口煩い女
この作品は『シュールな日常』という短編集の内の一つです。
いつからだろう……。
当たり前の事が当たり前過ぎて、当たり前だとも思わなくなったのは………。
夢を追って……けれど時の流れは止まる事も無く、歳だけとって……。
けれど……。
「見つかったの? 仕事」
いつの間にか、それが当たり前になって……。
「いつまでもブラブラ出来る歳じゃないでしょ!? もう三十なんだから、早くしなさいよ!」
何も感じなくなる事さえも当たり前になる……。
「まったく! どうしてこんな当たり前の事が出来ないの!? みんなきちんと働いてるじゃない!」
また始まった……と俺は思った。
いつもの事とは言え、こう毎日繰り返されたのでは、いい加減ウンザリする。
まあ、こんなボロアパートで毎日ゴロゴロしている男がいれば、煩く言いたくなる気持ちも解らないではないけどね。
「求人を見る、電話する、面接を受ける、土下座してでも使ってもらう。 簡単な事じゃない! みんなそうしてるのよ?」
……簡単か?
そんなに簡単なら、仕事がみつからないって自殺する奴もいないだろう。
それに、みんながみんな土下座する訳も無いと思うが、そんな事を言って益々雰囲気を悪くする事も無いと思い、俺は黙ってそれを聞いていた。
「不況だからなんて言い訳にならないんだからね? こうして生きてるだけで、どんどんお金は出て行くんだから!」
そんな事、解りきってるっつーの……。
俺は頭の中で繰り返し響く声を聞くのが厭になり、着古したジャケットに袖を通すと、なけなしの金を握り締め、玄関と呼ぶのもおこがましいような土間へと移動した。
脱ぎ散らかしたままの、踵が潰れたスニーカーを引っ掛けて外へと出た俺の背中に、まだアイツの罵声が浴びせられているような気がして少し身震いがした……。
ホっと溜息をつくと、一瞬だけそれが白く染まった。
良い晩だ……。
月にはどんよりと雲がかかり、星なんか一つも出てない。
風も冷たいし……今の俺には、まさにうってつけの空模様だ。
そのまま町まで歩いて出て、以前は馴染みだったスナックへと入った。
「あら、いらっしゃ〜い」
安普請なスナックのドアを開けると、中からヤケクソ気味な営業用の声が俺を出迎えた。
そのまま俺は入り口近くのカウンター席に座り、煙草に火を点けた。
「お? 久し振りじゃねえか! なかなか顔見せねえから、死んじまったかと思ってたぜ!」
どこぞの田舎ヤクザを思わせるような男が、わざわざボックス席を立って馴れ馴れしく近寄って来た。
こいつ、何て名前だったっけ……?
確か何度か一緒に、ここで呑んだ事があるような気がする。
まあ、一緒に呑んだと言っても、たまたま席が隣り合ったってだけの事だが。
生憎と男に興味が無いので名前なんて憶えていない。
俺はまだそこまで堕ちてないんでね……。
「相変わらずシケたツラしてんな〜」
大きなお世話だ。
これでも俺は、あんたよりは女にモテる。
……訂正、昔はモテた。
今じゃ女なんて俺には見向きもしない。
そりゃあそうだろう……歳は食ったし、職が無けりゃあ当然の如く金も無い。
金が無いから身なりもそれなりだし、こんなのに興味を持つ女なんかいる訳が無い。
「そういう時には一発ヌいてスッキリしろよ!」
「ちょっと、早く何か頼んでくれない? うちは商売でやってるんだからね」
……すっかり自虐モードに入っていた俺は、ママの冷たい視線に晒されて、取り敢えず水割りを頼んだ。
水割り……と言うより殆ど水なんだよな、ここのは。
今までここで呑んで酔った事なんか無いもんな。
とは言っても、他の店で呑める程の金は無い。
「どうだよ、三万で口利いてやるぜ?」
さっきから煩いな、こいつ……。
何が三万なんだ? 新手の勧誘か?
こんな金持ってなさそうな男に言うって事は、闇金で借金でもさせようって魂胆か?
