうかと、私は思った。
が、それよりも何よりも驚かされたのは。
「あれ? 飯塚先生……?」
急患を運んでいる人達の中に、どういうわけか私は先生の姿を見つけた。
「どうして先生が、一緒に……」
呟いて、途端に背中を寒気が走った。
理由は分からないけど、とてつもなく嫌な予感がした。
雑誌を取るとして伸ばしていた手の指先が、小刻みに震える。
「……っ」
私は何かに背中を押されたように走り出した。
ちょうどそのとき、先生達を乗せたエレベーターは上階へと移動していた。
パネルの点灯ランプを見上げ、到着した階が三階だと分かった。
私はすぐさま脇にあった階段を駆け上り、一気に三階まで駆け上がった。
「は、はっ……」
呼吸がうまくできない。
風邪を引いていることを差し引いても、疲れるのが早すぎる。
いや、そうじゃない。
この息切れは、疲労からきたものじゃない。
これは、多分……不安だ。
階段を駆け上がると、廊下の奥から先ほどと同じガラガラと言う音が聞こえた。
それを頼りに、私も廊下を走る。
「あ、病院内は走らないで」
途中ですれ違った看護婦さんに注意されたが、そんなことには構っていられない。
廊下を駆け抜ける。
突き当たり、そこを右折。
そこに……。
「……っ、はっ、はぁ……」
廊下に備え付けられた椅子に、先生は一人座り込んでいた。
両膝の上に両手を乗せ、その手はギュッと握り締められていた。
私はようやく走ることをやめて、ゆっくり歩いて先生の近くへ向かう。
人気のない廊下で、私の足音は嫌でも響いたのだろう。
数歩ほど歩いたところで、先生がふいに顔を上げた。
「あなた……上杉、さん?」
「……はい」
呼ばれ、私は答える。
そして先生の隣に立ち、静かに聞いた。
「……先生、どうしたんですか? 今運ばれた人と、知り合いなんですか?」
そう、運ばれたのだ。
私と先生が今いるのは、手術室の手前の廊下なのだから。
「……上杉さんこそ、今日は欠席だったのに。通院?」
「あ、はい。雪がひどくなる前に診てもらおうと思って……」
「……そっか」
「……先生、それであの……何か、あったんですか?」
「…………」
私の問いかけに、先生は答えなかった。
やはり聞くべきではなかったのかもしれない。
もしかしたら、先生の家族や親しい人が大怪我をして運び込まれているのかもしれない。
そうだとしたら、私は今とても辛いことを聞いていることになる。
「すいません、私、何も考えないで……」
「え? ああ、違うの。そうじゃ、ないのよ……」
私の意図を察してくれたのか、先生はきっぱりと違うと言い切った。
「じゃあ、どうして……」
聞いてはいけないのかもしれない。
けど、聞かずにはいられなかった。
聞かないと、私の中の不安がどんどん大きくなって、大きくなりすぎて破裂してしまいそうだったから。
「…………飛び降り、たの。屋上から……」
やがて先生は、絞り出したようなか細い声でそう言った。
「……飛び、降りた? 誰が……」
言いかけて、私はハッとなった。
……屋上?
それってつまり……学校の、屋上っていうこと?
ドクン。
私の心臓がふいに跳ねた。
鼓動が高鳴り、耳を塞いでもうるさいくらいに聞こえそうなほどに。
「……誰が、ですか……?」
私は聞いた。
聞かなければよかったかもしれないことを、聞いてしまった。
「先生、誰が……」
「……っ」
先生が息を呑む様子が分かった。
握り締めた手をよりいっそう強く握って、掠れそうな声を絞り出して、先生は言った。
「――…………藤杜君よ……」
「…………っ!」
その名前を聞いた瞬間。
あれほど高鳴っていた心臓の鼓動が、ピタリと止んだ気がした。
全身の体温がなくなっていくような感覚。
飛び降りた?
屋上から?
何のために?
疑問ばかりが頭に浮かんで、思考回路がまともに働いてくれない。
色んな言葉が、感情が入り乱れて、ぐちゃぐちゃになって渦を巻いていった。
やっとのことで私は、たった一言だけを吐き出した。
「――…………空……?」
名前を呼ばれた彼は、確かにここにいる。
薄暗い廊下の突き当たり。
閉ざされた、扉の向こうに……。
……なぁ?
俺、ちゃんと飛んだよな?
飛べた、よな?
「ニャア」
……あれ?
何だよ、お前……こんなとこにいたのか?
勝手にいなくなったと思ったら、ひょっこり帰ってきやがって。
ホント、自分勝手っていうか、わがままって言うか……。
自由、だよな、お前は……。
「ニャァ……」
どうしたんだよ?
何で、そんな悲しそうな声で鳴くんだよ?
「ニャァ……」
……やめろよ、お前らしくもない。
いつもみたいに、笑ってろよ。
……な?
「……ニャァ」
……理由は分からない。
けど、何となく俺にはコイツが……スノウが、俺に謝っているような気がした。
ごめん、って。
何度も、何度も。
……ああ、そういえば。
ふと思い出す。
あの白いヤツも、ずっと俺に謝ってたよな……。
お前ら、よく似てるよ。
特に……そう。
真っ白なとこなんか、そっくりだ。