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page12:風邪、コーヒー、ゲンコツ


 結論から言おう。

「……風邪引いた……」

 頭がボーっとして、のどが少し痛くて、鼻づまりを感じ、体の節々が痛み、手の中の体温計がどこからどう見ても三十八度四分の数字を表示しているのだから、誰がどう言おうとこれは風邪だ。

「ウッソ、マジで?」

 と、電話の向こうのヒロはそんな声を返してきた。

「マジもマジ、大マジです。ていうか、声で分かるでしょ?」

「ありゃありゃ、それはそれは……」

「……何か、ご愁傷様みたいな言い方だなぁ」

「ご愁傷様です」

「いや、そんな……」

 そんな会話を繰り返しながら、とりあえず私はヒロに今日は欠席するとの旨を伝え、ついでにそれを先生にも伝えておいてほしいと言っておく。

 一応母さんが学校へは電話してくれることになっているけど、まぁ念のためだ。

「そんじゃまぁ、ゆっくり休んで早く治しなよ? 期末も近いしさ」

「そうする。本当はゆっくり休んでるときじゃないんだけどね……」

「まぁ、こじらせて試験当日に歩けなくなって路上でぶっ倒れるよりはマシでしょ?」

「……すごく休んでおきたくなったよ。ありがと」

「いえいえ」

 電話の向こうでヒロはアハハと笑っていた。

 うう、他人事だと……って、他人事だよね。

「まぁ、そういうわけで。今日は休んでおくよ」

「はいはい、了解。ちゃんと暖かくして寝てるんだよ?」

「分かってますって」

「あ、そうだ。学校終わったらお見舞いに行くよ」

「え? いいよ、子供じゃあるまいし……」

「私こう見えて、なかなか寝付かない赤ん坊を寝かしつけるの得意なんだって。あ、そうだ。じゃあついでに放課後、図書室で何か寝かしつけるまでに読んであげる絵本でも」

 ブツッ。

 と、ボタンを押して私は通話をそこで中断した。

「さぁ、寝るぞ。夕方に訪問者が来ても平気で無視できるくらいにぐっすりと」




 ガラリと扉が開く。

「あら、おはよう」

「ども」

 空はいつものように保健室の扉を開け、半ば指定席になりかけている一番奥のベッドへと向かう。

 ベッドの脇に鞄を置いて、上着を脱いでハンガーに通して壁にかける。

「寒っ……」

 まだ朝早いせいだろうか、普段は暖房が効いている室内も、この時間はまだ肌寒さを覚えた。

「ああ、寒いなら別に上着脱がなくてもいいよ? 風邪引かれても困るしね」

「いや、上着着てるとそれはそれで暑苦しいんですよね。体が重くなるし」

「わがままだね君は……」

 小さく苦笑いし、麻紀は沸かしたお湯をカップの中に注ぎ込んだ。

 湯気が立ち上り、コーヒーの香りが鼻先を掠めて室内に広がる。

「ほい」

 と、予め二つ用意してあったカップのうちの一つを、麻紀は空に差し出す。

「あ、ども」

 受け取ると、じんわりとした熱さが冷えた指先を刺激してきた。

 一口含んでのどを通すと、味わうより前に熱さで口の中が軽く痺れてしまう。

「熱っ……」

「寒いのか熱いのか、はっきりしたまえ」

「……先生、絶対ふざけて言ってますよね?」

 何やら確信犯的な笑みを浮かべながら、麻紀も同様に淹れたてのコーヒーを一口含んだ。

「熱っ!」

「…………」

 もはや何も言うまいと、空は続けて二口三口とコーヒーを胃の中に流し込んでいく。


「っと、いけね……」

 ふと思い出して、空は鞄の中からそれを取り出して持ってきた。

 白く小さい紙袋の中に入っているそれは、錠剤の薬だ。

 袋を破り、中から浄財を取り出すと、空はそれを口に含んでコーヒーで流し込んだ。

「ああ、いつもの薬?」

「はい。先生も、目の前で飲んでくれたほうが多少は安心できるでしょ?」

「そりゃまぁ、そうなんだけどさ……」

 空が服用しているその薬は、精神安定剤の類のものだ。

 もちろん副作用などはないし、飲む量も決められた分だけしか使用していない。

 なぜそんな薬を飲んでいるのかと聞かれれば、それは飲む必要があるからだとしか答えようがない。

 当たり前だ。

 麻薬や覚醒剤などではないのだから、薬を飲む人間がなぜ薬を飲むのか、それは病気を治療する以外に他ならない。

 そう、これはあくまでも治療のためのものだ。

 が、どちらかというと空の場合、これは治療というよりも抑制という意味合いのほうが強い。

 それはどういう意味なのかというと……。

「……まだ、薬がないと厳しい?」

「……どうですかね。一応定期的に飲んでるんで、飲まなかったときのことは分かんないです」

「そりゃそっか……長く飲まないでいて、それがもし悪い方向にきっかけになったりでもしたら、それこそ元も子もないものね……」

「……自分でも分かってるんですけどね。薬にばっかり依存するのは、いいことじゃないってことくらいは。けど、本音を言うとやっぱり……」

「……だろうね。そりゃ不安にもなるよ」

 コーヒーを飲み干し、空になったカップをテーブルに置き、麻紀は言う。


 「――自分で自分を殺してしまいそうになる衝動なんて抱えてればね……」


 言われ、空は左の手首を右手で強く押さえ込んだ。

 ダメだ。

 見ればまた余計なことを思い出してしまう。

 痛むくらいに強く握り締めて、ハッと気付いて手を離す。

 体は軽い興奮状態になっていた。

 暖房ではなく、上昇した自分の体温で体は熱を帯びている。

「……ごめん、余計なこと言っちゃったね」

「いえ、別に。全部事実ですから」

「…………」

