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page15:ごめん、ごめん、ごめん


 空が保健室に戻ってきたとき、室内は無人だった。

 ただ、デスクの上に飲みかけのコーヒーカップが置いてあったので、麻紀はトイレかどこかにいっているのかもしれない。

「さて、と……」

 書き終えたプリントの束をデスクの端に置く。

 こうしておけば、あとから麻紀がそれらを担当教化の教師に渡してくれることになっているのだ。

「どうするかな……」

 珍しくやるべきことが早くに終わり、思いのほか時間をもてましてしまう。

 かといって、一応は規則なので、放課後になる前に勝手に下校することは許されない。

 もっとも、この積もりかけの雪の中を自転車を引きずって帰るなど、想像しただけで全身が疲れてしまいそうだ。

 放課後まであと一時間。

 半端ではあるが、一眠りしてしまおうか。

 どうせ他にやることもないしなと、空はベッドに向かった。

 靴を脱ぎ、真っ白なベッドの上に横になる。

 ずっと活字を眺め続けていたこともあって、思いのほか睡魔は早くやってきた。

 制服がしわになるのも構わずに、そのままゆっくりと目を閉じる。

 まぶたが下がり、視界が徐々に暗転していく。

 暗闇に閉ざされるのに、そう時間はかからなかった。




 それは。

 夢なのだろうか?

