page14:鳴き声、悲鳴、助けてと
暖房がいい感じに眠気を誘う。
授業中であるこの時間、図書室の中はがらがらに空いていた。
その片隅のテーブルに座り、空は課題のプリントを辞書を捲りながら片付けている。
ようやく最後の一問を解き終えて、空はグッと背伸びをした。
「っと、ようやく終わったー……」
すっかりだるくなってしまった体を動かして、分厚い英和辞典を閉じる。
ふと壁の時計に目を向けると、昼休みが終わってから一時間半近くが過ぎていた。
今の時刻は二時半を少し回ったところ。
放課後まではもうあと一時間くらい時間が残っていた。
普段なら残りの時間を読書でもしながら消化するところだが、今の眠気では最初の一ページを読み終える前に居眠りをしてしまいそうな気がする。
ここは大人しく保健室に戻り、少し休んでおくべきだろうか。
とにもかくにも、一度図書室を出ることにした。
借りた英和辞典を元の場所に戻し、書き終えたプリントの束を抱えて空は廊下に出た。
「寒っ!」
長い間暖房の効いている室内にいたせで、外気の冷え込みはひとしお強く感じられる。
まるで背中に氷の塊を入れられたみたいだ。
息を吐くと、それは白く濁って溶けるように消えた。
思わず肩を竦ませ、空はさっさと保健室に向かうべく、無人の廊下を小走りに歩き出す。
歩きながら窓の外に目を向けてみると、雪はまだ降り続いていた。
勢いこそ昼前に比べれば弱まってはいるものの、すでに積雪は十センチ近くに達している。
体育館へと続く渡り廊下のところには、誰かの足跡がくっきりと残っている。
「これ、やばくね? 自転車押して帰ることになりそうだな……」
そんなことを呟きながら、突き当たりの廊下を曲がる。
間もなくして階段が見えてきて、空は寒さに耐え切れずにさっさとその階段を下りようとした。
と、そのときになってふと思い出す。
「アイツ、大丈夫かな?」
空は上に続く階段を見上げて、そんなことを呟いた。
昼休みになったとき、空は真っ先に屋上へと向かった。
スノウが心配だったからだ。
寒さももちろんだが、雪まで降ってきたらさすがに厳しいんじゃないかと思い、様子を見に行った。
屋上へと続く扉を静かに押し開けると、その地面にもすでにうっすらと雪の絨毯が出来上がっていた。
もちろん、その雪の上にはまだ誰の足跡もなく、新雪そのものの状態だった。
上履きのままその雪の上を踏みしめて、空はいつもスノウが寝ている場所を覗いてみた。
が、そこにスノウの姿はなかった。
どこに行ったのだろうと思い、周囲をくまなく探したものの、やはりその姿を見つけることはできなかった。
まさか校舎の中に潜り込んでしまったのかとも思ったが、どう考えてもこの鉄の扉を猫一匹の力で開けられるとは思えない。
とすると、誰か見回りにでもやってきた際に中に潜り込んだのだろうか?
そうだとしても、校舎内に猫がいたら誰かしらの目に付くはずだ。
騒がれればスノウも警戒して逃げ出すだろうし、そうなれば生徒達の間で少なからず話題に上がっておかしくない。
だとすると、本当にスノウはどこに姿をくらましてしまったのだろう。
空も不思議に思ったが、それ以上深く考えることはやめにした。
なぜかというと、理由は実に簡単だ。
こんなことがあったのは、今回が初めてではないからだ。
過去にも数回……といっても、スノウと出会ったのはほんの一ヶ月ほど前だが、それから今日までの間にも何度かこんなことはあった。
最初はどうにかして逃げ出してしまったのだろうと思ったのだが、次の日屋上へやってくると、スノウは何事もなかったかのようにそこにいて、小さく鳴いてじゃれついてきた。
どこに行ってたんだと聞いたところで、スノウは小首を傾げるだけ。
結局のとところ、スノウがどうやって屋上からいなくなり、どこへ行き何をして戻ってきたのかは一切不明。
それでもとりあえずは、ケガをしたりしているわけではないのでそれでもよかった。
しかし、さすがに同じことが何度も続けば不思議にも思えてくる。
どこで何をしているかはいいとして、どうやって屋上からいなくなっているのか。
これは気になって仕方がないというのが本音だ。
仮にもここは屋上だ。
地面までの距離は軽く十メートル以上ある。
人間が落下すれば大怪我は間違いないし、打ち所が悪ければそのまま死んでしまうことだってある。
猫だってそれは同じだろう。
いくら身のこなしがよくても、さすがに無傷というのは無理がある。
まぁ、小さなとっかかりや足場を駆使しているのかもしれないが。
もしかしたら、もう戻っているだろうか?