俺の内臓なんて売れやしないよ……ロクに食ってないからボロボロだぜ、きっと。
「ほれ、隅に座ってるあのネーちゃん……」
そう言って男が顎をしゃくった先のカウンター席には、寂しそうに独りで酒を呑んでいる女がいた。
身なりはそこそこ……まあ普通のOLって感じか。
太過ぎず細過ぎず、髪は長め。
結構好みかも……。
俺が見ている事に気付いたのか、女はこちらを見て軽く頭を下げた。
「俺が相手してやってもいいんだけどよ、カミさんにバレちまうと後々うるせえしな」
そう言って、男は厭らしい笑みを浮かべた。
はいはい、そうですか……ただ単にカミさんが怖いのね。
と言うより、あんたにカミさんがいるってのが驚きだよ……。
で、何で俺があんたに三万もの大金を払わなきゃいかんの?
口利くなんて言って……あんた、そりゃあ売春斡旋だぞ?
こんな事で逮捕されたくはないので丁重にお断りすると、俺は出された水割りに口を付けた。
……やっぱり水だよ、これ。
いい加減水っ腹になった所で、俺は店を出る事にした。
全然酔って無いけど、多少なりともアルコールを摂取したと、そう思える程度には身体も反応してくれたし。
あんな水割りの値段としては納得がいかない料金を支払うと、俺は来た時よりも冷え込んでいる外へと出た。
……一瞬の内に、体内のアルコールが逃げ出してしまったようだ。
寒さに負けるアルコールなんて、金を出してまで呑む価値無いよなあ……。
力無くジャケットの襟を立てて背中を丸めた俺に、
「どこか行かない?」
先程の女が声をかけて来た。
これって、いわゆる逆ナンってやつか?
でも周りには誰もいないし、俺を追いかけて店から出て来たんだろうし……まあ、そう思って間違い無いだろう。
三万円、払わなくて良かった。
払いたくても持ってないけど……。
ま、この後はお決まりのコースだ。
料金は彼女持ちだと言うので断る理由も無い。
久し振りだからどうかと思っていたけど、彼女の方は充分満足してくれたようで、金も要求されなかったのはラッキーだった。
怖いお兄さんも出て来なかったし……。
「鼻に付くのよね……もう一緒に暮らして長いしさ」
どうやら彼女の男は束縛するタイプのようで、いちいち細々した事にまで文句を言うのだそうだ。
解る……貴女の気持ちは、よ〜っく解ります。
「やって当たり前なんて言われた日には、もう何もかも嫌になっちゃうのよ」
益々よ〜っく解ります。
「ねえ、これからも時々会わない? 貴方、なかなかいいわ」
運が向いて来たのかもしれない……そう思った。
俺は適当な理由を付けてその場を辞すると、アパートへ戻る事にした。
明日は生ゴミを出す日だという事を途中で思い出し、コンビニで生ゴミ用の袋を買った。
ゴミを出すにも金が要るとは……何とも不条理を感じるな。
深夜なのでなるべく足音を立てないようにサビの浮いた階段を上り、そ〜っと自室のドアを開けた。
鍵なんて、かけた事が無い。
盗られる物なんて一つも無いんだから当然だ。
もっとも、もしここに泥棒が入ったら、入った泥棒の方がビックリするだろうな。
俺は、そんな事を考えて少しだけ笑った。
「こんな時間までどこほっつき歩いてたのよ! 仕事もしないで、よくお酒なんて呑めるわね!」
酒呑んで来たって判ってるなら訊かなきゃいいのに……。
「夢? そんな物でお腹は膨れないのよ!」
そう……金が無ければ生きられない。
当たり前の事だ。
「いつまでもそんな下らない妄想してないで、一円でも稼いで来なさいよ!」
下らない……か。
確かに周りから見れば、それは下らない事にしか思えないんだろうな……。
「アンタと寝るくらいならホームレスに抱かれる方がマシよ! アンタよりもお金持ちだものね!」
金が無ければ人間扱いされない……当たり前の事だ。
「ホントに……何でこんなに簡単な事が出来ないのかしらね!」
当たり前でなくてはいけなくて……。
当たり前でいようとしている内に、他人を傷付けても平気でいられるようになる……。
それは……けれど……。
俺は生ごみの袋を開けながら思った。
そうだよ……何も悩む必要なんか無いんだ。
現実を素直に認識すればいいんだ……。
『当たり前』 なんだと。
今、俺の足元には赤く染まった床に横たわる女が一人……。