 ……多分、いや、恐らくは夢……だと思う。

 暗い闇に包まれたその場所が、眩しいくらいに照らされる。

 光か、日差しか。

 やがて、黒が消え、白が全てを包み込んだ。

 目を開ける。

 しかし、そこはまだ夢の中。

 現実ではない。

 目を開けると空は、屋上にいた。

 いつも空を見上げている、給水塔の隙間。

 学校で、空に一番近い場所。

「……あ、れ?」

 無意識のうちに空を眺めていた自分に気付き、空は意識を取り戻した。

「ここ……屋上か? 何で、こんなとこにいるんだ? 俺、保健室で寝てたはずじゃ……」

 呟き、ゆっくりと周囲に視線を向ける。

 屋上一帯は真っ白に染め上げられ、白く雪化粧していた。

 うすらと積もった雪の上には、誰の足跡もつけられておらず、純白の絨毯は今もなお降り続く雪によって、少しずつ厚みを増していっている。

 目の前を、チラチラと舞いながら白い雪が落ちてくる。

 時折眩しいくらいに輝くそれらの姿は、蛍火のような尊さを感じさせる。

 降り、積もり、やがては溶けて消えるもの。

 命あるものに当てはめれば、それはあまりに一瞬すぎる生涯だ。

「……ん?」

 ふと、空は視界の端に何かを捉えた。

 舞い降る雪に視界を遮られてはっきりとは見えないが、それは誰かの後姿のようだった。

 不思議に思って、空は給水塔の上から降りる。

 雪の上に着地すると、サクリという柔らかい音が聞こえた。

 純白の絨毯の上に、空の足跡が刻まれていく。


 サク、サク。

 足音が雪を踏む。

 そして空は、屋上の真ん中に立った。

 その、真正面。

 誰かの背中は、確かにそこにあった。

 降る雪は白く、積もる雪もまた然り。

 そんな白い世界の中で、その誰かもまた、世界の中に溶け込んでいくかのような真っ白な衣装に身を包んでいた。

 ただ、その髪の毛だけが唯一の黒で、まるでここは色褪せたセピア色の写真の中のようだった。

 空は声をかける前に、もう一度目を凝らす。

 そして、気付いた。

 そこにいる誰かは、安全用のフェンスを乗り越えた向こう側にある、本の少しだけの狭い足場に立っていることに。

「お、おい!」

 慌て、空は声をかけた。

「何やってんだ! そんなとこにいて、落ちでもしたらどうすんだ!」

 反射的に体が動いていた。

 小走りに駆け寄り、フェンス越しに手を伸ばそうとしたその瞬間。

 白い誰かが、こちらを振り返った。

「……っ」

 振り返った姿は、少年の姿だった。

 外見だけで見れば、年も空と同じくらいだろうか。

 彼は、白い上着に白いズボン、さらには白い靴を履いてそこに立ち尽くしていた。

 寒さなど微塵も感じさせない様子だが、それとは裏腹に、彼の目は氷のような冷たさを携えていた。

「…………」

 振り返った彼は、空と目が合う。

 が、その口は微動だにしない。

 ただじっと、冷ややかな視線を向けるだけ。

 それは嫌な意味のものではなく、どちらかというと悲しみや辛み、痛みの色が濃く滲み出ているように見えた。


「っ、おい、何やってんだよ。危ないから、早くこっちに戻れよ」

 どうにか声を絞り出して、空は告げる。

「…………」

 しかし、対する彼は反応を示さない。

 一度静かに目を閉じると、すぐまた背を向けて元の方向に向き直ってしまう。

「聞いてるのか? 何考えてんだよ。早く戻れって。そのままじゃ、本当に死」

「……いいんだ、これで……」

 初めて彼が口にした言葉は。

 その目の色のように冷たく、低く、何もかもを凍りつかせてしまいそうなほどに悲しい音色だった。

「な、に……?」

「そのために、僕はここにいる。死ぬために、こうしてここにいるんだ」

 はっきりと、彼は言い切った。

 何のためらいもなく、何の感情もこもっていない、色も熱も持たないうわべだけの言葉で。

「何言ってんだ、お前……」

「……もう、遅いんだ。手遅れなんだよ。だって、僕は知ってしまった。今の僕が自由になれる、たった一つの簡単な方法を」

 それが、死を選ぶことなのだと。

 言わずにして、彼は伝えた。

「……何、言ってんだよ。そんなわけないだろ? 死んだらそれで全部終わりじゃねぇかよ! 分かってんのか?」

「分かっているよ。だって、僕はずっと終わりを探していたんだから」

「え……?」

「……ずっと、いつも思ってた。僕の世界に、自由なんて一つもなかった。あるのは束縛と苦痛だけで、いつも鳥籠の中に閉じ込められていた。手を伸ばしても届かない。助けを求めることも許されない。そんな自分を終わらせてしまいたかった……」

 彼はそっと空を見上げ、続ける。

「……こんなにも近くに、自由はあるのに。僕は一生かかっても、きっとそれを手に入れることはできない。だったら、自分から向かうしかないじゃないか。終わりを求めてもそれはやってこない。なら、僕自身が終わりになる。それで本当に、全部終わる……」

 だから、死も怖くはないと。

 白い背中が、無言で告げた。


「理解しなくていいよ。僕は多分、狂っているだろうから。けど、僕の意思だけは僕自身にも狂わせはしない。終わりにするんだ、ここで。帰る場所なんて、今の僕には何一つ必要ない」

「ム、ムチャクチャじゃねぇか! 何考えてんだよ? 自由になりたいから死ぬ? そんなの、どう考えたっておかしいだろ!」

「……そうだね」

「そうだねって、お前……」

「本当は、こんなことをしても自由にはなれないのかもしれない」

「分かってるなら……」

「それでも、だよ。僕はここにきてまで、自分の意思を曲げるつもりはないんだ。ごめん……」

「……っ、何で、俺に謝るんだよ! 謝るくらいなら、こっちに戻ってこいよ!」

「……ごめん」

「っ、だから……どうして……!」

「……うん。ごめん」

「……っ!」

 空はついに、何も言い返すことはできなかった。

 何よりもまず、自分の言葉に誰かの選択を変えるほどの力があるなんて、とても思えなかった。

 だから、もう奇麗な言葉を取り繕おうとはしない。

 がむしゃらなままでいい。

 言いたいことを、吐き出した。


 「――俺達は、鳥じゃないんだ。自由の空を飛ぶための羽根なんて、持ってないんだぞ……?」


「……うん。そうだね」

「分かってるなら、何で……」

「……We can not fly」

 ふいに呟いた彼の言葉に、空は言葉を止める。

「僕達は、飛ぶことはできない。なぜなら、僕達には空を飛ぶために必要な、羽根がないから」

「…………」

「We can not fly」

 繰り返す。

 そして、もう一度……。


 「――We can not fly.but――――…………」


 それが、彼の最後の言葉になった。

 最後の最後に、彼は空に向けてほんの少しだけ、微笑んだ。

 そして。


 ――二つの空を見上げながら、空の中へと落ちていった。


 空はフェンスにしがみつくようにして、必死で手を伸ばした。

 しかし、届くはずもない。

 白い少年が、雪と共に落ちていく。

 白い世界に、混ざり合うようにして落ちていく。

 どうして、だろう。

 その表情は、どうしてあんな風に……。


 ――安らかに、微笑んでいられるのだろう……?


 見下ろす彼の体が、小さくなっていく。

 なぜかどうしようもなくやるせない気持ちがこみ上げて、空はフェンスを掴む手に力を込めた。

 助けられなかった。

 助けることはできたはずなのに。

 それは義務ではないと分かっていても。

 どうしようもなく、悔しかった。

 雪の上に両膝をつく。

 不思議と、冷たさは感じない。

 行き場を失った怒りと悲しみが混濁して、目頭に何か熱いものを感じた直後に。

 夢の時間は静かに、終わりを告げた。



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