 それっきり、麻紀は口を開かなかった。

 何となく空気が重くなったのは空にも分かった。

 けど、それは別に麻紀のせいでは……かといって空のせいでもないのだが。

 なんとなくそんな空気が残ってしまう中で、ほどなくして予鈴を告げるチャイムが鳴り響いた。

「あ、いけない。そういえば職員会議だったんだっけ」

 空になったカップを水道で洗い流し、麻紀は慌しく動き出す。

「じゃあ私は職員室に行くから。あとはいつものようによろしくね」

「はい」

「それじゃ」

 軽く手を振って、麻紀は白衣を服の上に羽織りながら出て行った。

 やや乱暴に閉められた扉が、わずかに隙間を残して静かに閉じる。

 廊下から入り込んだ冷たい外気が背中を撫で、そのせいかふいに寒気がした。

 反射的に両腕で肩を抱く姿勢をとってしまい、そのときにわずかに制服が引っ張られ、左手の手首が肌を覗かせた。

 視線が向く。

 肌色の皮膚の上、幾重にも重なる線状の傷痕。

 ずいぶん前に、傷口は塞がったはずなのに……。

「……っ」

 掻き毟りたくなるその衝動を、奥歯を噛み締めて押し殺した。

 ジクジクと、塞がった傷痕の向こうから、収まったはずの熱い痛みが押し寄せてきているようだった。

 傷口が熱く吼える。

 痛みとよく似た別の何かが、体の内側から外に出ようとやってきているのが分かる。


 ――自殺の衝動。


 服用している薬は、それを抑えるためのものだ。

 実際に効果はあり、ここ一年の間は特に何事もなかったというのに。

 なぜ、今頃になって傷痕が疼く?

「……ちくしょう……っ!」

 吐き出した言葉は、たったそれだけ。

 悔いも苛立ちも、所詮は一瞬だけのもの。

 例外はなく。

 それは死にたくないという気持ちにも、反映されているのだから。

 そうでなくては、繰り返す理由が他にないだろう?

 どっちだ?

 どっちなんだ?

 生きたいのか?

 死にたいのか?

 ……誰でもいい。

 教えてくれないか……?


「いやー、降ってきた降ってきたー」

 ガラリと扉が開くのと、その声が聞こえたのは同時だった。

 空は首から上だけで入り口の方を振り返ると、そこには両手をこすり合わせる麻紀の姿があった。

「おかえりなさい」

「うー、寒い寒い寒い寒いっ!」

 今日は四回か、相当寒そうだな……。

 などと、空は内心で呟いた。

 まぁ、それも無理はないものだと分かっている。

 窓の外を見れば、グラウンドにはもううっすらとだが雪が積もっている。

 午前中……少なくとも十時過ぎくらいまでは雪は降っていなかった。

 が、十時半を回った頃からチラチラと雪は降り出したのだ。

 そんなに積もることもなさそうな勢いだったのだが、雪は次第に降る勢いを増していき、昼休みを目前に控えた十二時半現在では、目で見た感じでも積雪は五センチ以上になっていた。

「結構積もってきてますね」

「ん? ああ、ホントにねー。これ、夜までに積もりすぎて車動かせなくなったら困るんだけどなー」

「ご愁傷様です」

「いや、まだじゃん? まだそこまで積もってないじゃん? なのにもう決定事項?」

「心中お察しします」

「察しなくていいよ」

 笑いながら麻紀は答える。

 それにしても、だ。

「……積もりそうだな、これ」

 吹雪と呼ぶには全然足りないが、それでも雪の勢いは弱まろうとはしない。

 今年も例年通りに暖冬だと思っていたのだが、まさかこんなタイミングで降り出そうとは……。


「……あ」

 ふと、思い出した。

 スノウは大丈夫だろうか?

 どう考えても猫一匹の力じゃ、扉を開けて校舎の中に非難することはできないだろう。

 仮に千歩譲ってできたとして(そんな猫の姿は見たくもないが)、校舎内に入り込んだらそれはそれで大変だ。

 ……まぁ一応、給水塔の下には猫が隠れる隙間くらいはあるし、いきなり凍死するなんてこともないとは思うが……。

 やはり少しは心配にもなってくる。

 昼休みになったら一度様子を見てきたほうがいいだろうか?

 非常階段を使えば人目にも付きにくいだろう。

「どしたの? ボーっとして」

「……いえ、別に」

「あ、まさか君まで風邪引いたとか言わないよね?」

「まさか……って、君までってどういう意味ですか?」

「ああ、ほら、上杉さんよ。昨日の女の子」

「アイツ、風邪引いたんですか?」

「そうみたい。欠席の連絡がきてるからね」

「はぁ」

「ん? 心配?」

「何でそうなるんですか?」

「隠すな隠すな。いやー、若さだね」

「……何言い出すんですか突然?」

「いやしかし! 若さゆえに過ちを犯すものだ! 気を付けなくてはいけませんよ?」

 もはや何を言っても聞いてくれそうにないので、空は麻紀を放っておくことにした。

 したが、何やらからかわれた気分ではちょっとシャクなので、一言だけ言い返す……いや、聞き返してみた。

「ちなみに、先生」

「ん? 何かな? 相談なら乗って乗れないこともないよ……」


 「――先生、今年でいくつでしたっけ?」


「ああ、私? 私は今年で二十…………」

 ピシッと、時が凍りついたようなそんな音がした。

 いや、手にしたカップにヒビの一つくらいは入っているかもしれない。

 仕返し成功。

 そう内心で空が確信した直後に、昼休み開始を告げるチャイムが鳴り響いた。

 同時に。

 ゴツンと、空の後頭部を麻紀のゲンコツが仕留めた。

 しかも、結構本気で。



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