page16:鳥籠、自由、白い世界
「うー、寒い寒いっ!」
麻紀はてのひらをすり合わせながら、保健室の中へ駆け込んだ。
「ハァ、廊下で長話なんてするもんじゃないわね。凍え死ぬかと思ったわ……」
大急ぎでお湯を沸かし、カップの中にコーヒーの粉末を入れる。
室内の暖房はしっかりと効いてはいるが、一度冷たさを覚えた体に熱はなかなか浸透しない。
「ん?」
ふと、麻紀はデスクの橋に置いてある紙束に目を向けた。
「ああ、これが今日の課題の分ね。どれどれ……へぇ、一応しっかりとやってるのね」
呟き、一ヶ所だけカーテンの閉じたベッドに視線を移した。
「あらあら。居眠りでもしちゃったわけ? もうすぐ放課後だっていうのに……仕方ない、ちょっとかわいそうだけど、起こしてやるか」
麻紀は歩み寄り、音を立てないよう静かにカーテンを引いて……。
「……あら?」
しかし、そこに空の姿はなかった。
シーツが少し乱れていて、掛け布団も中途半端に捲られている。
鞄は置いてあるので、無断で下校したわけではなさそうだ。
「トイレにでも行ったのかな?」
などと考え、カーテンを戻した。
間もなくして、沸騰したお湯がやかんをピーピーと騒がせた。
熱いお湯をカップに注ぎ、香りを楽しみながら、麻紀はコーヒーを口に含んだ。
空は屋上にいた。
今日はいつもに比べて、わずかばかりに風が出ていた。
風は降る雪を巻き込み、空の体のあちこちに白い粒をぶつけてくる。
もちろん、そんな程度は痛みにもなりはしない。
鬱陶しいとさえ思わなかった。
勢いこそ弱まったものの、一向に雪は止む気配を見せない。
徐々に降り積もった積雪は、今では十センチをこえようとしていた。
屋上の踊り場であるこの場所も、例外ではない。
空の足首まではすっぽりと雪に埋まり、じんわりとした冷たさが伝わる。
しかし、それも何も感じないことと同じだった。
空は今、そんなことなど一切気にしていない。
ただ真っ直ぐ、正面を見据える。
足跡一つ付いていない新雪の地面。
その向こう側にある、危険防止用のフェンス。
だがそれは、行く手を阻む障害としてはあまりにも稚拙だった。
「…………」
無言のまま、空は歩き出した。
それは、雪を踏むというよりも掻き分けて進んでいるという方が正しい。
地面を引きずるように、力ない様子で空は歩いた。
歩いて歩いて、白い地面の上に直線を引くように真っ直ぐ進んで、雪にまみれたフェンスに指を絡めた。
指先が冷え、凍てつく。
それにも構わず、掴んだフェンスを握り潰すように力を込めた。
奥歯がギリと鳴る。
例えようのない感情が、内側から噴出しそうなくらいに溢れ始めた。
俯き、目を閉じる。
夢の中の言葉が、鮮明に甦った。
――We can not fly.
僕達は、飛ぶことはできない。
……分かってる。
そんなこと、言われなくたって分かってるんだ。
分かってて、どうして……。
「……どうしてお前は、飛べたんだ……?」
絞り出した声は、雪と共に風がさらっていった。
分からない。
分かるはずのことが分からない。
何が正解?
何が間違い?
真実は何?
偽りはどれ?
正しさを証明するのなら、どうして空に身を投げた?
間違いを証明するのなら、どうして君はそこに居た?
最初から答えなんてどこにもないと、本当は分かっていたはずじゃないのか?
