page11:冬の日、雪の日、出会った日
スノウは一人……いや、一匹、夜の空を眺めていた。
「ニャア……」
一つ鳴く。
見上げたそこには、真昼の青空の姿はもうどこにもなく、紺色と紫と黒を織り交ぜたような、強いて言えば夜色の空が一面に広がっている。
あちこちで切れかけの豆電球のようにチカチカと瞬く星は、遠くに広がる夜の街のネオンサインにどこか似ている。
夜空が濃すぎて、雲があるのかないのかまでの判別はつかない。
ただ、さきほどまで顔を覗かせていた半月が、今は半分しかないその姿のさらに半分を隠してしまっていることから見て、恐らく雲の中に隠れてしまっているのだろう。
スノウは行儀よく揃えた膝を折って座りながら、ただその夜空を見上げている。
時折、意味もなく尻尾を軽く仰ぐように振る。
屋上の踊り場の中の、給水塔の片隅。
学校という敷居の中で、一番空に近い場所。
そこから見る景色は、毎日見続けてもさしたる変化は望めない。
朝も昼も夜も、移り変わるのは空の色を覗けば季節くらいのもの。
ついこの前までは、足元に見える並木道いっぱいに桜の桃色の花弁が満開に咲き誇っていたかと思えば、あくる日にはそれらは新緑へと姿を変え、それに伴うようにうだるような暑い日々が始まった。
照りつける太陽の日差しを鬱陶しく思いながら、せめてもの抵抗にと灼熱の太陽を睨みつけてみると、それが効果を発揮したのだろうか、翌日から日差しは気持ちだけ柔らかくなり、吹く風には甘い香りが混じるようになった。
木々の葉は赤や黄色に色づき始め、昼の時間が急激に短くなり始める。
さらに時間が経つと、木々はほとんどの葉を枯れ落とし、裸になっていた。
生身をさらけ出したような枯れ枝は、やがて訪れる次の季節を待ちながら、木枯らしの中に立ち尽くす。
春が来て、夏が過ぎ、秋を経て、冬に至る。
四季の巡りには毎年、多少のずれはあるものの、ほぼ規則正しく巡回を繰り返している。
スノウがこうして同じ空を見上げるようになってから、これでちょうど十度目の冬を迎えたことになる。
十年という歳月は、言葉にしてみると途方もなく長い時間に感じるものではあるが、いざ振り返ってみればさほど大したことではない。
時間の流れなんてものはそんなもので、気が付けば十年や二十年という時間は昨日のことのようにも感じられる。
だが、それはあくまで過去を振り返るからであって、未来の話はそう簡単には割り切れない。
例えば十年後。
その頃の自分を想像してみろと言われて、誰が具体的な自分を描くことができるだろうか。
過ぎた時間に対して思うことと、これから過ごすであろう時間に対して思うことは全く違う。
たかが十年、されど十年だ。
それだけの時間があれば、世界は目まぐるしく変わる。
人も変わる。
気候も変わる。
変わらないものなんて、ほとんどない。
あるとすれば多分、その中の一つは……空だ。
もちろん、天気という変化は当たり前のように起こるだろう。
晴れの日もあれば雨の日もあるし、辺り一面曇り空に多い尽くされて、何となく心までグレーな気分になる日もあるだろう。
激しさを増した雨は雷を呼び、やがて雷雨となるだろう。
冬になれば雪も降るし、季節によっては台風がいくつも押し寄せることだってある。
それでも、空は変わらない。
変わらずいつも、そこにある。
見上げればそこにある。
青くどこまでも澄んでいるときもあれば、灰色一色に包まれるときもある。
夕方になれば淡いオレンジ色に染まるし、夜になれば暗い闇に覆われる。
それでも空は、そこにある。
誰もが見上げる、地平線より少し上の位置。
近くもなく、遠くもなく。
届きそうで、でも届かなくて。
手を伸ばす。
届かないと知っても。
その手を、上に。
何度目かのまばたきを終えて、スノウは視線を戻した。
夜はすっかり深まり、自分の真っ白な毛並みも夜の暗さの中では大した役にも立ちそうにもない。
見渡す夜景の中には、まだいくつもの家々の明かりが灯っている。
耳を澄ませば、名前も知らない誰かの笑い声が聞きえてくるかもしれない。
一度だけスノウは、今更ながらに冬の夜の寒さに身を震わせた。
「……」
鳴かず、遠くに空を見る。
それは頭上にある空ではなく。
この街のどこかで眠る、もう一つの空。
昔、といっても十年前。
つまり、昨日のようにも思える記憶の頃。
その日、一人の少年が空に落ちた。
落ちた少年は助からなかった。
硬く冷たい、冬の地面の上に全身を強く強く叩きつけられ、命を落とした。
それは当たり前のことだった。
人間は、それだけの力では空を飛ぶことなどできっこないのだから。
ならば、空に落ちた少年は、何を思ってその身を投げたのだろう?
幻にでも駆られ、自分の背中に翼でも生えたと思ったのだろうか?