そんなことを思い、空は寒いのをガマンして階段を静かに上がっていく。
幸い今はまだ授業中なので、誰かに見つかるということはまずないだろう。
ただでさえ普段から鍵のかかっていない場所なのだ、今更見回りなどするとも思えない。
そして案の定、いつもと変わらずに扉の鍵は開いていた。
氷のように冷たいドアノブを握り、扉を押し開けた。
廊下の冷え込みとはまた違う冷たさが、空の全身に吹き付けた。
「っ、冷て……」
思わず目をつぶりたくなるほどの寒さ。
長居はせずに、確認だけ済ませたらすぐに戻ることにしよう。
「おーい、いるかー?」
と、空は軽く声をかけてみる。
しかし、いつもなら聞こえてきそうな鳴き声はまだ返ってこない。
やはりまだ戻ってきていないのだろうか。
一応給水塔の上も確認するべく、空はその場で跳び上がり、ふちを掴む。
懸垂をするように体を引っ張り上げ、首から上だけでその場所を覗いた。
が、やはりスノウの姿はない。
寝床代わりに用意してやった小さな段ボール箱の中も空っぽのままだ。
「っと、まだ戻ってないか……」
着地し、手に付いた雪を払いながら空は言う。
「どこで何してんだかな、アイツは……」
念のためゆっくりと屋上の全景を見渡すが、そこにもスノウの姿はない。
真っ白な体だから、もしかしたら積もった雪と同化して見落としているんじゃないかと思ったが、そういうわけでもないようだ。
「……いいか。どうせ明日になれば、またひょっこり顔を出すだろ」
こんなことは一度や二度じゃなかった。
だからそうなるに決まっている。
空はそう決め付けて、校舎の中に戻って扉を閉めた。
と、そのとき。
「……ん?」
すいに視界の端に、何かが映りこんだ気がした。
慌てて閉じかけた扉を再び押し開けて、景色に目を凝らす。
一瞬だが、それは確かに見えた。
屋上の一番向こう側。
扉から真正面に見えるその場所の、フェンスを越えた向こう側のわずかな足場のところに。
――行儀よく膝を折り、灰色の空を見上げる白猫の姿が見えたような気がして……。
しかし、何度見回してもその場所には何の姿もなく。
それもやはり、降る雪が一瞬だけそんな形をして映っただけなのだろうと、空は自分にそう言い聞かせた。
「……気のせい、か……」
そしてもう一度、静かに扉を閉める。
階段を下りるその前に、もう一度確認しておくべきかと悩んだが、寒さがそれをさせなかった。
空はそのまま階段を下り、保健室へと急いだ。
「――ニャア……」
と。
そんな風に鳴く声がしたことを、空は知らない。
その声は、確かに扉の向こうから。
降り続ける雪が積もる、その場所から聞こえていた。
同時刻、上杉家の一室……七緒の部屋の窓の外には、来客が来ていた。
「……スノウ、だよね?」
「ニャア」
肯定の意味で、白猫は小さく鳴いた。
「何でこんなとこにいるの? ていうか、どうして私の家が分かったんだろ……」
何だかおかしなことになっている。
着替えを終え、汗をかいた服を洗濯機に入れて戻ってくると、窓の外の小さな足場に一匹の白猫が座っていたのだ。
私は最初、それは近所の野良猫が迷い込んだのかと思ったが、真っ白なその姿は確かに見覚えがあるものだった。
窓を開けて見ると、それは間違いなくスノウだった。
屋上に住み着いた、雪の名を持つ白い猫。
どうしてこんなところにいるのだろう?
「抜け出してきたの? って、屋上からどうやって下りたんだろ……」
「ニャア?」
スノウは何も分からないように首を傾げるが、何も分からないのは私のほうだった。
まぁ、抜け出した云々についてはこの際どうでもいいとして、一体どうしてここに……私の家にやってきたのだろう?
「何で、こんなとこにいるの?」
聞いて分かれば苦労はないだろうと、私は内心で自分に突っ込みを入れる。
でも仕方ないだろう、この場には私とスノウしかいないのだから。
「ニャア……」
スノウはどことなく寂しいような、悲しそうな声で小さく鳴いた。
「……そうだ。アイツは? 空はどうしたの?」
「……」
「お腹減ってるとか? って、それだけで私の家を嗅ぎつけたとしたら、相当だよね……」
「……」
しかし、スノウは答えない。
言葉を期待しているわけじゃないけど、鳴くことさえしなかった。
「……スノウ、何かあったの?」
「……ニャア」
反応があった。
しかしその鳴き声は、本当に今にも泣き出してしまいそうな、そんなか細い一声だった。
「スノウ?」
呼びかけると、スノウはふいに伏せていた顔を上げ、真っ直ぐに私のことを見てきた。
その視線は、何かを訴えているようにも見える。
けど、私には動物の言葉なんて理解できない。
何となく、何となくなら気持ちを理解することはできるかもしれないけど、今はできそうにもない。
「……何か、あったの?」
もう一度聞く。
スノウは視線を逸らさず、しかし答えることもなかった。
最初から分かっていたことだが、お手上げだ。
何を言いたいのか分かるわけがない。
そうしているうちに、スノウは私から視線を外した。
そして未だに雪が降り続けている灰色の空の向こう側をぼんやりと眺め、もう一度私に向き直る。
そして、もう一度だけ鳴いた。
「……ニャア……」
「……え?」
私がそう呟いた直後に、スノウは器用に地面へと着地し、そのまま駆けていってしまう。
小さな足跡が、道の向こうに向かって点々と続いていた。
「スノウ、今……」
それは気のせいだっただろうか。
それにしてはやけに鮮明だった。
最後の最後、小さく鳴いたスノウの鳴き声。
それが、どうしてか分からないけど、私の耳には……。
――……助けて。
と。
そう聞こえたような気がした。
もちろん、猫は喋ったりなんかしない。
そんなはずはない。
正真正銘、あれは鳴き声に過ぎなかった。
……でも。
それでも。
確かに、そう聞こえた気がしたのだ。
切実に、まるで祈るように囁いたその言葉が。
「助けてって……ねぇ、スノウ、何があったの……?」
問い返しても、そこにもうスノウの姿はない。
点々と続く小さな足跡は、降り続く雪によって少しずつ埋め尽くされていこうとしていた。