自由はないと、気付いて。
自由を求めて、消えて。
何もかもを失ってしまうのは、他の誰でもなく自分自身なのだと。
籠の中の鳥は、死の間際に何を思ったのか。
「分かってたんだろ? 本当は。分かってて、それでもお前は……飛んだんだろ?」
声が震えていた。
恐怖でも、寒さでもない。
それは、虚しさだった。
どうしようもないほどの、カラッポの感覚。
内も外もない。
表も裏もない。
あるのは……あったのはたった一つだけの逃げ道。
空は袖を捲くった。
左手の手首。
そこに、いくつもの切り傷の跡が生々しく残されている。
付き立てた刃の数だけ、消えない傷痕は刻まれ続け、死を感じるよりもまず、灼熱の痛みが体を駆けた。
いつも、そこまで。
弱く切り裂いても、強く切り裂いても、その先には何もない。
終わって、傷痕を見るたびに、なぜだか泣き出しそうになってくる。
自分で自分を傷付けたのに。
分かっていてやったのに。
それでも涙は、溢れてきた。
けど。
それももう、おしまいにしよう。
空はフェンスをよじ登り、向こう側に降り立った。
かろうじて立っていられる程度の足場。
もちろんそこにも雪は積もり、今はかなり滑りやすく危険な状態になっている。
高さはおよそ十数メートル。
落下すればケガ程度ではすまないし、打ち所が悪ければそれだけで死に至る可能性は十分にある。
空は決して下を見ない。
それは恐怖を克服するという意味合いのものではない。
下には嫌でも辿り着くことになる。
ならばせめて、空に落ちたときだけは上を見ていたかった。
「…………」
不思議と足は震えていない。
頭の中も、やけにクリアな気分だった。
こんな状況だというのに、どういうわけかすがすがしささえ感じそうなほどに。
空は静かに目を閉じた。
甦るのは、夢の中の言葉。
――We can not fly.but――――…………。
「……この、白い世界に…………」
ポツリ、詠うように空は呟いた。
言葉は風に溶け、空の涙になった。
「――この白い世界に、俺が羽ばたける空はありません…………」
そして。
空の体は緩やかに、空の中へと落ちていった。
バサ。
「わ……」
急に聞こえたその物音に、私はわずかに身を縮ませた。
しかしよく見ると、それはただ机の上に置いてあったノートが一冊、床の上に落ちただけだった。
「何だ、びっくりした……」
ベッドから降り、落ちたノートを拾い上げる。
と、そこで気付いた。
床に落ちたノートは、あのほんの間に挟まってずっと持ち続けていた、あの古びて色褪せたノートだった。
床に落ちた拍子で、ノートは見開きになっていた。
顔を覗かせたページは、一番最後のページだった。
そう。
あの、but……という言葉だけが小さく書き残されたページだ。
以前私は、そのあとに続く言葉を自分の手で書き込もうとしたことがある。
けれど、結局それはできなかった。
何となく、そこに何か言葉を書き込んでしまったら、それで終わってしまうような気がしたからだ。
うまく言葉にはできないけど、こう……大切な何かが、そこで途切れてしまうような、そんな気がして。
「結局、このノートどうすればいいんだろ。誰が困るわけでもないとは思うけど……」
まぁ、考え込んだところで何も始まりはしない。
別に害があるわけでもないし、机の棚の中にしまっておいても問題はなさそうだ。
むしろ問題があるとすれば、それは……。
「うわ、まだ降ってるよ、雪……」
窓の外を見ると、雪は相変わらず降り続けていた。
もうずいぶんと積もっているんじゃないだろうか。
このまま一晩中降り続くようなことがあれば、明日の朝にはどうなってしまうのだろう。
今から不安で仕方がなかった。
「……ん?」
と、そんなときだった。
遠くで救急車のサイレンが聞こえた。
早速この雪の影響で、車がスリップして事故でも引き起こしてしまったのだろうか?
そんなことを思いながら、私はカーテンを閉めた。
「おい、聞いたか?」
「ああ。でもマジなのか? ガセじゃねぇの?」
「ガセでここまで騒ぎになるかよ。マジらしいぜ」
「ねぇ、やっぱ本当みたいだよ」
「ていうか、見た人いるんだって。その瞬間」
「でも、何で? やっぱり……自殺?」
そんな会話が校内のあちこちで囁かれていた。
もちろんその話は、嫌でも麻紀の耳に入る。
「藤杜君? 藤杜君しっかりして!」
「飯塚先生、落ち着いてください。それに、無理に動かして傷が広がりでもしたら……」
「分かってます! 分かってますけど……っ!」
他の教師の言葉も虚しく、麻紀は終始取り乱したままだった。
この場にいる誰よりも、麻紀はわけが分からない。
どうして、どうしてこんなことに……。
麻紀の腕の中、空は意識を完全に失ってぐったりと横たわっていた。
頭からは出血もしており、素人目に見ても非常に危険な状態だ。
「何で……どうしてこんなことに……藤杜君……」
取り乱し、涙が流れる。
間もなくして、ようやく救急車が到着した。
同時に鳴り響いたチャイムが、まるで教会の鐘の音のようだった。