いや、それは違う。
少年はもっと、単純で、純粋に、ただ一つのことを切に願っていた。
――自由になりたい。
少年の思ったことは、たったそれだけだった。
苦しかった。
繰り返す日常が、ただ苦痛だった。
だから逃げた。
けど、ただ逃げただけではいずれ連れ戻されてしまう。
絶対に連れ戻されない、捕まらない場所まで逃げる必要があった。
以外にも、そんな都合のいい場所はすぐ近くにあった。
見上げた空。
そこは、自由しかなかったのだから。
しかし結局、自由を追い求めすぎた少年はその命を落としてしまう。
一つの結末として、最終的に少年は自由になれたのだと、確かにそういう見方もできなくはないだろう。
だが、代償として失ったものが命では、それは全く意味がない。
自由とは、手に入れて、それを実感できなくては意味がない。
少年は確かに自由を手に入れた。
けどそれは、決して優しい結末ではなかった。
死して手に入れられるものなど、何もない。
それに気付くのは死んでしまってからだというのだから、もうどうしようもない。
とにもかくにも、だ。
少年は死んでしまった。
もう、少年はこの世界のどこにもいない。
少年は死に、時間という束縛から解き放たれた。
流れるだけの存在になった頃から、少年はずっと考えていた。
自分は正しかったのだろうか、と。
繰り返される自問と自答。
誰かに聞いて見ようにも、今いる場所には少年しかいない。
誰も答えてはくれない。
誰も教えてはくれない。
誰も助けてはくれない。
そんな、ある冬の日のことだった。
少年は、一匹の白い猫と出会った。
こんにちはと声をかけると、白猫はニャアと小さく鳴いた。
しかし、その声は驚くほどにか細く、弱々しいものだった。
見れば、白猫はその体のあちこちから真っ赤な血を流し、今もなお出血はとどまることなく続いていた。
このままでは、間もなくこの白猫も死んでしまうだろう。
かわいそうだとは思った。
けど、少年は何もできない。
助けることはおろか、触れることさえ……。
それでもただ見ているだけのことができず、無駄と理解しながら手を伸ばした。
するとどうだろう。
確かに触れた指先から、白猫の体温を感じ取ることができた。
ありえない。
そんなことは絶対にありえないはずなのに。
「ニャア……」
白猫が鳴いた。
悲痛な叫びは少年の耳に、一つの言葉となって届いた。
この白猫は、死の淵で今も叫んでる。
何度も何度も、叫んでる。
同じ言葉を何度でも繰り返して、消え往く命が尽きるその最後の瞬間まで、その言葉を叫び続けていた。
――死にたくない……生きたい。
その言葉を理解できたとき、何かが壊れた。
少年の中、胸の奥のそのまた奥の、心の隙間でずっとくすぶっていた何か。
向き合えなかった本心。
口に出せなかった言葉。
それが一気に爆発して、一瞬我を忘れた。
……ああ、そうだったんだ。
ふっと心が軽くなる。
気付かされたのか、思い出せたのか。
この際どちらでもよかった。
あの時の……少年が空に落ちて、死を迎えるまでの一瞬の記憶が甦る。
抜けていく力。
流れ続ける血。
冷たくなる体。
そんなものとも、もうすぐお別れ。
全部消え去ってしまうのだから。
あとはもう、目を閉じてわずかな苦痛に耐えればいい。
それで僕は、自由になれるんだから……。
……本当に、そうか?
…………。
僕は、あの時……。
――……嫌、だ……死にたく、ない…………死にたくなんか……ないっ……!
同じなんだ。
この白猫は、あの時の僕と同じだ。
救わなくちゃいけない。
助けなくちゃいけない。
使命感のようなものがこみ上げる。
僕は両手で、白猫を抱き上げた。
「ニャア……?」
命の灯は、まだ消えていない。
まだ、間に合うはずだ……。
後に呼ぶなら、それはまさに奇跡だった。
全てが終わった時、僕の意識は白猫の中にあった。
人間だった頃と比べて、視点がやたらと低い。
改めて自分の……白猫になった体を見回してみると、あれだけひどかった傷は全て塞がっていた。
手近にあった水溜りを覗き込んでみる。
一匹の白猫が、水溜りの向こうでも同じように覗き込んでいた。
不思議な感覚だったが、僕はそれに満足していた。
姿形は変わってしまったけど、今一度生きるということを、生きているということを実感できるのだから。
そして僕は、成すべきことを見つけるべく、歩き出す。
その途端に、目の前をチラチラと、舞い落ちる白いものがあった。
空を見上げる。
灰色の雲と灰色の空の隙間から、白い雪が降ってきた。
静かに、しかしだんだんと積もる雪は、やがてアスファルトの地面を薄い絨毯のように埋め尽くす。
その上に。
白猫の足跡がくっきりと、そしてどこか力強く、真っ直ぐに残っていた。
降り続けた雪により、翌日にはその足跡は全て新雪に上書きされて消えてしまった。
それでも、白猫はどこかへと向かって歩き出した。
それは、当てのない旅だったのかもしれない。
事実として、それから十年もの間、白猫は各地を点々と渡り歩くばかりだった。
成すべきことは、まだ見つからない。
そんな、旅立ちの日から十年目、十度目の冬を迎えた頃。
「お前、雪みたいに真っ白な体してるな」
白猫はとある学校の屋上で、一人の少年と出会う。
見た目は不良っぽい少年だったが、動物好きなのか、見た目以上にその手は暖かかった。
その暖かさは、そう。
まるで、十年前のあの日、白猫に触れたときのような……。
「よし。安直だけど、俺が名前をつけてやる。お前の名前は……」
そして、少年は白猫に名前を与えた。
白猫はその瞬間まで、名前などということは気にも留めていなかった。
自ら名乗れるわけでもないし、必要のないものだと思っていたからだ。
「――お前の名前は……スノウだ。雪みたいに白いからな」
その日。
白猫は名前をもらった。
名前の意味は、雪、だそうだ。
間もなく雪が降り出しそうな、冬の日のことだった。
名前をくれた少年は、スノウがまだ人間だった頃の自分に、少し似ているような気がした。